2007.01.07.

 

使徒行伝講解説教 第79

 

――11:27-30によって――

 

 

 「その頃」という書き出しに始まる章句は、聖書に例が多い。時間的には大体その頃で、事柄の内容としては前に述べられた出来事と直接の関連がない、そういうことを語るのである。バルナバとサウロが盛んな伝道を展開し始めた頃、多分その暫く後、預言者たちがエルサレムからアンテオケに下って来た。
 先に、バルナバがエルサレムからアンテオケに来た。アンテオケ側から求めたわけではない。エルサレム教会の側で、バルナバのような人がアンテオケの伝道に必要であると判断して遣わした。この判断は全く適切であった。
 今度エルサレムから何人か預言者がアンテオケに下って来たのは、バルナバの時のような派遣ではない。では、彼らは勝手に行動したということか。勝手な行動と言うと誤解を招く。これは教会の決定でなく自発的行動であった。預言者たちは御霊に促されて、アンテオケ教会を助けるために来た。預言者はそのように自由自在に活動した。
 自発的だからいけない、と言うことは出来ない。むしろ当時このような各自の自由判断による行動が多かった。814節にあったように、ペテロとヨハネがサマリヤに行ったのはエルサレムの使徒の合議による派遣であったが、その後でペテロがルダ、サロン、ヨッパ、カイザリヤに行ったのは、エルサレムからの派遣でも示唆でもない。勿論、個人的興味ではない。御霊が命じたのである。ピリポが南方のガザへの道に赴いたのもそうであった。ただし、そのように御霊による自発的な単独の活動は、人を出し抜く隠密行動ではない。務めに関する全てについて務めの報告をすべきである。主の前に隠れていてはならないのだから、教会に対しても明らかになる。報告とか届け出をするということはなくても、オープンな行動として全教会に知られた。
 この時、預言者たちがエルサレムからアンテオケに下ったのも同様である。預言者は各自御霊を受けて自由に判断し、或る時は単独で、或る時は集団で行動する。アンテオケ行きも相談で決めたのではない。――霊的で自発的な行動だから、生き生きと活動出来たと言って良いかも知れない。しかし、このやり方で失敗することもある。そこで、制度化されて行ったのだと論じる人がいる。そして、制度化されるにしたがい、活力に満ちた伝道活動は生命を失ったのだとも言われる。そう思っている人は多いようだが、今こういう問題で議論しても余り意味はない。
 大事なことは第一に、御霊の働きとそれへの服従である。第二は、少し遅れて教会の秩序あるいは制度が立てられる。この秩序のもとに協力活動が生まれるが、第一と第二は期せずして見事に調和する。エルサレムからアンテオケに下って来た預言者たちの活動は、自己満足でも有難迷惑でもなく、アンテオケ教会を随分助けたし、エルサレムとアンテオケの教会間の協力関係は一段と進んだということがここで読み取れる。
 ただし、自発的な活動がいつもうまく行くとは限らない。さらに、御霊の導きだと主張されるが、欺きであった場合が古来少なからずある。また御霊の導きと言われるのは嘘でないとしても、人間のなす業には誤りが付き纏う。だから、教会のなす事業も計画も、規律を立てて、それに則ってしなければならないと考えられる。したがって、自発性や御霊の働きと共に、規則を守ることが必要だということになる。教会の歩みがこういう方向を取って来たことを我々は知っている。
 「御霊による自由」という名目が口先だけで、実際は空虚な思い付きだけで、なすべき精進は行われず、したがって実を結ぶことない、しかも実りのないのは全て主の御旨だったと説明される。だから第三者はおかしいと感じながら、口出し出来ないということがある。この危険を防止するために、秩序が考えられなければならないのは尤もだが、人間の立てた規則で御霊の働きを逼塞させることも稀ではない。
 ここはキチンと考えなければならない。本来、御霊は無秩序を生じるものではない。Iコリント1433に言われている通り、神は無秩序の神ではない。この点で後の世の教会は大きい過ちを犯した。
 御霊の与える衝動と、人間が頭で冷静に考える吟味とを対置させるのが間違いである。御言葉と御霊は一致するのだから、どういう所にその一致が見出されるかを読み取ろうと学び、この一致にひたすら仕えて行くのが務めの道である。それを導くのが「神を恐れる知恵」である。この知恵が教会で教えられていないため、信仰的建て前として、神を恐れるという原則を一応立てるが、同時に、人を恐れるという世俗的な考え方に屈してしまい、両者が混ぜ合わされ、相殺しあって、教会として無気力になるばかりでなく、この世の志ある事業にさえ見劣りするようなことが起こる。
 さて、「預言者」という言葉について説明が必要である。ここまでに預言者という言葉は使徒行伝で何回も出た。重要な意味がある。いずれも旧約の預言者のことであって、神から召しを受け、神の言葉を託せられて語る人である。彼らの語った言葉は、語られたことの証しとして、文書にされた。したがって、預言者が語ったということは、旧約聖書にこう書かれている、ということと重なる。そしてその預言はイエス・キリストによって成就された。だから、初期キリスト教会のメッセージの重要部分を占めるのは旧約の預言者の言葉であった。そして、キリストの来臨によって全ての預言は終結したことが確認されたので、預言者とは旧約聖書に記されている言葉を語った人、キリストを預言した人という理解がキリスト教会のうちに成り立つ。
 そういうものとして読んで来たのであるが、もういない筈の預言者がまだ活動している。混乱を起こさないようにしたい。今見ているのは、旧約預言者と別の意味のもの、新約時代の預言者である。キリスト教会の中に「預言者」と呼ばれる働きをする人が立てられるようになった。
 いつ頃そうなったのか。どういう認定によって預言者と呼ばれるようになったのか。正確なことは分からないが、今聞いているこの頃と割合近い時代であろう。エルサレム教会では、使徒たちの提唱によってこのような務めを立てることが始まり、他教会に広がったと考えるほかない。
 何をする人なのか。131節には、アンテオケ教会にこれこれの預言者や教師がいたと書かれているから、「教師」と大体同じような務めをしていたのであろう。すなわち、み言葉を教えたのである。そして、アンテオケでこう呼ぶようになったのは、エルサレムから預言者が来たことの影響である。
 エルサレム教会はキリストを基礎とし、12人の使徒を柱として建設された。指導者は「使徒」であり、それ以外は全て「弟子」と言われた。教会にはこの二種類しかなかった。しかし、弟子の中から、バルナバとか、ステパノとか、ピリポというような人が御言葉を伝える務めを始める。「預言者」もそのような人たちであったが、バルナバもステパノもピリポも「預言者」と呼ばれることはこののちもなかった。この人たちの活動が始まって後に「預言者」と呼ばれる人たちが立てらたように思われる。
 教会における位置づけとしては、Iコリント1228節で、「第一に使徒、第二に預言者、第三に教師、次に力ある業を行なう者、次に癒しの賜物を持つ者、また補助者、管理者、種々の異言を語る者」と並べ上げられる。また、エペソ書411節には、少し違うが、「彼は或る人を使徒とし、或る人を預言者とし、或る人を伝道者とし、或る人を牧師、教師としてお立てになった」と言う。これで大体ハッキリするが、この順序を余り厳密に考え過ぎない方が良い。二つのリストが同じでないことでも分かるように、まだ教会の制度は確定していなかった。まして、階級という考えは教会の務めに持ち込まれていなかった。ここで語られる順序は、霊の賜物の秩序という観点から整理されており、預言者についてもその観点に沿って把握すべきである。
 使徒時代の預言者を定義づけることはなかなか難しい。むしろ、預言者の職務は完了したと見た方がスッキリする。だから、教会の形が整って行くにつれて、預言者という務めはなくなったのである。以後は一般的な意味で将来の事件を預言する人、あるいは昔の預言者の気迫を髣髴とさせる言葉を語る人、「ある意味で預言者だ」と言われる人を指す呼び方になる。
 今の時代にも預言者が現れて欲しいという声を聞くことがある。その求めを却ける必要はないと思うが、時代の要求で預言者が出現することはない。今、預言者が現れても、その語る言葉はすでに聖書に記されているのであるから、預言者を待望するよりは、聖書を本気で正確に読む方が有益である。しかし初代教会には預言者活動があった。
 預言者と呼ばれる一人にアガボという人がいた。彼の活動は2箇所に記録される。先ず28節にあるが、来たるべき飢饉を預言した。この預言は福音の解き明かしの中で、神の怒りに言及して、今の世に襲って来る禍いについて警告したのか、それとも、特にこのことを預言する、と言って述べたのかは分からない。
 2110節ではもっと生々しい動作が描かれている。カイザリヤのピリポの家においてのことであるが「幾日か滞在している間に、アガボという預言者がユダヤから下って来た。そして私たちの所に来て、パウロの帯を取り、それで自分の手足を縛って言った、『聖霊がこうお告げになっている。「この帯の持ち主を、ユダヤ人たちがエルサレムでこのように縛って、異邦人の手に渡すであろう」』」。――この振る舞いは旧約聖書で読む預言者のそれと同じである。21章の記事は我々にとって驚くべきものであるが、その当時、こういうことは稀ではなかった。
 アガボについて、これ以上のことは推測であるが、彼の名はギリシャ風でなくユダヤ風である。したがって、ヘブル語を使うユダヤ人グループにいた。アンテオケに教会を建設したのは、ギリシャ語を使うユダヤ人であったから、もとは親しくなかったかも知れない。アガボの活動は概ねユダヤを中心とした。この時、アンテオケまで行ったのは、フラフラと遠くまで出掛けたと見ない方が良いであろう。アンテオケで語るべきことがあった。その一つが世界中の大飢饉の預言であった。
 先にも触れた21章の記事から、彼に預言の賜物があったことが分かる。ただし、彼がいつでもこの種の預言をしていた異能人であったと見るのは無理であろう。彼はやはりキリストの福音を語っていた。しかし、時に時代の問題に触れること、特に神の怒りとしての災害に言及することはあったであろう。もっとも、飢饉が来ることをテーマにして語り、それを強調したのではない。彼がいなくなってかなり経ってから、飢饉になった。そして、シリヤよりもユダヤの方が酷いということが分かった。そこでアンテオケの人たちは、アガボの言ったことは神からの預言だったと確認した。したがって、神の言葉を受けた者として、自分たちの地域よりもっと被害の大きいユダヤ地方の教会を援助しなければいけないと考えた。
 「クラウデオ帝の時の飢饉」については良く分かっていない。紀元47年だと言われる。こういう災害はしばしばあったのである。しかし、しょっちゅうあるからと言って、人々がだんだん無感覚になるということはなかった。こういう施しの行事は、思い出した時にだけ奮ってアッピールするのでなく、教会では常時この姿勢が保たれたのである。主イエスは「貧しい人たちはいつもあなた方と共にいるから、いつでも仕えることが出来る」と言われた。だから、奉仕を必要とする人々には、いつも関心を向けており、すぐ動き出せるようにしていなければならない。
 アンテオケ教会はユダヤにいる兄弟への援助を決議して実行した。この活動はアンテオケ教会としては初めてだが、以後、定着した姿勢になる。そして、アンテオケ教会によって伝道された地域の教会はそれに見習う。ただし、アンテオケ教会が良き前例となったということではない。かつて、初めの日にエルサレム教会が自分の持ち物を自分の物として確保することをせず、必要とする兄弟のために放出したこと、貧しい寡婦のため日々の食事の世話をしたことが、さらに広がってアンテオケに及んだのである。
 「それをバルナバとサウロとの手に託して、長老たちに送り届けた」。……アガボが飢饉を預言し、それから月日が経って飢饉になり、ユダヤの飢饉の厳しさが伝わって来て、援助金を送ることになったが、バルナバとサウロがエルサレムに行くまでにはまた何カ月か経ったようである。援助金は長老に渡された。
 「長老」という職務の最初の記録である。その時、エルサレム教会で長老は制度化されていた。近年のことであろう。もともとユダヤ人共同体では老人たちが指導しており、それが長老と呼ばれていた。そういう体制がキリスト教会に持ち込まれたのであろう。1423節を見ると、パウロとバルナバが第一次伝道旅行で、町々に長老を立てたと書かれている。異邦人教会にもこの体制が早くから受け継がれたことが分かる。
 あるいは使徒行伝6章で寡婦の食卓の世話をするために選ばれた7人の立派な人、これは一般に執事であると考えられているが、長老だとする解釈もある。しかし、15章には使徒と長老の会議について記されている。長老が援助金を受け取ることはあって良いが、それが主たる務めだったのではないであろう。とにかく、教会では金銭のことを重要視はしないが、これを放漫に扱うことは決してしなかったのである。

 


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