2006.12.17.

 

使徒行伝講解説教 第78

 

――11:24b-26によって――

 

 

 「こうして、主に加わる人々が大勢になった」。――エルサレムから追われた人たちは、アンテオケに来てから異邦人に福音を伝え始めた。異邦人も教会に来るようになった。そこにエルサレムから遣わされたバルナバが到着する。
 アンテオケ教会にとって、バルナバの到着は大きい力であった。つまり、アンテオケにはこれまで、有力な説教者がいなかった。伝道は熱心になされたし、福音を異邦人に向けて宣べ伝えるという方向転換を諸教会に率先して行なった。けれども、この福音を多くの異邦人の心の底に届かせるだけの力ある説教者はいなかったようである。
 説教者の間に格差を設けるという考え方は不健全ではないか、と言われるかも知れない。まことに、その通りである。キリストから務めが委ねられるのであるから、委託された任務の重さに等級をつけることは慎まねばならない。務めが真実に信仰をもって担われている限り、務めの担い手は同格である。だから、務めを受けた者は等しくその分に全力を注ぐのである。主はその奉仕を受け入れて下さる。主から務めを受けている者の勤務評定を、人間がするということはあり得ない。
 主は一人一人にその人の担う任務を、召しに応じて課しておられる。その任務が果たされているかどうかは、主が判定したもう。ではあるが、我々が全く関与してはならないと言い切れるか。旧約では、主の民が真の預言者と偽りの預言者を見分けなければならばいと言われ、イエス・キリストは真の牧者と群れを荒らす狼を、見分けなければならないと言われる。別の言い方になるが、この器を通じて主の言葉に聞き従うのであるから、この器を受け入れているかどうか、という自己検討が伴う。だから、語られる言葉が真に主のものであるかどうか、また、その人が真に御言葉を伝える器として召されていると確認出来るかどうかが問われるのである。すなわち、二つの尺度があって、その人の伝える教えが、聖書の御言葉によるものか、自分勝手に作り上げた教えかが吟味され、その人の生き方が語る福音に合致しているかどうかも吟味される。
 召しにまで踏み込んではならないのではないか。その判定は主に任せるほかないではないか。人が人を裁くことが出来ると思い上がるなら、破滅するほかないではないか、そのように慎重に期することを求める人もいる。
 ここで時間を取って議論しなければならないとは言わない。単純なことであるが、主は「書き記せ」と命じて御言葉を民らが持つことを宜しとされた。また、主はその民に良心の自由という贈り物を下さった。だから、我々は良心の自由を窒息させてまで教会の平和を守ることはない。
 なお、真実か偽りか、というのとは別の問題であるが、その仕え人が、遣わされ、配置された状況に適合した器であるかどうかという問題がある。これまた非常に難しい問題である。主から遣わされたことは確認出来るが、この時代状況に的確にマッチした伝道の成果を上げていない働き人はいる。その人は歴史に名を残す人でないかも知れないが、主はこれを能なしの僕とは言われないであろう。ここで具体的に考えるならば、アンテオケに堅固な教会を建てる建築師が求められていた。
 パウロがIコリント3章で「熟練した建築師」という比喩を用いているのを思い起こす。これは解釈の難しい比喩であるが、教会を建てるには建てたが、建った教会は試練の火で燃え尽きてしまうようなことではいけない、と警告していると思う。
 熟練した建築師であるかどうかを見分けることも難しい。だから、未熟な建築師であるのに、熟練した建築師だと騙して信用させてしまう場合がある。いや、建築師自身が自ら騙されてしまう場合がある。だから、上辺の区別はなかなか困難なのだが、建築師の譬えの中に、「それぞれの仕事はハッキリ分かる」という実例が使われる。建てた時の見掛けは立派でも、何年か経てばホンモノかどうかは誰の目にも明らかになる。裁きの日が来るのを待たなくても、何年か先のことは預言者的洞察力がなくても、建築師としての職業的良心があれば、分かるのである。
 この良心は決して稀なものではないが、良心の通りに建て上げる知恵と技術は誰にもあるわけではない。ただし、その知恵や技術が先天的なものだと考えてはならない。芸術を創作する才能は先天的なものかも知れないが、主が教会のために必要とされる建築師の才能は、祈り求めることによって得られ、得た技術は修練によってさらに磨き上げることが出来る平凡なことなのである。だから、人は誇ってはならない。
 13章の初めに書かれている名前から察すると、バルナバの来る前、アンテオケ教会には、ニゲルと呼ばれるシメオン、クレネ人ルキオ、それにガリラヤの領主ヘロデの乳兄弟マナエンという人、などが働いていた。この人たちが、エルサレムから逃れて来た群れの指導者として、説教をし、さらに伝道の対象を異邦人にまで拡大する方針を決断をしていた。
 だから彼らは優れた教会指導者であった。この人たちは積極的な伝道の熱意と見識を持っていたが、この人たちと比べると、バルナバは同一の方向を目指しているが、もっと力ある説教者であったと言って差し支えないようだ。だから、バルナバが来てから、説教を聞く人が増えた。前からこの町に住むユダヤ人も、ギリシャ語を使うシリヤ人も、その他どんな人も、無差別に福音を聞くようになった。我々は先にカイザリヤの町でペテロが異邦人の聴衆を相手に初めてキリストの言葉を宣べ伝えた時、驚くべき深慮と才能を発揮したのを見たが、アンテオケに来たバルナバにおいて同じことが見られる。「こうして、主に加わる人々が大勢になった」。
 彼らは「主に加わった」。これは主を信ずる群れに、すなわち教会に加わった、という意味である。このように人が増えたことは教会の発展の転機である。その転機を見る目がバルナバにあった。
 バルナバは教会を建てて行くには何をすべきかを考えている伝道者であった。福音を語って、聞く人を信仰に導く。これが基本である。したがって、福音が語られている限り、福音そのものが聞く人を起こし、聞くことによって信仰が起こされる。これは福音の語られるあらゆる地において行なわれていることである。
 バルナバの場合、さらに考えるところがあった。どういう考えであったか。うまく説明できないが、アンテオケ教会の明日のことまで考えていたのは確かである。それ以上のこと、世界伝道もあったと思うが、それはいずれ聖書を読み進むうちに見えて来ることで、今それを論じなくてよい。
 アンテオケ教会には人が増えた。今すでに働き人の不足が感じられたかどうかは分からないが、その日が間もなく来ることは予想された。だから、もっと多くの説教者を立てなければならない。
 人数が増えれば、アンテオケの信仰者を一箇所に集めることは困難になる。すでにエルサレムでもキリスト者は幾つかののシナゴグで礼拝をし、その全体を合わせてエルサレム教会と言っていた。アンテオケでもすでにそうなっていたのではないかと思われるが、それはともかくとして、有力な説教者を増やすことが必要なのである。町の中の何カ所で説教が行われるようになれば、強力なアンテオケ教会が建て上げられて行く。
 そこで、もう一人の説教者を求めて、バルナバはタルソに行く。誰か一人適当な人を連れて来るというのではない。行き会う人ごとに適任かどうか判定するのではない。初めから目当ての人はサウロと決まっている。謂わばサウロを的にして発射された弾丸のようにバルナバは出掛けた。教会のための働き人が、常にこのようにして獲得されるわけではないが、器を選ぶために人の払うべき努力について、ここでよくよく考えることには十分意味がある。今日の教会はそういうことを忘れてしまったのではないか。
 しかし、タルソに行けばサウロに会えると決まっているわけではなかった。バルナバはサウロの動静を幾らか知っていたとは思うが、連絡を取り合っていたのではない。26節に「彼を見つけた」と書かれているように、初めは見つからず、捜し出したのである。サウロが見つかるかどうか冒険であった。しかし、いるかいないか分からない人を捜すという不確かさは全然感じていない。謂わば神の御手で発射された弾丸のよるに、定められた弾道を飛んで行く。神の定めたもうた人だから、すぐには会えなくても、いなければ捜すという決意と、その人に必ず会えるという確信があった。
 バルナバは、アンテオケの兄弟たちの諒解を得て、一時この地を離れてタルソに行った。それのために、どれだけの日数を必要としたかは全く分からない。行く前に人々の理解を取り付けなければならなかった。簡単に得られたかどうかは我々の想像を超えた問題である。すなわち、アンテオケまで来た人たちは、つまりサウロの迫害を逃れた人である。サウロの生き方に大変化が起こったことはバルナバが話したと思うが、彼をアンテオケに迎えることは人々の思いもよらない。
 交通に要した時間は度外視するほかない。サウロと会って決心させるまでの時間も必要であった。その時間のことは我々に見当がつかない。今、考えられるあらゆる場合を想定して時間がどれだけ掛かったか計算しても意味はない。結局、主の備えたもうた器、ということになって、それを見つけ出して連れ帰る時間は問題にならなくなる。
 一つの器を見つけ出して連れ帰ることが、どんなに時間と労力を要することなのかは容易に想像される。現代の教会がそういうことに時間も労も掛けなくなって、器の中味は無頓着になって、人数合わせをするだけだと慨嘆する人もあろう。しかし、時間と労を掛ければ、良い器を見つけられるのであろうか。いや、むしろ、逆の考えを持つべきである。
 神が、救わるべき人を召すために、どうされるか。失われた一匹の羊を追い求めて、良き羊飼いはどこまでも捜すのである。これは失われたものに対する神の愛を説明するためにエゼキエル書34章でも預言されたが、福音書では主イエスがご自分について用いたもうた譬えである。タルソにいるサウロは、失われた人ではない。むしろ、非常に大きい使命を持ちながら隠れている。それを見つけるためには、単なる熱意や努力ではいけないのである。ここで必要なのは、神が人を尋ね求めたもう愛に参与しているという務めの自覚である。
 神のために働くべく定められている人を、神のために掘り起こすという発想に切り替えなければならない。こういうことが分かるためには、神の定め、予定、サウロが選び置かれていること、召されているという秘義が分からねばならない。このことが把握されていないならば、バルナバのしたことは単なる事業家の業であった。
 この世においても、適切な人選をするのは人を見る達人の業だと言われ、教会でもそうでなければならないとの主張が良く聞かれる。果たしてそうであろうか。それでは教会は世俗化するのではないか。神の選びと定めに目を高めて、それに従わねばならない。
 「彼を見つけたうえ、アンテオケに連れて帰った。二人はまる一年、ともどもに教会で集まりをし、大勢の人々を教えた。このアンテオケで初めて、弟子たちがクリスチャンと呼ばれるようになった」。
 これを事業の成功物語のように受け取ってはならない。神がことをなしたもうたのである。
 キリスト者、「クリスティアノス」という言葉はアンテオケで初めて称えられるようになった。この名を造った人は外部の人であろう。恐らく、「キリスト」、「キリスト」と言っているのをからかったものであろう。しかし、我々はこの名が適切であると喜んでいる。
 アンテオケでこの呼び方が始まったのは、キリスト者が比較的多く、その存在が際立っているので、気になったからである。キリスト者が圧倒的に多かったのではない。しかし、他の人とは違う生き方が始まっていた。

 


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