2006.12.10.

 

使徒行伝講解説教 第77

 

――11:22-24aによって――

 

 

 「この噂がエルサレムにある教会に伝わって来たので、教会はバルナバをアンテオケに遣わした」。
 「噂が伝わった」という訳し方はおかしい。確かに、エルサレム教会が聞いたというのでなく、「聞かれた」という書き方である。しかし、噂が風に乗って伝わって行ったのでなく、「ことば」が聞かれた。すなわち「ことば」がアンテオケから発せられた。
それをエルサレムの「教会」が聞き、それに答えて「教会」がバルナバを派遣した。先に、カイザリヤの出来事について、111節で「異邦人たちも神の言葉を受け入れたということが、使徒たちやユダヤにいる兄弟たちに聞こえて来た」という記録を読んだのだが、アンテオケからの報せについても、同じであった。
 さらに以前に遡ると、814節には「エルサレムにいる使徒たちは、サマリヤの人々が、神の言葉を受け入れたと聞いて、ペテロとヨハネとをそこに遣わした」と記される。似たようなことだが、エルサレムでは初期には「使徒たち」が万事について聞き、相談して、意志決定をした。次の時期には「使徒と兄弟」が聞いた。「兄弟」たちは使徒と一緒に聞くことが出来るように成長した。
 もう少し後になると、156節では「使徒たちや長老たちが審議するため集まった」と書かれている。使徒のほかに「長老」が立てられて、一緒に会議を開くようになったのである。これを大きい違いと考えてはならない。教会のことは教会の主がお決めになる。その意志に沿うことを求めて、使徒とか、長老という代理人が、主に代わってことを決め、かつ実行する体制になった。そのように、エルサレム教会は、主の御意志はこうであろうと信じて確定することが出来る制度を持つまでに形を整えたということである。23節に教会が聞き、教会が遣わしたというのはそのような意味であると理解しよう。
 エルサレムの教会は、迫害で散らされて行った人たちのことを、体が引き裂かれたかのように案じていたであろう。そこにこの報せが来る。どういう人たちがアンテオケに行って伝道を始めたかも把握出来ている。そこで、喜んでバルナバを派遣することに決める。
 この派遣を、親教会が子教会を「視察し」、「監督する」ためだと解釈するのは、必ずしも間違いでないが、教会についてはもっと思慮深く捉えた方が良い。すなわち、一つの教会と一つの教会の間、また主の任命された職務にある者どうしの間に、上下関係があってはならない。こういう原理は、宗教改革の時代、しかも宗教改革の第2期になってから、改革派教会の中で制度化されたものであるが、その時に新しく建てられた原理でなく、本来、御言葉が証ししていた真理であると我々は信じる。他の教派の人もそれを認めると思う。
 教会間に指導と従属の関係はない。だが、それぞれの群れが自立して、思い思い勝手気ままに振る舞うのでなく、互いに仕え合わなければならないし、御言葉にしたがった判断が出来る人がまだいない未熟な群れもあるから、その群れは助けられねばならない。エルサレムからバルナバが送り出されたのは、助けるため、仕えるためであった。だから、エルサレムでも大事な人材を、アンテオケの教会のために提供したということである。先にサマリヤにペテロとヨハネを送ったのと似た処置であるが、ペテロとヨハネは一定の時期、サマリヤで働いて、またエルサレムに帰った。バルナバはエルサレムに戻るのでなく、アンテオケで働き、さらにアンテオケから遣わされて先に進んで行く。
 このバルナバの人となりについて、我々はかなりのことを知っている。だが、ここで彼について知ったことを纏めて置きたい。彼はクプロ生まれのレビ人であると4章の終わりに書かれていた。クプロに生まれ育った彼は、大人になってからエルサレムに来たのであろう。そしてエルサレムで回心して教会に加わった。莫大な資産を持っていたというが、親たちがクプロで築いた資産であろう。
 彼はエルサレム教会では、ギリシャ語を用いるユダヤ人のグループではなく、ヘブル語を用いるグループに属したらしい。レビ族の家系を重んじたからであろう。しかし、クプロに生まれて以来、実際生活ではギリシャ語を用いていた。彼と親しいクプロ出身のキリスト者はギリシャ語グループに入っていたはずである。
 「バルナバ」という名、これはヘブル語である。ギリシャ語を使うことが出来るのに、名前はヘブル名で通した。そういう訳でヘブル語グループに属しているが、ヘブル語を用いるユダヤ人とギリシャ語を用いるユダヤ人の間に行き違いが生じた時には、調整の役を演じることが出来た。信仰的にも立派だし、全財産を教会に捧げるようなこともするので、全ての信仰者から、おそらくキリスト教に反対のユダヤ人からも信頼されていたであろう。それでも、あの7人の中には選ばれなかった。あの人たち以上に重んじられたということかも知れない。あの7人とは立場が少し違うと見られたのかも知れない。このことは彼が迫害を余り受けなかったらしいこと、迫害後エルサレムにいることが出来たらしい事情そのものでもある。
 もう一つ、バルナバがタルソのサウロをエルサレム教会に受け入れさせる窓口になった出来事を忘れるわけには行かない。以前からサウロとの間に何かの繋がりをもっていたのか。あったようにも思われるし、なかったようにも思われる。とにかく、エルサレムで、サウロは教会迫害の急先鋒、最も危険な人物としか見られていなかった。そのサウロを真っ先に理解したのはバルナバである。
 ギリシャ語を語るユダヤ人と、ヘブル語を語るユダヤ人と、二つのグループが教会内にあったことは事実で、バルナバが執り成し役をしたことも確かと思われるが、バルナバの思想がどうであったか、という議論に立ち入る必要は全然ない。バルナバの神学について論じたい人は論じて構わないが、両グループを繋ぐことが出来たのは、バルナバの持つ理論とか神学的立場というものではなく、彼の人柄、その真実と兄弟愛である。信仰と教理がキチンとしていなければならないのは当然であるが、キリストのみあとに従う素直さ、人と接する暖かさを忘れないでおこう。
 使徒たちは彼のことを早い時期から「慰めの子」と呼んだ。436節に記されていた。「慰め」という言葉の説明が必要である。しかし、説明を聞いて理解することよりは「慰めの子」という名を使い慣れ、そう呼ばれる生き方をすることがもっと大事であるから、言葉について詳しく論じることはしない。23節に「主に対する信仰を揺るがない心で持ち続けるようにと、みんなの者を励ました」と言われるところにある「励ます」は「慰めの子」と言うときの「慰め」と同じ言葉である。もし我々が「慰め」と「励まし」を別々のものと考えていたなら、バルナバの人柄について、事実とかなり違う捉え方をしていることになる。
 バルナバがアンテオケ教会に派遣されるに最も相応しい人だ、とエルサレム教会は判断した。その時、ペテロもヨハネもよそに出ていたらしく、他にアンテオケに行って役に立つ人がなかったのは確かである。けれども、誰か行かねばならないから、行かないよりは行った方がマシ、という理由ではなく、彼こそこの用に定められていた唯一かつ最善の器であることを我々は確信する。
 アンテオケ教会が援助を要請したというのではない。助けが必要だと判断したのはエルサレム教会である。誰が行っても、その人なりの働きをして助けることは出来る。ただし、適切な働きかどうかは別問題である。さらに、教会が判断を誤って、適切でない人を派遣する場合がないとは言えない。主の名によって遣わすとは、主に責任を負わせて、選んだ人は判断と結果について無責任に投げ出している、ということが今日の教会には多過ぎるのではないか。この時はそういう好い加減さはなかった。神が定めて置かれた器であるから、素晴らしい人物が選ばれた。
 バルナバについて、ルカはここで初めてこの人物の全貌を纏めて言う。「彼は聖霊と信仰とに満ちた立派な人であった」。――「聖霊と信仰に満ちた人」という言い方は、65節でステパノについて言われたのと同じ言葉である。これはステパノ以下に名を連ねる人にも当てはめられたと解釈される。その解釈に異論があって、ステパノについてだけ言われたと取るべきだと言う人もいるが、そうだとしても、その少し前に「あなた方の中から御霊と知恵とに満ちた、評判の良い人たち7人を選べ」と言われた。7人は全部御霊と知恵に満ちた人であった。「御霊と信仰」というのと「御霊と知恵」というのと、どういうふうに違うかの議論はしなくてよい。
 アンテオケ教会の指導者たちについては、13章の初めで名前を知るが、前回、述べたように、エルサレム教会で7人として選ばれた人とその周辺の人が、迫害で散らされてアンテオケに来た。その中にはクプロ人もいたと書かれる。そのクプロ人については名前も分からないが、65節に名が上がっているうちにあるかもしれない。バルナバが親しかった人であるに違いない。
 バルナバとアンテオケに行った人々との、人間としての親しさを考えるだけでは意味がうすい。福音の理解、また伝道の基本路線について、アンテオケに行った人とバルナバとは同じであった。もっとハッキリ言えば、ユダヤ人キリスト者の中に往々にして見られた律法主義的傾向はバルナバにはなかった。このことは強調しなくても次々に示される。
 バルナバはアンテオケに来て、迫害によって引き裂かれた親しい人と会えて、その無事を見て喜んだであろうが、そんなことは取り上げて論じる必要もない。「神の恵みを見て喜んだ」と記される。すなわち、神の恵みが働いて、実りを結んでいるのを見て、喜んだという意味である。そして、その実とは、具体的に言うならば、異邦人の回心である。
 こうして、「主に対する信仰を揺るがない心で持ち続けるようにと、みんなの者を励ました」。――「みんなの者」という中には、新しく信仰に入った人たちも含まれる。いや、むしろ、その人たちを励ますことに重点が置かれたと見て良い。
 さて、すでに信仰に入った人をさらに励ますとはどういうことか。信仰が成長し始めたのだから、あとは伸びて行くだけではないのか。励ます必要はないではないか。一見そう思われる。しかし、実際はそれと違う。芽を出した草が虫にやられて枯れるように、信仰の成長を妨げる惑わしや試練、誘惑は次々に来る。信仰は、それ自身の力で障害を克服して成長するのが本来なのだが、その通りには行かない場合が多い。だから、励まし、あるいは慰めが不可欠なのである。
 「慰め」あるいは「励まし」について語り出すと、延々と論じなければならないが、長い割には肝心のところは小さい。すなわち、慰めは「御言葉」からしか来ない。では、御言葉によって語れば慰めか。遺憾ながら励ましのための御言葉が聖書の通りに語られていながら、励ましにならないようにしか響かないし、届かないことが多い。一つには聞き方による。聞こうとしないなら、言葉は届かない。それでは処置なしか。そうではない。真の慰め主であられる御霊が聞かせたもう。
 人は兄弟に慰めを与えようとする場合、慰めに相応しい響きを相手の心の底に届かせなければならない。実際問題として、慰めの言葉を真に相応しく語る器は必ずしも多くない。型どおり慰めの言葉は語っていても、慰めとしての力がないからである。先ほど、慰めを語る「人柄」というような、信仰に関しては通常使われない言葉を用いたが、そういうものが必要なのである。使徒は己れ自身を含めて、キリスト者の中に「慰めの子」と呼ぶに相応しい人を、バルナバ以外には見出し得なかった。今でも「慰めの子」と言える人は見出しにくい。ということは、慰めを真に語る賜物は稀にしかないということか。そうではあるが、この賜物に与るためには、熱心に、弛みなく祈らなければならないというふうに我々は心得る。
 バルナバの励ましは「主に対する信仰を揺るがぬ心で持ち続けよ」ということであった。今は新しく信仰に入った感動に燃えている。しかし、感動は冷めて行く。それでも信仰は持続しなければならない。感動を繰り返し燃え立たせようとする煽動は邪道である。こういう煽動は信仰そのものを衰退させる。信仰の持続のために必要なのは、煽り立てることでなく、心が揺るがずにあることだとバルナバは適切にも教えた。
 バルナバのこの言葉が励ましとして有効であったのは、彼が聖霊と信仰とに満ちた立派な人だったからである。第一に、彼は信仰に満ちて信仰の言葉を語った。人からの受け売りの知識を語るのでなかった。第二に、彼の語る言葉の真実を証しする御霊がともにおられた。第三に、彼が立派な人であった。「立派な」人という言葉は聖書にないわけではないが、これは神学用語でないと見るべきである。先に「人柄」というキリスト教用語と言えない言葉を使ったが、神学とか教理という領域を離れて人間としての立派さが問題にされるのである。この修練を喜んで受けなければならない。

 


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