2006.12.03.

 

使徒行伝講解説教 第76

 

――11:19-21によって――

 

 

 前回までの所で、ペテロによるカイザリヤ伝道について学んだ。その一つ一つの場面で我々自身も新しく目を開かれる思いであった。カイザリヤ伝道はユダヤの地域で行なわれたものであるが、異邦人に対する宣教として最初のものであった。
 そのカイザリヤ伝道と、今日学ぶアンテオケ伝道は、ほぼ同じ時代であるが、どちらが先であったかを判定する手がかりはない。相互間の影響はあったか、なかったか。それも分からない。異邦人伝道として画期的なものであったという点では、同じ性格のものである。
 「ステパノのことで起こった迫害のために散らされた人々」と先ず言われるが、このことは、使徒行伝8章の初めに書かれていた。「その日、エルサレムの教会に対して大迫害が起こり、使徒以外の者はことごとく、ユダヤとサマリヤとの地方に散らされて行った」。――エルサレムにおいて大々的な迫害が起こり、教会は散らされた。「散らされる」ということは、おおむね不幸なことであり、この場合も不幸であったに違いないが、教会は散らされて消え失せたのでなく、散らされて独りきりになっても生きており、散らされることによって伝道は飛躍的に拡大された。
 ステパノは死刑にされた。というよりは、裁判の途中で引き出して殺すという無法なことが行なわれた。それをキッカケにエルサレムでは暴力が荒れ狂った。これが権力による弾圧であったのか、ユダヤ民族主義者の気侭な暴動なのか、我々には良く分からない。だが、ユダヤ民族主義の暴力沙汰という面は確かにあった。
 とにかく、種子が散らされ、増え拡がるように、福音宣教は広域に亘るものとなって行く。広域伝道として最も規模の大きい活動を生み出す元が、アンテオケに教会を建てたことである。アンテオケはキリスト教の世界伝道の根拠地に当たる。
 「散らされた人々は、ピニケ、クプロ、アンテオケまでも進んで行った」という。エルサレムで暴行を受けた人々は、散り散りにならざるを得なかった。その中の幾らかの人はまた合流する。それからは一団となって、合意を作り上げつつ行動したのではないかと思われる。ピニケを通って行く時、そこに留まって教会を建てた人もいたようである。だから、153節には、パウロたちがピニケの教会を訪ね、サマリヤの教会も問安して、エルサレムに登ったことが書かれている。――「ピニケ」というのは、旧約で「フェニキア」と書かれているのと同じである。ツロ、シドンの地方である。ピニケに留まった人は僅かで、さらに北上を続けた人たちが主力であった。
 クプロへも行った。地中海の東部にあるキプロス島である。すでに、五旬節に集まった人の中にクプロ人がいた。クプロに家を持ち、ちょうどその時エルサレムに礼拝に来ていたユダヤ人である。そのうち何人かはエルサレムで回心した。バルナバが有名である。その人たちのある者は迫害の機会にクプロに帰って、そこにキリスト教の伝道をしたのであろう。クプロの教会については、後日また触れる機会がある。そして、一旦クプロに渡った大部分は、また船でセレウキアという港に移った。ここはアンテオケの外港である。
 とにかく、散らされた人のうちのかなりの部分がアンテオケに集まったのであろう。ここはローマ帝国第三の大都会、シリヤの首都、地中海東部で最大の都市であり、単に大きいだけでなく、繁栄しており、多様な民族が住んでいた。今や流民となったキリスト者たちが落ち着くに都合い地である。彼らがアンテオケに行った積極的理由は、想像するほかないが、この大都市でキリストの福音を宣べ伝えることにあったのであろう。そのように幻で示されたのかも知れないが、幻の記録はない。
 アンテオケはシリヤの北部にある。シリヤと言えば、ユダヤ人にはダマスコの名の方が近くに感じられたはずである。ダマスコにはすでに早い時代にキリスト者がいたことを我々は9章で読んだ。どうしてダマスコに早くからキリスト者がいたのか、その理由は分からないが、ユダヤ人には古くから耳にする機会の多かった町で、ユダヤとの行き来もあったであろう。
 ユダヤの人たちがアンテオケに馴染みを感じていたかどうか私は知らない。アンテオケは紀元前300年に建てられたギリシャ風の都市である。ユダヤはシリヤ総督に治められ、総督はアンテオケにいた。旧約の歴史のなかでは聞くことのなかった名である。しかし、シリヤ地方についてイスラエルの民は無関心ではなかった。イスラエルの先祖アブラハムはそちらから来た。アブラハムの子イサクも、イサクの子ヤコブも、妻をパダン・アラムから娶った。交流は盛んではないが、ずっと続いている。
 かなり重要なのは言語が同じだったという事情である。ユダヤの言葉とシリヤの言葉が同じ系統であるが枝分かれしていた。しかし、新約時代の前からユダヤ人もシリヤ語、すなわちアラム語を用いるようになった。使徒行伝でこれまで何度か聞いた「ヘブル語を使うユダヤ人」という場合の「ヘブル語」は実は「アラム語」である。シリヤ人は宗教的には異邦人であるが、言葉が共通であるから、物の考え方・感じ方が似ていたのではないかと思われる。
 アンテオケの住民は当時ギリシャ語を話していたが、彼らの大部分はシリヤ人であって、都市の外ではシリヤ語を話していた。
 アンテオケが初期キリスト教の世界伝道の中心地であることは我々も知る通りであるが、もう一つ、古代教会の東の部分がアンテオケを中心としたことも心に留めて置いて良いであろう。そこには西方の神学とやや味わいを異にするシリヤの神学が生まれていた。5世紀以後、ローマを中心とする教会は、アンテオケを中心とするシリヤ教会、その東部の教会、オリエント教会と総称される教会群に無関心になり、これを疎外し、異端視するようにさえなる。このことについて説明は、使徒行伝の今日のところの学びと無関係であるから、今は触れたくない。
 使徒行伝ではアンテオケ教会が西に、すなわちヨーロッパに向かって伸びて行く伝道を押し進めたことを記すが、もう一方、東に向かっての伝道の拠点であったことも覚えて置きたい。後世、ヨーロッパの教会がアンテオケを中心とするオリエント教会を疎んじたのは、ローマ帝国の東西の統一が緩くなって、言語も違って行くため、物を考えるその考え方、論じ方が食い違ったからである。それはアンテオケ側が真理から逸れて行ったということでは必ずしもない。アラム語に即した考え方の方が、聖書の源泉に即した論じ方に近いと言えるかも知れない。
 さて、ついにアンテオケまで行った人たちであるが、彼らはその時まで、ユダヤ人以外の者には誰にも御言葉を語っていなかった。それが異邦人にも伝道するように劇的に変化する。
 この人たちについて、我々の学び知ったことを纏めて見よう。――エルサレムを逃れたのは使徒以外の信仰者ことごとくであったと82節に書かれていた。これは使徒たちが殉教を覚悟して敢えてエルサレムに留まったことを意味するのであって、12人以外にキリスト者が一人もいなくなったと思う必要はない。
 ステパノが同類の者のうち特に熱心で、また力に優れているから、反対派の国粋主義者に殺されたのだが、ステパノを代表とするグループ、「ヘレニスト」、つまりギリシャ語を使うユダヤ人である。これがユダヤ教原理主義者から特に迫害され、追放された。一旦、エルサレムから逃れた人の多くも、暫くしてエルサレム教会に帰ったらしいが、それはヘブル語を使うユダヤ人を主とするようである。アンテオケまで行った人はもともと離散したユダヤ人と呼ばれており、エルサレムに執着しない。これは、ほぼヘレニストのキリスト者であったと考えて良い。
 その人たちについては、全く分からないようでありながら、想像の及ぶ部分もある。6章で名を上げられた7人の働き手、すなわち貧しい寡婦の配給のために立てられた、ステパノ、ピリポ、プロコロ、ニカノル、テモン、パルメナ、そしてアンテオケの改宗者ニコラオ。これらはステパノの同類、ギリシャ名で呼ばれるヘレニストであるから、迫害下のエルサレムから逃げるほかなかった。このうちステパノは殉教し、ピリポはサマリヤ伝道に向かった。あと5人はいたのではないか。アンテオケのニカノルの名がここには出ていないから、彼がみんなをアンテオケに連れて行ったと断定するのは無理だが、ニカノルのことを知る人たちはいて、アンテオケこそ新しい教会を建てるべき地であると提唱したであろう、というところまでは無理なく想像できる。
 6章で見た選ばれた7人は、「御霊と知恵とに満ちた、評判の良い」人たちである。彼らは奉仕者として立てられたが、ステパノやピリポで見られるように、指導者、説教者としての賜物を受けていた。霊的な賜物とともに、この世で何かの働きをする実力もあったと考えて良い。ステパノとピリポ以外の5人が一度しか名を出さないので、不思議に思われ、存在すら疑われることもあるが、この一団がアンテオケに教会を建てたのではないだろうか。
 その人たちがソックリ、アンテオケ伝道に転用されたとは言わないが、主がこれらの器を用いたもうたことは当然考えなければならない。彼らはエルサレムを逃れた宗教難民の中の指導者である。
 こうして、20-21節に入る。「ところが、その中に数人のクプロ人とクレネ人がいて、アンテオケに行ってからギリシャ人にも呼び掛け、主イエスを宣べ伝えていた。そして、主の御手が彼らと共にあったため、信じて主に帰依する者の数が多かった」。こういう事情は先の所で考えた線に沿って行けばかなりよく理解できるようになる。
 ここにいうクプロ人とクレネ人がギリシャ人に福音を宣べ伝えるよう提唱しかつ実行したのであろう。このクプロ人たちは、22節に書かれているバルナバと同郷人として親しかったと思われる。クレネ人も異邦人伝道に積極的であったと思われる。クレネというのはアフリカの北岸で、ユダヤ人が多く移住していた。主の十字架を担いだクレネ人シモンの名を思い起こす。
 アンテオケに行ってからは、ギリシャ人にも宣べ伝えた。ここでギリシャ人というのは、ヘレニスト、ギリシャ語を使う人のことで、ギリシャ生まれというわけではない。この語は使徒行伝では、ギリシャ語を使うユダヤ人という意味で用いられるのが普通だが、ここでは前後関係から見て明らかにこう取るべきである。すなわち、その時まではユダヤ人以外には誰にも福音を宣べ伝えていなかったと書かれていたからである。
 これは、カイザリヤに行くまで、ペテロがユダヤ人以外には御言葉を宣べ伝えていなかったのとよく似ている大転換である。カイザリヤ伝道は、主が直接関与して、ペテロに幻を示し、奇跡をもって導きたもうたが、この地にコルネリオという、異邦人で神を恐れる者、またその部下の兵卒で同じく神を恐れる者が用意されていた。
 アンテオケの場合は、幻によって道が示されるという奇跡はない。ここではニカノルという改宗者が生み出されていた実例がある。また、この町には前から異邦人改宗者が他の町よりも多かったという同時代のユダヤ人ヨセフスの記録がある。神が用意しておられた町であると言って良いのではないか。
 エルサレムから来た人たちはエルサレムでも伝道をしていた。その実態は68節以下でステパノの実例で示された通りであった。ステパノ以外の人々も同じ様な活動をしていたであろう。その活動はギリシャ語を話すユダヤ人を入信させることであった。
 アンテオケに移って、ユダヤ人以外へも語り掛ける伝道に変わった。どういう説教がなされたかは記録されていない。しかし、ペテロがカイザリヤで異邦人を前にして初めて行なった説教、これを10章でやや詳しく見たが、それと似たものであったと考えるほかない。ペテロは初めて聖書のことを耳にするローマ人に分かるように、しかもユダヤ人相手に語っていた説教の質を落とさぬように、懸命に語った。そして、聞いた人たちは信じた。同じ様な説教がアンテオケでなされた。「どなたも、どうぞ、来てみなさい」という程度の呼び掛けではなかった。
 説教を聞いた人は人間が変わった。「キリスト、キリスト」と言い出した。キリストのものだと信じるようになった。これまでの生き方と違う生き方になる。だから、この人たちのことを「クリスティアノス」、すなわちクリスチャンと呼ぶようになった。
 アンテオケが神によって備えられている地だったということを見た。迫害によってエルサレムを去らざるを得なくなった人たちは、代替地を捜すというのでなく、丁度アブラハムがハランに来て、「あなたは国を出て、親族に別れ、父の家を離れ、私が示す地に行きなさい」との主の言葉によって歩み始め、シケムの地に来て旅を終えた、それと同じ道を、方向は逆であるが、同じ信仰によって歩み、今やシリヤのアンテオケに来た。ここに留まって新しい教会建設を始めた。それは、人種、言語、国籍などに拘束されない神の民の教会であった。


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