42節でペテロは「イエス御自身が生者と死者との審判者として神に定められた方であることを、人々に宣べ伝え、また証しするようにと、神は私たちにお命じになったのです」と言う。
キリストが「生者と死者」を審判したもうことを、我々は使徒信条や古代教会の信条で「生ける者と死にたる者を裁きたまわん」と常々唱えているから、これを心に刻み、分かり切ったことと思っている。そのように確信していることは勿論正しいのだが、使徒行伝でこの項目に触れる説教を聞くのは初めてであるということに注目して良いであろう。
「生者と死者の審判者」という教えの項目がまだ立てられておらず、ペテロがカイザリヤに来た機会に初めて唱え出したと言うのではない。審判者が神であり、神以外の何ぴとも審判者になることが出来ない、と旧約聖書は確定的に教えた。また、来たるべきメシヤ、キリストが審判の権能を持つことを、預言者たちは多くの箇所で説いている。それにしたがって、使徒は伝道の初日、五旬節の説教の中で、「あなた方が十字架につけたこのイエスを、神は、主またキリストとしてお立てになったのである」と宣言した。この宣言の中に「審判者たるキリスト」という意味が含まれていると我々は容易に理解する。だから、ペテロが「生者と死者の審判者」という言葉を初めて語ったとしても、驚くことはない。
ただ、この言葉をここで新しく聞いたということに注目するなら、それによって理解が深められ、理解の視野が広くなるのではないかと思う。
思い起こすのは、パウロがアテネで説教した時のことである。この説教はアテネの町中に溢れている偶像の祭壇のことを取り上げる。一つの祭壇に「知られざる神へ」という文字が刻まれていたことから説き起こして、パウロはキリスト教弁証論を展開したものと一般に言われている。しかし、そのことに注意を向けるのではない。パウロは17章31節で「神は、義をもってこの世界を裁くため、その日を定め、お選びになった方によってそれを成し遂げようとされている。すなわち、この方を死人の中から甦らせ、その確証を全ての人に示されたのである」と言うのである。この説教の中で最も重要な点は「死人の中からの甦り」であり、この点に関してアテネの人々が殆ど反応しなかったことは記される通りである。
もう一つ、人々が反応を示したかどうかも読み取れないのであるが、「世界の審判の日が定められている」と言ったこと、これはハッキリしている。
ペテロもパウロも、異邦人世界に向けて説教する時、「世界の審判」ということを打ち出した。これが抜きん出て重要な教えであるとは思わない。が、不可欠な項目である。そして、異邦人をも納得させ、彼らにも衝撃を与える要素をかなり持っているということは、考えて見れば誰にも分かるであろう。
これだけでは福音と言えない。例えば、ニネベの人は「40日すればこの都は滅びる」と預言者に警告され、震え上がって悔い改めた。しかし、ニネベが心を変えて新しくなったわけではなかった。一時的な悔い改めをしただけである。「世界の審判」は人々の心を揺るがすとしても、それだけで新しい命を得させることはない。それでも、審判への恐れが救いの求めへの一つのキッカケになることは事実である。ペテロもパウロもそこを掴んだ。
「世界の審判」というテーマがどの地の伝道でも強調されたとは確認されていない。だから、我々の間でも「世界の審判」を強調するのが有効で正式な伝道の手順だとは言わないで置きたい。それでも、このことが説かれた時、愕然として、己れの生き方を考え直す人は少なからずいた。今もいる。
ただし、巧みな弁舌で世界審判を語り、恐怖心を煽り立てるのは良いことではない。あと何日かで審判が始まると唱える人が現われて、多くの人が惑わされる事件は、我々の時代においても頻々と起こる。キリスト教の中からも、キリスト教の外でも起こる。大騒ぎにはなるが、言われたような終末的審判は起こらない。しかし、そういう経験を重ねたため、世界審判と聞いても人は何とも感じないようになったかと言うと、そうではない。審判の説教に聞きあきたと言う人もいる。けれども、異常気象、大地震、大津波、大量殺人、肉親の殺し合い、謂れのない戦争、が頻々と起こるのを見るにつけ、裁きの時が迫っているのではないか、と感ずる人はいる。こういう不安が地上に次第に満ちて来ている。
だが、これらの災害が神の裁きであると受け取る人には受け取られるとしても、それでも福音信仰へのキッカケにならないのではないか。福音なしで恐怖ばかり、ということこそ裁きだと言えなくないが、万人に当てはまるわけではない。それでも、とにかく、審判が来るから福音を信ぜよ、と福音らしきもの、本人だけが福音と思っている空疎な気休め論が、説かれていることはある。そして、何も起こらない。自分自身を変革させないような空疎な言葉は、まして他の人の良心には届かない。そのことを今日、真面目に反省する必要がある。
次の「生者と死者との審判者」という言葉について、我々は聞き慣れているから、何も特別に感じないかも知れない。カイザリヤの異邦人がこの言葉をシカと受け止めたかどうかも分からない。しかし、十分深く分かっていなかったとしても、語る人の確信に引きずられて信じるという程度のことはあったであろう。
「生きている者の審判」ということなら、誰も感じている。だから、生きて裁きを受けることがないように悪事を慎む。つまり悪を悪として認めるからそれを抑制するというのではなく、裁判と刑罰が恐ろしいから、禁じられていることはしないのが大半の人のホンネである。
そういう人は誰からも見られていなければ、悪事をする。神が見ておられ、また自分の良心が見ていると知っている人は、人の見ていないところでも悪事をすることは出来ない。ただし、良心というものは、それ自体として作用するものではないから、自分で自分の良心を誤魔化す試みも或る程度は成功する。また、自分で自分の命を断てば、もう良心に責められることはなく、自分の責任について他人から追及されることもないと思う人は多い。死という境目の外に逃れ出れば、もう裁きは追って来ないと思われている。しかし、その死こそが裁きである。あるいは、死んでも裁かれる。
人間の裁判は死者を裁くことが出来ないが、神の裁きは、生者のみでなく死者も裁く。そういう神がおられる。これは異邦人には聞いたことのない言葉であろうが、考えれば理解できる。ペテロはそれを見通して、「生者と死者の審判者」ということを持ち出した。すなわち、ローマは裁判制度を発展させ、そのおかげで、世界帝国を安定させることが出来たのであるが、人々は帝国の裁判が正義にも真理にもかなっていないと感じていた。すなわち、悪いことをしても裁判を免れる人がいる。そこで、この不公正はいつか是正されねばならない、と多くの宗教も教える。ただし、裁くのが誰であるかはハッキリ言えない。架空の神々の名が挙げられる。
ペテロは、生者と死者の審判者として定められているのは、死んで甦りたもうたキリストだとハッキリ言う。甦りについては更に述べなければならないが、今はその方こそ生者と死者を裁かれると言った点だけに目を向ければ、聞いた人たちの反応の大きさは分かるであろう。
43節に移るが、「預言者たちもみな、イエスを信じる者は悉く、その名によって罪の赦しが受けられる、と証しをしています」と言われる。裁きから赦しへと主題は転換する。裁き主は赦すお方である。この時説教が終わって御霊が降ったのでなく、終わらないうちにそうなったと44節は言うのであるから、説教の終わりの部分は聞き取れなかったであろう。しかし、説教者が言おうとした結論は、確かにこういうことであった。
「罪の赦し」が説かれる。それは、罪の赦しの解説ではない。預言者が預言していた歴史の説明でもない。罪の赦しは預言者によって語られていたが、それが今ここに、あなた方において、すなわち、イエスを主と信ずる者において、イエスの名の持つ力によって、実現した、と証しされたのである。
「罪の赦し」がテーマであるからこそ、そのテーマの最後的確認のために「イエス・キリストの名によるバプテスマ」が行なわれるという続き具合が読み取られる。この説教の中でペテロは早い段階から「罪の赦し」に言及していたのではないかと我々は考える。というのは、「ヨハネがバプテスマを説いた後」という言い方が初めの方でなされ、それは本論と関係ない前置きではないからである。すなわち、ヨハネのバプテスマは悔い改めによる罪の赦しを証しするものであった。
ヨハネがバプテスマを説いて後、ナザレのイエスの出来事が始まる。それはヨハネによる悔い改めの運動が先ず始まって、イエス・キリストによる罪の赦しの出来事が続いたという意味である。
そのように、ヨハネから始まったと或る意味では言える出来事だが、さらに遡るならば、預言者に始まった流れが、ユダヤ人の少数の信仰者によって受け継がれて来たが、今や異邦人もそこに流れ込んだ大河となったのである。異邦人を巻き込む大きい渦となったとは、生けるイエス・キリストのおられる所に悔い改めと新しい命が起こるということである。このことは五旬節の朝、ペテロが預言者ヨエルの言葉を引いて、「神がこう仰せになる。終わりの時には、私の霊を全ての人に注ごう。……そのとき、主の名を呼び求める者は、みな救われるであろう」という御言葉は、今日あなた方のただ中で起こっている、と言ったのと同じ構造である。
預言者について何も知らなかった異邦人に、預言者のことを語っても分かるはずはないと言われるかも知れない。それは尤もな疑問だ。ペテロは異邦人にとって訳の分からぬことを高圧的に信じさせようとしたのではない。
預言者の説明をしてから、彼らの預言について教えたのか。あるいは、異邦人の中にも知られていたヨハネの運動の本質を掘り下げ、悔い改めがずっと昔から預言者によってユダヤ人の間で説教されていて、その預言の成就が今起こっているという言い方で論じられたかである。
カイザリヤにおけるペテロの説教は、すでに触れたように、伝えられるうちに破損したらしく、文書としては明確でない点を幾つも含んでいるが、不明確な所を全文脈の中で補って読んで行くと、五旬節の説教と基本的に同一構造だということが見えて来る。大きい違いは、前者において聴衆の殆どがユダヤ人であったのに対して、後者においては殆ど異邦人であった点である。しかし、だから別の種類の説教だと見ることは出来ない。むしろ、規模が違うだけで、福音としては同一である。同じ竜巻がもっと大型になって、異邦人をも悔い改めに巻き込むに至ったと読み取るべきであろう。
その竜巻の目玉、これは「キリスト」、「生けるイエス・キリスト」である。「イエス・キリストを信ずること」と言い換えても良い。さらに、「イエス・キリストを信じることによって、その御名による罪の赦しが得られること」と言い直しても良い。イエス・キリストの偉大さに圧倒されるというだけでは、その感銘もやがて薄れて行く。彼を信じ、そこではじめて生きるのである。
さらに、「イエス・キリストを信じる全ての人」という点を見落とさないで置きたい。キリストと私との個人的関係を深めるだけではいけない、キリストを信じる全ての人が視野に入って来る。
イエス・キリストを信じる人ならば、ユダヤ人であれ、異邦人であれ、男であれ女であれ、自由人であれ奴隷であれ、どこに住む人であれ、住むところのない人であれ、まことの信仰と結び付いている悔い改めのゆえに、同一のキリストに属し、それゆえ平等である。
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