2006.10.22.

 

使徒行伝講解説教 第72

 

――10:39-41によって――

 

 

 39節以下でペテロは、自分がイエス・キリストの「証し人」であるという点を繰り返し、繰り返し語っている。
 「証し」ということ、「証しする」ということ、「私が証し人である」ということ、これの意味を先ず論じる必要があるのではないか。証しは人々が信じるために必要である。
 「証し」とか「証人」という言葉は我々の日常生活では余り使わないし、一般の関心も低い。しかし、裁判に関しては一にも二にも証人や証言が必要になる。普通の判断よりももっと重大な決定を下す時、憶測で決めるのでなく、真実をもとにしなければならない。真実が真実であるとは、証言が証言として採用されることである。信仰については、感想や憶測を語っても確かさはなく、証しを語らねばならない。
 では、証しされている事実は何であるか。すでに述べられたことが繰り返されるが、イエス・キリストの出来事である。
 ペテロはイエス・キリストの事実について、これまでずっと説教して来た。すなわち、ヨハネのバプテスマの後にガリラヤから始まった一連の出来事、ナザレ人イエスの存在と業と言葉である。これは数々の側面を持つが、実体としては一つであって、イエス・キリストの事実である。その一つ一つの側面について、したがって事実の全体について、私は証人であると言う。
 使徒行伝の初めのところを思い起こして置きたい。第一に、18節に「聖霊があなた方に降る時、あなた方は力を受けて、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、さらに地の果てまで、私の証人となるであろう」と主は言われた。主イエスが「私の証人」と言われたことがどんなに重要かを心に留めて置こう。
 第二に、その主の言葉に呼応するのであるが、主の昇天後、五旬節が来る前のある日、ペテロは120名ほどの兄弟たちに語った。1章の22節に記されている言葉である。「ヨハネのバプテスマの時から始まって、私たちを離れて天に上げられた日に至るまで、始終私たちと行動を共にした人たちのうち、誰か一人が私たちに加わって、主の復活の証人にならねばならない」。――ここでは12人の数を揃えておかねばならないことが強調されているが、証人のなすべきことの内容も纏められている。その内容はカイザリヤにおける説教のこれまでの部分と重なる。
 同じペテロが語るのであるから、符合するのは当然であるが、122節の方でもイエス・キリストの出来事は、ヨハネのバプテスマから始まったと捉えられていた。したがって、十分な意味におけるキリストの証人は、ヨハネのバプテスマ以来のことを目撃している者に限られたのである。
 少し前の時代から、ユダヤの民衆の間にかなりの感化を与える宗教運動が幾つも起こっていたことが知られている。それらの運動の一つとしてヨハネのバプテスマ運動があり、またナザレのイエスの運動があったのだと論じる人もいる。しかし、時代の傾向から幾つもの運動が起こって、結局一つが生き残ったというふうに捉えてはならない。先触れが現われた時から一貫した出来事がある。それを見ていて、これが先触れであると証言する人がおり、それに続いてキリストが来たりたもうて、御業を全うしたもうたという証言がなされる。
 さて、今日学ぶところは、39節以下である。先ず、「私たちは、イエスがこうしてユダヤ人の地やエルサレムでなさった全てのことの証人であります」と言う。
 主イエスがユダヤ人以外の人の前で御業を示したもうた実例は福音書の中にも幾つかある。それは彼が万民の主であることを示さずにおかなかったからであって、何ら奇異なことではない。しかし、主イエスはことの順序を示しておられる。
 順序というのは、神が約束の民を起こし、その民に約束を与え、その民を通して全ての国民に祝福が及ぶように計画され、時が満ちてその計画を遂行したもうたその順序である。すなわち、神はアブラハムを選んで、祝福し、まだ子が生まれていなかったが、子孫が与えられると約束し、その子孫を約束の民と定めたもうた。そして創世記2218節で、「地のもろもろの国民は、あなたの子孫によって祝福を得るであろう」と言われた。こういう順序で救いの御業は進む。
 だから、約束の成就であるキリストは、順序にしたがって、アブラハムの子孫であるユダヤ人に先ず告知された。主イエスは御在世中、弟子を伝道に派遣されたことがあるが、その時「異邦人の道に行くな。ただ、イスラエルの家の失われた羊のところに行け」と命じたもうたとマタイ伝10章に書かれているのはそのことである。
 これはユダヤ人が先ず救われ、その救いが異邦人にまで及んだという意味ではない。ユダヤ人は真っ先に聞いた。神は真実であられ、約束を守られるから、約束の成就を待っていたユダヤ人に先ず告知された。ところがユダヤ人の多くは聞こうとしなかった。だから、約束の成就の祝福は異邦人に及ぼされることになった。使徒たちはなお引き続いて、アブラハムの子孫にもキリスト証言をし続けるが、証言活動のかなりの部分は異邦人に向けられることになる。
 次に、「人々はこのイエスを木に架けて殺したのです」と言う。人々というのに当たる言葉はないが、前に出た「ユダヤ人」、あるいは「エルサレム」を受けていると見るほかない。キリストの祝福を待っていた筈のユダヤ人の反応はキリスト殺害であった。
 キリストの死については、すでに見たように、異邦人の間にも広く知れ渡っているから、証ししなくても良いのではないか。そう考えられなくもない。また、主イエスの復活の証人ということが次に40節で強調され、それこそが眼目であるのは確かである。しかし、キリストの事実は前から続いているのであるから、殺されたことを省くのは意味をなさない。
 ここでは「木に架けて殺した」という点に注目したい。この言い方は530節でも使われた。ペテロは「あなた方が木に架けて殺したイエスを神は甦らせたもうた」と議会の中で証言する。だから、そこでは木に架けて殺したのは、あなた方、すなわち議会だということになる。しかし、2章の五旬節説教の中で、ペテロは23節で「あなた方は彼を不法の人の手で十字架につけて殺した」と説教を聞く人全員に申し渡し、36節でもその言い方を繰り返す。だから、ユダヤの有力者だけに限ることは出来ない。
 それと比較すると、カイザリヤでは、異邦人の聴衆に向かって「あなた方が彼を殺した」とは言っていない。では、キリストを殺したことについて異邦人は何も問われないのか。そう見てはならない。確かに、ここではその問題は外されていて、ユダヤ人が殺したことだけが語られる。しかし、異邦人がキリストの死はユダヤ人の犯罪であったと考えるとするならば、キリストの死はユダヤ人の間の出来事で終わって、異邦人には関係がないことになる。そうすれば、異邦人は自分自身の救いを見失うことになるであろう。この問題は、今は取り上げないで置くが、人がキリストを信ずる時に明らかになって来ることである。
 「木に架けて殺す」というのは、旧約の中に出て来る言い方であって、殺すだけでなく、木に架けて曝しものにすること、呪われた死である。祝福されたメシヤが呪いを負って死なれたことを指摘する。どういうことか。「我々のために代わって呪いを受けたもうた」という意味である。これはパウロがガラテヤ書313節で「キリストは私たちのために呪いとなって、私たちを律法の呪いから贖い出して下さった。聖書に『木に架けられた者は全て呪われる』と書いてある」という言い方で、キリストの死が我々を呪いから解き放ったことを明らかにしたのに繋がっている。すでにペテロが使徒行伝530節で言っていたことである。
 「しかし、神はイエスを三日目に甦らせ、全部の人々にではなかったが、私たち証人として予め選ばれた者たちに現われるようにして下さいました。私たちはイエスが死人の中から復活された後、共に飲食しました」。
 キリスト証言の核心部分はここである。キリストが殺されたもうたというだけなら証言がなくても、人は知っている。証言のないままに、その出来事から深く感銘を受けている人も少なくない。キリストの死は悲劇として人類の歴史の最高級のものであると評価する人は結構多い。心に溜まっているシコリを吐き出す浄化作用として、キリストの受難物語りは最も広く受け入れられている。
 しかし、聖書の語るのはそういうことではない。イエス・キリストは無理解な人たちによって殺され、善意をもって彼を受け入れようとした人も何とも出来なかったので、ただ、彼の犠牲を後から意味づけることしか考えられなかった、ということなら方向違いである。
 人を殺して置いて後からその死に意味を持たせることは、各宗教で行なわれる。宗教だけでなく、国家も自身を宗教化して、国家のための犠牲者を追悼し、その死の意味付けをする。イエス・キリストはそのカラクリの偽りを指摘されたではないか。すなわち、ルカ伝1147-48節に記されるが、「あなた方は禍いである。預言者たちの碑を建てるが、しかし彼らを殺したのはあなた方の先祖であったのだ。だから、あなた方は自分の先祖の仕業に同意する証人なのだ。先祖が彼らを殺し、あなた方がその碑を建てるのだから」。
 鋭い指摘ではないか。殺された人を後から追憶し、顕彰するのは信仰の業のように見られても、結局は偽善行為なのだ。これはユダヤ人に対する非難であるだけでなく、キリスト教に対する警告である。すなわち、屠られた犠牲を記念するだけでは、たとい「我々のために死んで下さった」と意味付けをしたとしても、中途半端な誤魔化しである。では、どうすれば良いのか。
 もう二度と預言者を殺すようなことはしない、と誓ったとしても、その誓いは間もなくボロになる。「あの人が預言者だということは知らなかった」とか、「周囲の情勢の中で何とも出来なかった」というような言い訳をしながら、過ちが繰り返される。主イエスが指摘したもうた偽善はなくならない。全く別の道を見なければならない。すなわち、根本的な解決は、死への勝利が主によって獲得され、それに与っていることが確認されることである。
 今は簡単に言うに留めるが、キリストはまさにそのことのために死んで甦りたもうた。そのことの確認、したがってそれを確認させるための証言は重要である。キリストの使徒の証しの意味はそこにある。何らかの感銘を与えるならそれで良いという程度の証人なら、なくても良い。
 キリストの復活が全ての人に示されたのではない、とペテロは断言する。キリストの復活は信者たちの幻想に過ぎないという宣伝が古くから行なわれ、それに対抗する弁明として、「予め選ばれた証人にしか復活は見えないようになっていた」という理屈が作られたのだと思っている人もいる。このことについて議論しても始まらないから無視する。Iコリント1514-15節の論法を検討するほかない。「もしキリストが甦らなかったとしたら、私たちの宣教は空しく、あなた方の信仰もまた空しい。すると、私たちは神に背く偽証人にさえなる」。
 ただし、証人として予め選ばれていた人にだけ現われたもうたということは真実である。ベタニヤのラザロが墓から出て来た時は、そにいた全ての人が彼を見た。カペナウムのヤイロの娘が甦った時にも、人はそれを見た。しかし、キリストの復活は500人以上の人が同時に見られたことではあるが、信じない者には見えなかった。彼らが見て信じても、その信仰は風に飛ばされる籾殻と同じである。そのような人を証人として立てることを主はなさらない。
 ペテロはさらに、「私たちはイエスが死人の中から復活された後、共に飲食しました」と言うが、これはどういうことであろうか。死人の中からの復活とは、キリストの復活が彼だけに起こった例外的なことではなく、死人たちの甦りの初穂として主が立ちたもうたという意味である。復活の主との共同の食事について、福音書には幾つもの実例が記される。例えば、ヨハネ伝21章のガリラヤ湖畔での朝の食事である。その美しさにウットリする人もあろうが、美しさに溺れてはならない。確かさこそが大事である。弟子たちは最早それが幻影であると思うことは出来なかった。復活の主は、そのように見えたというだけでなく、肉体を備えたお方として復活された。それ故、主の恵みが単に霊的なものであると捉えてはならない。
 ペテロがここで言ったのは、復活の後、天に挙げられたもうまでの間のことである。その期間は終わったのである。だから経験した者によって証言されなければならない。その後も、生ける主は信ずる者らと共におり、彼らが主の名によって集まり、共にパンを裂くところ、そこに主が臨在したまい、我々はそれを事実であると知るのであるが、そのことにここで触れているのではない。

 


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