2006.10.15.

 

使徒行伝講解説教 第71

 

――10:37-39によって――

 

 

 ペテロが、キリストの福音として、36節以下に纏めて示したものを学び始めている。文書がよく保存されなかったために、文が入り乱れて分かり難くなっている。それで、本来の主旨はこうであったろうと思われる線に戻して、手元の日本語訳と多少並べ方を変えて述べた。それは次のようなものであった。「あなた方はユダヤにおいて起こったあの出来事、ナザレのイエスの出来事を知っているであろう。この出来事はヨハネのバプテスマの後、ガリラヤに始まり、ユダヤ全土に及んだものであって、神がナザレのイエスに如何に聖霊と力を注ぎたもうたかについての報せである。神がともにいます故にイエスは良き御業をなしつつ歩まれ、悪魔に支配されている者を癒された。これは神がイスラエルの子たちに送られた言葉であって、全ての者の主であられるイエス・キリストによる平和の福音である」。――この言葉を少しずつ解き明かし始めた。
 「あなた方は御言葉を知っている」というふうに、口語訳でも新共同訳でも訳している箇所の「御言葉」、これは確かに言葉と訳すのが通例であると思うが、初めて御言葉を聞く人にそのように語り掛けたと取るのは無理なように思われる。そこで、これは「事柄」、「出来事」という意味もあるので、その意味に取った。
 先週学んだところと重複するが、語り出しはこうではなかったかと考える。「ナザレのイエスの出来事、これをあなた方は聞いたのだ。あなた方はユダヤに住んでいる外人として、イエスの噂を聞き、不思議な人物よ、と思ったであろう。ガリラヤから始まってユダヤ全地に強い衝撃を与えた人、この人がユダヤの議会で死に定められ、総督ピラトによっても十字架刑の判決を受け、エルサレムに駐留しているローマ兵によって刑が執行され、それを指揮していた百卒長が非常な感銘を受けたということも伝え聞いたであろう」。――これがペテロの語った説教の本体の第一部分であった。
 カイザリヤに住んでいて、コルネリオの家に集められたローマ人たちは、ナザレのイエスを十字架刑で殺された悲劇の人として認識し、噂していたというのである。さらにその噂は、ピラトが釈放しようとしているのに、ユダヤの有力者たちが反対して無理矢理殺したものだという解説が加えられたであろう。
 過去の人を話題にすることは日常的に多い。その殆どの場合、彼の生涯と業績をめぐって語られる。ところが、ナザレ人イエスに関しては、最重点として「死刑にされた」人として語られて来た。我々においてもそうであるが、彼について第一に印象づけられるのはその「死」であった。昔も今もずっとそうなのである。主イエスが良いことをなさった、素晴らしい教えを与えたもうたということも無視されないが、何よりも「十字架のキリスト」として語られ、そのことが先ず心に刻みつけられる。聞いた人々はここを糸口として、キリストとの関わりに踏み込んで行く。それ以外のところから深く入ろうとしても、決して深入りすることが出来ない。ペテロの説教もそれであった。
 しかし、深く踏み込んで行くに及んで、この方が「全ての者の主」なのだということが決定的な要点として捉えられ、その時に回心が起こる。「あなた方は、エルサレムで十字架につけられたこの人のことを聞いているが、自分に関係がある方だとは思わなかったであろう。しかし、大いに関係があることが今や明らかになっている。この方があなたの主なのだ」。
 今ペテロはカイザリヤの異邦人にイエス・キリストを宣べ伝えようとして、彼が「全ての者の主」なのだと宣言する。初め「ナザレのイエス」と呼ばれた人が「ユダヤ人の主」と見られた故に殺された。そこから一転して「全ての人の主」と呼ばれるようになったのだが、それは、彼に従い、彼を信ずる人たちの間においてであり、彼らが主の復活に出会って後のことである。
 初期のエルサレム教会の説教のなかで、なお暫くは「ナザレ人イエス」と呼ばれていたことを我々は見て来た。主イエスという呼び名が定着するまでには少し時間が掛かった。それ以外の人たちの間では、この方が主であるとは認めないのであるから、後々に至るまで「刑死人イエス」というような意味の名で呼ばれるほかなかった。
 さて、このイエス・キリストの出来事について、ペテロは「ヨハネのバプテスマの後」と言っている。つまり、ヨハネの出現を前触れとしていることに注意を向けさせる。ヨハネのバプテスマとは、イエスのお受けになった洗礼と取っても、ヨハネが人々に施した洗礼と取っても良い。これは時間的前後関係がどうであるかを示すからである。
 バプテスマのヨハネのことも、異邦人の間で或る程度知られた。ルカ伝314節の記事によれば、兵卒がヨハネのもとに来て「私たちは何をすれば良いのですか」と尋ねている。多くのユダヤ人がヨハネの説教に感動し、彼のいるヨルダンの荒野に集まった。この国の有力者や支配する者らは、叛乱の準備ではないかと恐れた。しかし、ヨハネには権力を覆そうというような意図は全然なかった。それでも、結局ヘロデに殺された。ヘロデにとってはヨハネの存在が目障りであり、怖かったのである。
 ペテロ自身、初めはヨハネの感化を受け、ガリラヤの漁師の仕事をなげうってヨハネの弟子になった。そのヨハネに促されて、ナザレ人イエスの弟子になった次第がヨハネ伝に書かれている。ヨハネ伝以外にはそのように伝えている資料はなく、さほど重要なことでもないように見えるが、とにかくヨハネが謂わば「露払い」の役を勤め、続いてキリストが来られたという経過があることは全ての福音書の強調する重要事である。だから、ペテロはカイザリヤの会衆に向けても、ヨハネが先ず来て、次にキリストが来られた繋がりへの注目を促す。
 二つの意味が読み解かれねばならない。一つはヨハネの到来自体、預言の成就だということ。マタイ伝3章の冒頭、マルコ伝の冒頭、ルカ伝3章の初めに、イザヤ書40章の預言が成就したと書かれている通りである。さらに、ヨハネ自身マラキ書45節のエリヤ再来の預言の成就を意識して、エリヤと同じ服装をした。
 第二は、今言った福音書三つとも共通して示す通り、ヨハネの教えの中心は「悔い改めによる赦し」であり、主イエスも「悔い改めて福音を信ぜよ」と教えたもうたその繋がりである。ヨハネは単にキリストが間もなく来られると予告しただけでなく、キリストが来て宣べ伝えたもう悔い改めによる赦しを宣べ伝え始めた。悔い改めによる罪の赦しの宣教という出来事がこうして起こった。この悔い改めによる罪の赦しが、かつて説かれたのを偲ぶという意味でなく、キリストの教会においては終わりの日に至るまでこの宣教が活き続けるのである。
 今ペテロが語るのは私たちの主イエスの出来事についてである。一人の人イエスについて語られていると言って良いであろう。しかし、それが一巻の人物伝のようなものでないことは我々に分かっている。これは神のなさった御業、事件として捉えるべきである。この事件が一世を震駭させたことには既に触れた。
 これを神のドラマと言うことは分かり易いかも知れないが、たとえを借りるには余程注意深くなければならない。そのドラマには、何人もの人が神によって関与させられている点は見落とさないで置きたい。中心であるイエス・キリストと比べるなら、靴の紐を解くにも値しないヨハネが、先触れ役になっている。ペテロ本人も端役であるが、ここに配置されて証し人になっている。
 この事件は、大型台風が周囲の空気を巻き込みながら大きくなって行くように、人々を巻き込んで大きくなって行った。最初ガリラヤの人を巻き込み、したがって最初の弟子は殆どガリラヤ人であったが、間もなくユダヤ全土に広がる。カイザリヤは地域としてはユダヤの一部であるから、ユダヤ人でなくてもその出来事に無関係、無関心ではあり得なくなった。というよりも、あなた方はすでにその出来事に巻き込まれ、関与させられている、と言われたと解釈するのが適当であろう。
 どういう事件であるか。神がナザレのイエスと共にいまし、聖霊と力を与えたもうた。それ故に、主イエスは神のなされる業をしたもうた。ここでは、良いこと、癒し、悪魔からの解放が上げられている。良いことというのは恵みの御業の全般に及ぶものである。
 ところで、キリストについては、もっとキチンとした教理を説かねばならないのではないか、と感じる人もあろう。例えば「神の子」、あるいは「独り子なる御子」、あるいは、「まことの神、まことの人」という項目はここにない。「贖い主」、贖いをなしたもうお方という旧約以来定着した言葉もない。尤もな問いだと思うが、これはペテロが初めて異邦人相手に行なった説教である。その資料が古いままで保存されていた。形が整っていないではないかと批判して何の意味もない。むしろ、我々はここにナザレ人イエスのなさったことを当時の人々が最も素朴な形でどのように受け止めたかをまざまざと見ることが出来るのではないか。そして、後の時期に教会の中で整えられた教理の箇条と矛盾するところはない。
 そこで、主イエスが癒しの奇跡を行なっておられたことを取り上げる。人々がその点に注目し過ぎて、もっと大事な事柄を見ようとしなかった事実を忘れないでおきたい。主イエスは「しるし」を見て信じようという姿勢を持つ人々について「邪悪で不義な時代は徴しを求める」と言われた。
 そうではあるが、彼のなさった驚くべき御業について無関心になる方が良いと考えるなら、重大な誤りである。この点については一つのことを思い起こせば良い。それはヨハネが獄中から弟子たちを使いとして送って、主イエスに尋ねさせた件である。「来たるべき方はあなたなのですか。それとも他に誰かを待つべきでしょうか」。――ヨハネは自己が来たるべきメシヤの先触れであると確信し、かつナザレのイエスこそがそれであると確信して全力を投入して走って来た。今、ヘロデによって投獄され、やがて首を斬られようとしている時、自分が信じて来たことはあれで正しかったのかを確認せずにおられなかった。
 この問いに対して主は答えられた。「行って、あなた方の見聞きしていることをヨハネに報告しなさい」。――見聞きしたこと、それは見て驚き、聞くだけでも驚くような「癒し」の奇跡である。それを見て躓かずに判断する人は、約束された方が来られたことを確認するのである。
 このような奇跡がその後も代々ずっと続いて起こらねばならないのか。そうではない。主イエスの徴しによって、彼が「来たるべきお方」であることが確認された。そして、使徒によって「イエスの名」の奇跡が行なわれることによって、彼が生きておられ、彼の御名に命と力があることが示された。そこまでで、奇跡の役割は一応終わったと言うべきである。教会は御言葉を宣べ伝えることと、キリストが僕でありたもうたように僕の業を勤めて行くのである。
 しかし、ナザレのイエスに聖霊と力が注がれたことは、もう終わったことであって、その時の昔話をただ繰り返し味わうだけの時代に移ったのか。そうではない。神はナザレのイエスに聖霊と力を注ぎたもうたように、信ずる者にはイエスの名によって聖霊を賜わるのである。悪魔に押さえつけられている者の解放は、この聖霊の力によって行なわれている。そういう意味において、ガリラヤから始まった渦巻は今も続いているということを我々は知っているのである。
 「これは神がイスラエルの子たちに送られた言葉であって、全ての者の主であられるイエス・キリストによる平和の福音である」。
 「イスラエルの子」という言葉は、かつてはユダヤ人を指すものであった。したがって異邦人は別扱いになる。後には、「選びに与り、約束を受けている民」という意味で、キリストの民のことを指すようになる。では、ペテロが語っているこのところでの意味はどうなのか。言葉としては、先になされたという言い方であるから、ユダヤ人に向けての言葉と取るべきであり、したがって彼らが先ず聞いたと取るべきであるが、実際にはユダヤ人の中にこれを聞かない者が多かったので、結果として、約束の子は世界に広がる。ただし、その拡がり行く言葉は、約束とその成就という意味を含む。聞く人が自分に約束が与えられていたことについて知らなかったのではあるが、約束されていたということは事実だと後で認めずにおられなくなる。
 これが「平和の福音」と呼ばれる。平和という言葉が異邦人の心を揺り動かしたことを思わずにおられない。この言葉の意味をここで解き明かすことに十分な意味があるが、話しの全体を先に纏めた方がよいから、今は省略する。平和は旧約において約束され、待ち望まれたもので、聖書の最も主要なテーマであるが、「イエス・キリストによる平和の福音」というふうに一つに繋がった言葉として把握すべきであろう。平和と言うだけでは曖昧なのだ。では、キリストの平和はどういう意味か。キリストが平和を与えたもうということか。それもある。キリストを信じる人たちが作り出すのが平和だという意味か。勿論その意味もある。「平和ならしむる者は幸いなり」と主イエスは言われた。
しかし、キリストこそが平和であるというふうにキリストを捉え、また平和を捉えねばならない。

 


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