2006.10.01.

 

使徒行伝講解説教 第69

 

――10:27-33によって――

 

 

 コルネリオの家にはすでに大勢の人が待っていた。それはコルネリオの呼び掛けで集まった親族や友人たちであると書かれている。したがって、大部分は異邦人であったと思われる。この章の45節で見られることだが、この時の出来事の証人となるのは、ヨッパからペテロに随いて来た数人のユダヤ人キリスト者であって、それ以外は殆ど異邦人だったはずである。これは大量の異邦人のキリスト教入信の最初の記録である。だから、この報せがエルサレムに伝わった時、エルサレム教会の中の保守的ユダヤ人は衝撃を受けた。前代未聞の事件であったからである。彼らの衝撃については、11章に入って改めて学ぶことにする。
 この後、1119節以下の記事に、アンテオケにおける異邦人の大量受洗があり、その後、パウロたちが派遣された伝道によって、異邦人のキリスト者が続々と増えて行った。すでに見たように、異邦人伝道としては、ピリポによってなされたエチオピヤの宦官を対象とするのが一件あったが、それを別とすれば、カイザリヤにおけるペテロの伝道が最初である。
 ところが、カイザリヤで始まった異邦人伝道は、ここだけで停止してしまい、組織的に進められて、他の町々に広がって行くことにはならなかったらしい。――時がまだ熟していなかったというか、ペテロがまだ伝道の方針を確立していなかったためか。カイザリヤがユダヤでは外国人居住者の特別に多い孤立した地域だったという理由があるのかも知れない。
 とにかく、継続的で組織的な異邦人伝道は、カイザリヤから発展することはなかった。1119節以下で学ぶように、外国伝道はシリヤのアンテオケから始まる。アンテオケの教会、それにエルサレムから来たバルナバと、タルソから呼び寄せられたパウロが加わって、この事業が展開した。
 カイザリヤにおいて起こったのはどういうことであったか。百卒長コルネリオはヨッパにペテロを招くために使いを送る一方、カイザリヤ市内で自宅に人を集めた。だが、彼の呼び掛けによって、どうして多数の異邦人が集まったのか。こういうことが本当にあり得たのであろうか。
 ガリラヤで、主イエスが福音を宣べ伝えたもうた時、多くの人が集まって来た。そういう記事を福音書で読んで、我々はすでに読み慣れているからでもあろうが、不思議とも思わない。なぜなら、「異邦人のガリラヤ」と呼ばれ、蔑まれたこの地に光りが照るという預言があったからである。
 五旬節の朝にも、エルサレムで宮に来ていた多くのユダヤ人たちが、ペテロたち12人のいる所に駆け集まった。このことも不思議とは思わない。この朝、大音響が起こり、五旬節でエルサレムの宮に来ていた人々は、何のことかと関心を抱いて集まった理由は分かるからである。しかし、カイザリヤで多くの異邦人を集めるほどの奇跡が起こったわけでもない。コルネリオが一生懸命に集めたのである。それでも、百卒長コルネリオにカイザリヤ市民を大量に集める力があったとは考えられない。彼には百人の隊員を服従させる権能はあったが、兵卒に号令してペテロの説教を聞かせたということではないと思う。
 話しが飛ぶようだが、カペナウムにいた百卒長のことを思い起こすのである。彼は僕の病気を主イエスに癒して頂きたく願った時、「権威のもとにある人間」という比喩を用いて、その願いを申し上げた。すなわち、百卒長自身は権威のもとにいて、上にある権威に従って死も恐れず命令を遂行しなければならない。しかも、彼の権威のもとには、それに従う人々がいて、隊長の命令のままに動く。そうであるなら、この世で悪しき力を発揮している「病い」の悪霊に対し、権威ある御言葉が命じるとき、病いは退くほかない。だから、「御言葉を下さい」。こう申し上げた時、主イエスは、「イスラエルの中にも見られないほどの立派な信仰である」とこれをお褒めになった。
 カペナウムの百卒長とカイザリヤのコルネリオは確かに別人であるが、相通じるものをもっていると考えることは出来る。いや、「相通じるものがあると考えることが出来る」という程度以上のもの、むしろ二人に共通した性格の信仰を読み取るべきであろう。だが、そうであったとしても、コルネリオが号令を掛けて部下百名にペテロの説教を聞かせたと考えることは無理であろう。権力を利用した伝道や、世俗的利益を誘導する伝道はあってはならない。
 部下のうちに一人、神を恐れる信仰者がいた。彼はヨッパまでコルネリオに代わって迎えに行ってくれた。その兵士がペテロの説教を聞いたことは勿論である。それにしても、コルネリオが持っている地位を利用して福音を広げることはなかった。上下関係は福音伝達には無縁である。ただ、友人関係、親族関係は手がかりとして用いられることもある。
 コルネリオは親族や親しい友人を呼び集めたと書かれているが、話しの通じる人に呼び掛けるほかなかった。コルネリオは人格者だったらしいが、その感化力で人々を多く集めたということにはならないであろう。コルネリオは熱心に人集めをした。しかし、それで人は集まったか。
 むしろ、これまで霊的なことに関心のなかった多くの異邦人が集まったこと自体が奇跡であると捉えた方が分かり易いのではないか。多くの人が集められた出来事について説明しても、それで分かることではない。
 ユダヤ人であるペテロが、異邦人であるコルネリオと集まった人々と親しげに話すことは、ユダヤ人の習わしを知っている者には不思議である。だから、ペテロは自分が躊躇なしに招きに応じたのは、神からの特別な示しがあったからだと説明をした。
 ユダヤ人は久しい間、世界中で自分たちだけが選ばれた聖なる種族であると自認し、他国人は汚れていると見て来た。この偏見が深く染み着いていて、他国人のところに出掛ける要件があっても、要件だけの付き合いに留め、深入りしない。ユダヤ人が世界に出て行って商売をすることはすでに盛んであったが、彼らは他国人と一線を画していた。今日においても、この姿勢がなくなっていない。
 キリスト教は、最初の時期には、ユダヤ人によって広められた。外国に行っても、ユダヤ教の会堂がある町では、必ずその会堂を拠点として伝道が始まったのである。もともと、ユダヤ人と異邦人の間に段差があるという考えがあった。異邦人の側からユダヤ人を特殊視することがあったのも確かであるが、ユダヤ人の側から、異邦人を別世界の人のように考えて、交わりをしなかったとことも事実である。
 こういう段差が打ち壊されなければ、キリスト教の世界的な展開はなかったであろう。そして、その障壁を打ち砕くために主の取られた手段は、キリスト者となったユダヤ人側の生き方を変えさせるという方法であった。異邦人が変わらなければならなかったのではないか。事実、異邦人は変わったではないか、と言われる。それは言えなくない。たしかに世界が劇的に変化した。
 しかし、注意したい。我々が地中海世界の精神的・思想的変化を論じることは間違いでないが、それは歴史家としての議論、あるいは歴史家の真似をした論評に過ぎない。その議論にどれだけの意味があるのか。
 もっと意味のあるのは、キリスト者となったユダヤ人が変えられたことである。変わることを拒絶したユダヤ人もいたが、そういう人たちはユダヤ教徒として凝り固まった。変わって行ったユダヤ人キリスト者、これはもうユダヤ人とは名乗らず、自分たちの先祖がユダヤ人であったということも言わなくなる。彼らは世界市民になった。そして自分のことを「キリスト者」と言うようになった。この変化の大事な点を我々は今学んでいるのである。
 このようになって行く歴史の流れを大まかに纏めて置こう。先ず、聖書を持っている民がいた。それはユダヤ民族とほぼ同一である。後にごく少数、聖書を読み始めたギリシャ人がこれに加わる。聖書がギリシャ語に翻訳されたからである。ギリシャ語で聖書を読む人も御言葉を聞いて信じるならば、聖書の民である。
 この聖書の民のうちに、「聖書の約束はイエス・キリストの来臨によって成就した」と確信し、主張する一団が起こった。我々が使徒行伝の初めから追って来たのは、その集団の歩みである。彼らはイエス・キリストが「使徒」として立てたもうた12人を柱とする集団であって、「主は生きておられる」、「主はふたたび来たりたもう」という信仰に立っていた。
 この群れは、最初、きわめて少数で、信仰も弱かった。これはイエス・キリストが宣教したもうたガリラヤに起こったようであるが、十字架につきたもうキリストに従って、エルサレムに登る。この群れがキリストの死と復活を証しする集団となって、ユダヤ全地、サマリヤへと延び、シリヤのダマスコへも広がって行った。それでも、入信者は、若干の例外があったと思うが、ユダヤ人、すなわちヘブル語を用いるか、ギリシャ語を用いるかの違いはあるとしても、ユダヤ人だけであった。
 この聖書の民は、先に触れたように、聖書のギリシャ語訳ができたため、ユダヤ人以外に広がるのである。ギリシャ人でギリシャ語聖書を読み、聖書の成就を信じた人たちは、聖書の民なのである。聖書はさらに多くの国語に訳され、聖書の民はいよいよ広がって行く。
 しかし、この拡がりを阻止する要素がユダヤ人の内部にあった。「聖書はまだ成就していない」。「キリストはまだ来ていない」と主張するユダヤ人は、キリスト教会を排斥して、ユダヤ教の会堂に立てこもる閉鎖集団になる。当初、ユダヤ教とキリスト教の区別はさほどハッキリしていなかったので、教会の中にもキリスト者になったつもりのユダヤ主義者がいた。キリスト者と名乗り、その意識はかなり明確なはずの人でも、異邦人差別の旧弊に囚われたままの人はかなりいた。「異邦人に対する差別はしていない」と言っている人の中にも、染み着いた慣習が偏見として残っている傾向があった。その傾向が砕かれて行く過程を今見ている。
 この変化はキリスト教の性格を決定する重要事件である。この新しい性格を拒絶する人たちはユダヤ教に残った。あるいは旧約時代のユダヤ教と区別される新しいユダヤ教を作ったと言って良いかも知れない。こうしてキリスト教とユダヤ教は別々の宗教になった。ここで注意しなければならないのは、キリスト教と称している集団でも、仲間内だけで固まり、自己目的化した集団になり、自分が変わることを拒んで、相手を変わらせようとする傾向が蔓延しやすいということである。
 12使徒の代表者と見られるペテロにおいてすら、この傾向があった。自分では主イエスの教えが分かっており、これに服しているつもりでありながら、道を踏み外していることに気付かなかった。その悪弊が、ヨッパで見た幻により、また丁度その時刻にカイザリヤから到着した使いによって示されたので、直ちに自らの過ちに気付いて、変わった。そして、カイザリヤに行くことに決めたのである。
 異邦人を排斥するつもりはなかった。しかし、排斥していなくても、異邦人が御言葉を求めている事情には無頓着であった。彼がエルサレムから、ルダやシャロンの野、またヨッパの地域に来たのは、明らかに福音宣教のためであるが、ユダヤ人に伝道することしか頭になかった。ヨッパまで行けば、次はカイザリヤだと考えて当然だと思われるのだが、異邦人の多い町カイザリヤには関心がなかったらしい。
 このような偏見は神が示して下さらない限り自分では分からなかった。「主よ、それは出来ません。私は今までに潔くない物、汚れた物は何一つ食べたことはありません」。ペテロは自分の正しさを主張する。しかし、「神が潔めた物を潔くないなどと言ってはならない」と三度も言われる。
 食物に区別をつけていたのが無意味になったと同じように、人と人とを差別することも意味を失ったのであり、むしろ神に対する反逆であることが、比喩の幻によって示されたのである。
 ペテロの最初の挨拶と、それに対するコルネリオの答えについては、すでに学んだことと重複するから、今は省略してもよい。大事な点は、御言葉が語られることを阻害する妨げを、主御自身が取り除きたもうたというところにある。
 「今、私たちは、主があなたにお告げになったことを残らず伺おうとして、みな神の前にまかり出ているのです」。
 異邦人たちが、一言も洩らさず、ペテロの語る御言葉を聞き取ろうと待ち構えている。そのように待たれていることを、ペテロは知らなかった。知ろうとしなかった。こういう事実がいつも、どこにもあるのだと言っては、伝道の熱意を掻き立てるだけの激励に終わる。我々が聞き取らねばならないのは、主が備えたもうのでなければ、聞くことが始まらないということである。

 


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