2006.09.17.

 

使徒行伝講解説教 第68

 

――10:17-26によって――

 

 

 ペテロが見た幻は、幻そのものとしては意味不明、したがって何のためにこのような物体を見せられたかが分からない。だから彼は「今見た幻は何の事だろう」と思案にくれた。どういう形のものであったかは言える。絵に描くことも出来る。しかし、意味が分からないから、精神を病んだ人の幻覚症状と同じものに扱われかねない。
 だが、幻は見えただけでなく、そこに御言葉が添えられていて、全てを語っている。だから、御言葉を聞けば全て分かると思われる。それでも、神がペテロに幻をもって示されたことは、無意味であったと言ってはならない。
 「幻」という言葉は、人々が常識的に使っているのと、聖書で聞くのと、語としては同じでも中味が大違いだということに我々は気付いている。聖書では、幻は啓示や預言という意味を持つ場合が多い。例えば、ヨエル書228節、「そののち私は我が霊を全ての肉なる者に注ぐ。あなた方の息子・娘は預言をし、あなた方の老人たちは夢を見、あなた方の若者たちは幻を見る。その日、私はまた我が霊をしもべ、はしために注ぐ」。
 神から示されたことだから、確信して受け入れるべきもの、という含みがある。一方、聖書の民でない人々の間では、幻は真実とか現実と真反対のものとして蔑まれ、良い意味で幻と言っている場合でも、「叶えられなくても、もともと」という言外の意味を引きずっているのではないか。それを聖書で言っているものと混同すると読み違いになる。
 ペテロがヨッパで見た幻が、啓示であったと言って間違いないが誤解を招くかも知れないから、ここでは避けておく。だが「しるし」ではある。しるしには御言葉が伴う。
 神の与えたもう「しるし」は殆どの場合、ペテロの見た幻のように、それ自体としては何を言うのか分からない。だが、そのしるしの意味の解き明かしが伴う。そうすると、しるしは俄然、ありありと意味を顕す確かなものとなって、約束の確認とか、あるいは信仰の決断を支えてくれる。
 神がこのような手段をお用いになる実例は、聖書の中に少なくない。心に決めたとか、心にフト思い当たったということではなく、それについての神御自身の確認がある。その確認が「しるし」によって行なわれるのであるが、「しるし」として用いられているそのものに意味があるとは言えない。例えば、神はノアに、洪水の後、二度とこのような全面的破滅を齎らすことはないと誓いたもうて、そのしるしとして虹を示したもうた。彼も、彼の子孫も、常時虹を見るわけではないが、御言葉があるから、神の約束を確認するのである。エレミヤにはアメンドウの花が示されたが、神が見張っておられるという意味であると解説される。
 「しるし」には、虹のようなありふれた自然現象が用いられる場合もある。奇跡が用いられる時もある。ヨッパでペテロに示されたのは、一つの物体が下りて来てまた引き上げられたというだけの単純なものである。幻想的と言われるかも知れないが、ペテロが思い描いた幻ではなく、彼に示され、彼はただ受け身になってそれを見るほかなかった。
 ペテロに示された幻は、ノアの場合の虹と同じ種類のものとは言えないが、働きとしては同じである。幻の中で「神が潔めたもうたものを、潔くないなどと言ってはならない」との御声が響いたが、その幻は主の直々の説明ではなく、ペテロに比喩を解釈する力を与えることによって解き明かされるようになっていた。すなわち、ペテロは28節に「神は、どんな人間をも潔くないとか、汚れているとか言ってはならない、と私にお示しになった」と解釈を言う。このように、比喩であると解釈出来たのである。
 この幻が示したのは、もともとは、全ての食物は潔い、つまり食べて差し支えないのに、区別をするのはいけない、ということである。ペテロはそれを人と人の間の区別や差別が禁止されたのだと正しく解釈した。ただし、初めからペテロに解釈能力があったと言うのは言い過ぎだ。ペテロはなおも思いめぐらさねばならず、御霊の与える次の示し、すなわち、19-20節、特に「私が彼らをよこした」との御言葉を聞くまでは、解釈出来なかったのである。しかし、この解釈が分かった時、ペテロに示された幻の使命は終わる。だから、この幻は二度と示されなかった。
 今日とくに学ぶべきことではないが、目に見える「しるし」が今も我々のために用いられていることに少し触れて置くのは、余計な議論ではないと思う。すなわち、教会では聖晩餐という「しるし」が執り行われる。また、10章の終わりでも見るように、水のバプテスマがコルネリオたちに、また我々に与えられる。主の命令によって執り行われる徴しであるから、人は逆らうことが出来ない。
 しかし、「信仰は聞くことによる」、そして「聞くことは御言葉による」と言われているではないか。何故、聞くのでなく、しるしを見るのか。しるしが補助役を勤めているから、その分だけ御言葉の中味が減っていても大丈夫ということなのか。――そうではない。御言葉があってこそ「しるし」は成り立つ。御言葉が語っていない内容まで「しるし」が補足するというものではない。
 それなら、「しるし」はなくても良いのか。――或る意味では、「なくても良い」と言えるであろう。緊急事態というものがある。聖礼典を受ける機会を失した者は救われないのか。そういうことはない。信ずる者は救われる。ただ、その信仰がほんとうにシッカリしているかという問題は常にある。だから、主は見える「しるし」によって信ずる者の信仰を支えて固くしたもう。
 ただし、「しるし」は必要であり、有用であるとはいえ、いつでも用いられる、と、安易かつ無制限に言うべきでない。例えば、「今日は良い天気で、これは神が祝福しておられることのしるしである」と感じる。それは、それで良いと言えるが、天気が悪くても神の祝福があることを否定してはならない。したがって、気の向くままに、あれもこれも「しるし」だと言ってはならない。御言葉によって指定されているものだけが「しるし」だということを弁えなければならない。
 さて、皮なめしシモンの家に、ちょうどその時、カイザリヤからの使いが到着した。それに気付かないほど、ペテロは屋根の上で一心に問題を考えていた。確かに、これは御霊が語り掛けて解き明かさなければ、解けない難問であった。
 御霊が言った、「ご覧なさい、3人の人たちがあなたを尋ねて来ている。さあ、立って下に降り、ためらわないで、彼らと一緒に出掛けるが良い。私が彼らを遣わしたのである」。
 御霊はペテロに「見よ!」と注意を促すが、直ぐ前のところで「ちょうどその時」と訳されているのも「見よ!」という言葉である。ここを読む我々も注意を促されている。
 ペテロが「何の用で来られたのですか」と尋ねたので、使いの者らは答える。これは「私自身が遣わした」と言われた方のお答えとして受け取れば良い。
 「正しい人で、神を敬い、ユダヤの全国民に好感を持たれている百卒長コルネリオが、あなたを家に招いてお話しを伺うようにとのお告げを、聖なる御使いから受けましたので、参りました」これが3人の答えであった。
 ペテロに対して先に20節では「私が彼らを遣わした」と御霊が言われたが、その前に103節では御使いが命じたと言われた。同じことである。ヨッパに来た3人は、自分たちを遣わした人、百卒長コルネリオについての説明を始める。これも別のことではない。神が命じ、御使いが命じ、百卒長が命じる。これは一貫している。
 百卒長を先ず「正しい人」と言われる。聖書の言い方では普通「義人」と訳される。ここでも義人と取った方が意味がよく通じる。この3人がどういう意味で「義人」と呼んだのかは明らかではない。だが、御使いがコルネリオに「あなたの祈りと施しが神のみ前に届いている」と言ったのと、義人の意味は同じである。これで決着がつく。
 「神を敬う人」という呼び方がどういう意味であるかについては、2節ですでに学んだ。異邦人だが唯一の神を信ずる人という意味でユダヤ人が使っていた言葉である。アブラハムの子孫によって全人類が祝福されるという約束を信じる人たちが使った。ただし、この言い方がいつから始まったかについては分からない。少し後の時代には確かに使われている。そして、異邦人がユダヤ教の会堂に出入りすることが始まっていたのも確かである。それは使徒行伝のこの後の記事で読むとおりである。
 次に「ユダヤの全国民に好感を持たれている」という。この訳語が適切かどうか、私には分からない。直訳すれば「全てのユダヤ人の証しを持つ」という言葉になる。カイザリヤのユダヤ人ならば、彼のために証しをする、という意味である。ローマ帝国のユダヤ支配の中心地というべきカイザリヤで、その軍事的支配を最も露骨に象徴しているのが軍隊であり、特に百卒長である。その百卒長に対してカイザリヤにいるユダヤ人だけでも、本当に尊敬を持っていたのか。証拠があるのか。
 このことで議論しても始まらない。我々は神が道を開きたもうた、ということで満足しよう。実際、使徒行伝でこれまで読んで来たことは、全て神が道を開いておられたことの証しであった。占領軍であるローマ兵、しかもその隊長、その人にユダヤ人が好意や尊敬をもつ……。とても考えられないことであるが、前々回にもルカ伝7章から引いたように、カペナウムの百卒長の主イエスへの願いを、カペナウムの会堂の長老たちが取り次いだのである。
 コルネリオがユダヤ人の間でよき証しを持っていたということは、ペテロを異邦人の中に連れて行くためには有力な手がかりとなった。また、キリスト教会がカイザリヤの町にシッカリと建て上げられて行くためのよき備えになった。
 こうして、ペテロはカイザリヤからの招きに素直に応じるのであるが、すでに幾つかの例で見た通り、使徒が積極的に道を切り開いたというよりは、先方から求められた場合が多い。これは、求められてもいないのに押し掛けてはならない、ということではない。しかし、人間の側の積極性を過信したり、吹聴したりしてはならない。先立ち行きたもう主の後にしたがうという姿勢を忘れたまま、前進! 前進!と叫んでいると、道を踏み外しても分からなくなる。
 大事なことは、迎えに来た人、また迎えに寄こした人が、神から遣わされた人だと確信出来た点である。それはペテロの判断でなく、神のお告げに対する服従であった。そういうことがあるとは信じ難い。であるが、神がしるしによって示したもうたから、信じ従ったのである。
 ペテロはこの3人を受け入れてシモンの家に泊まらせ、翌日、カイザリヤに向けて出発する。ヨッパの兄弟たち数人が一緒に行ったのは、カイザリヤにおける新しい働きに立ち会うためである。彼らが同行を決意したのは、恐らく、その夜集会があって、ペテロが説教の中でカイザリヤにおける主の新しい御業に触れたからである。
 ヨッパを朝発てば夕方までにカイザリヤに着くはずであるが、到着は翌日だった。出発が遅かったのか、歩みが遅かったのか、それは分からないが、コルネリオの家では人々が集まって待っていた。コルネリオの親族、親しい友人が呼び集められていた。ユダヤ人と異邦人が混じっていた。そこに福音の仕え人が到着する。それが感動的な場面であったと想像して間違いないが、そういうことを論じて時間を費やすことは要らない。
 25節と26節に記されていることに注意したい。「ペテロがいよいよ到着すると、コルネリオは出迎えて、彼の足許に平伏して拝した。するとペテロは、彼を引き起こして言った、『お立ちなさい。私も同じ人間です』」。
 コルネリオにとってペテロは殆ど御使いと同じ権威ある存在であった。コルネリオはペテロが神と同格とは思っていないが、神に代わって救いのメッセージを齎らす。だから、あたかも神に対するように恭しく接しなければならないと思われた。それが差し止められる。
 二つの面から考察しなければならない。一つは人間に対する尊敬は行き過ぎになってはならない。例えば、「平伏す」という敬礼は禁じられる。ヨハネ黙示録19章にも22章にも例があるが、ヨハネは御使いに平伏そうとする。御使いはそれを差し止め、2回同じことを言う。「そのようなことをしてはいけない。私はあなたと同じ僕仲間である」。すなわち、平伏すのは神に対してのみである。それが具体的問題となるのは皇帝礼拝である。上にある者を崇めるのは正当なことだと思い込みやすい。しかし、度を越して平伏してはならない。皇帝礼拝が強制される時、実施の先頭に立つのは百卒長であったことも考えておくべきである。
 もう一つの面はさらに重要である。コルレリオはペテロから御言葉を聞こうとし、神の言葉であるから、語る人を神と同じ位置に立てて聞けばよいと考えている。確かに、人間ペテロの言葉を聞くのではなく、神の言葉を聞くのだ。しかし、神の言葉を語ってくれる人は「僕仲間」、仕えるという点では聞く人と同格である。福音が教会に託されたというのはそういう意味である。説教者が一段高いところから、崇められつつ語るのでない。それが神の言葉である故に聴従するということが起こるのである。

 


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