2006.09.03.

 

使徒行伝講解説教 第66

 

――10:1-8によって――

 

 

 カイザリヤの町は、ローマのユダヤ支配のためには、エルサレム以上に重要であった。総督はエルサレムにも来るが、カイザリヤに滞在する方が多かったようである。こういう実情は、パウロがエルサレムで逮捕されてカイザリヤに護送された、使徒行伝25章の記事でも見ることが出来る。総督だけでなく、ヘロデ・アグリッパ王もカイザリヤに居住していたことが、パウロに関する記録で見られる。
 ここはユダヤの町であるが、ユダヤ人よりギリシャ人の方が多かったと言われる。ギリシャ人と言ったのは、ローマのユダヤ支配のスタッフや関係者であろう。コルネリオも明らかにその一人であった。
 昔は塔があるだけの海岸だった。その塔をローマ皇帝がヘロデ大王に与え、ヘロデがそこに町を築いて、カイザルの名を貰ってカイザリヤと呼ぶようにした。港としてはユダヤではヨッパ以上に重要なものとなった。交通と貿易の関係で、ギリシャ語を使う外国人とギリシャ語を使うユダヤ人が多かった。8章の終わりには、ピリポがついにカイザリヤに来たと書かれていたが、彼が最終的にはカイザリヤに落ち着いたという意味であって、ペテロが来た時にはピリポはまだいなかったと思われる。
 コルネリオという人物について、聖書はここ以外では何も語っていない。聖書以外の資料もない。ただ、ローマにいた奴隷で、後に解放された人にコルネリウスという名があったというキリスト紀元前の記録があるそうである。その子孫かも知れないが、そうでないかも知れない。
 「イタリヤ隊と」呼ばれた部隊にいたというから、イタリヤ出身の兵士で構成されていた部隊かも知れない。したがってコルネリオもイタリヤから来た人であろう。それ以上は何も分からない。
 イタリヤ隊という「隊」、これはラテン語で「コホルス」という。600人編成の部隊である。百人隊が6つで、コホルスになる。その隊長は千卒長である。百卒長は百人隊の長であった。パウロがエルサレムからカイザリヤの移される時、千卒長が護衛の指揮をとっているから、当時、カイザリヤにはコホルス隊が駐留していたようである。あるいは、分散してエルサレムにも百人隊が駐留し、本部はカイザリヤに置かれていたのかも知れない。
 先ほどアグリッパ王の名が出たが、アグリッパがいた期間はカイザリヤにローマの軍隊は駐屯していなかったという説がある。そうすると41年から44年まで以外の時期にペテロの伝道があった。細かい事情について論じることは困難であるから省略する。
 コルネリオは家族とともにユダヤ教に入信していたようである。しかし、軍の隊長は兵士とともに兵営に住むのが通例である。隊長は戦争の時、先頭に立って戦う勇者でなければならないとされていたから、彼らと一緒に生活する。自宅があってもそこには住まない。すると、コルネリオは、すでに退役軍人であったのではないかと考える人もいる。退役していても百卒長の社会的地位は高かった。
 カイザリヤの町にはユダヤ人の会堂があった。町々の会堂に異邦人が来ている例は使徒行伝でも珍しくないが、具体的に名前が出るのは初めてである。コルネリオ本人が先か、家族が先かは、分からないが、とにかくこの異邦人一家は会堂に行き始めた。割礼を受けたかどうかは分からない。この一家が次にユダヤ教からキリスト教に変わる。
 百卒長またそれ以上の階級の軍人で、会堂に出入りしている人はこの時点では他にいなかったようである。名前まで上げた記録はない。軍人がキリスト者になることは考えられない、と言う人もあろう。しかし、キリスト者となる準備として彼がユダヤ教の会堂に属していた事実は動かせない。
 使徒行伝の冒頭に「テオピロ閣下」と呼ばれる人名が登場する。この人については何も分かっていないが、身分の高い人で、異邦人であって、熱心に聖書を読んでいたことは確かである。初期の教会には身分の高い人は殆どいなかった。そういう中でテオピロのような人の入信は、キリスト教の伝道にとって注目すべき事件であったが、テオピロについては何も分からない。ルカはこのテオピロに読ませようと、ルカ伝と使徒行伝を贈った。
 コルネリオはテオピロよりは低い階層であったようだが、百卒長であるから支配者の階層にいた。当時の教会員の中では注目される有力者であり、カイザリヤの伝道に際しては大きい影響を持ったように思われる。
 ペテロが歩き回って伝道したこの海岸地方の教会の中では、カイザリヤ教会が中心になったことが分かっている。コルネリオのような人が初期に回心して教会に入ったことが大きい作用を及ぼしたのであろう。そういうことを念頭に置きつつ、使徒行伝の記者はこの記事を書いたのではないかと想像する人は多い。その解釈は当たっていると思う。しかし、これがその頃の教会の空気であったと決めてしまうのはどうかと思う。
 百卒長や兵卒でキリスト教に入信する人は少なからずいたらしい。ルカ伝7章に記され、マタイ伝8章にもあるが、カペナウムにいた百卒長が、その僕を癒して下さるようにと主イエスに願っている。その時、百卒長が友人を介して主イエスに申し上げた言葉に、主が非常に感心なさって、ついて来た群衆に言われた御言葉がある。「あなた方に言っておくが、これほどの信仰はイスラエルの中でも見たことがない」。
 この百卒長については、もう一件、心に留め置くべき言葉がある。このことに先立って、町のユダヤ人の長老たちが百卒長のために願いを聞いてやってくれ、と主イエスに頼んでいる言葉である。「あの人はそうして頂く値打ちがございます。私たちの国民を愛し、私たちのために会堂を建ててくれたのです」。コルネリオと似た雰囲気が漂っている。――この長老たちの言葉はマタイ伝8章には書かれていない。
 そして、もう一つルカ伝で見て置きたいのは、ゴルゴタの十字架の場面に一人の百卒長が登場して、重要な言葉を発した記録である。2347節、「百卒長はこの有様を見て、神を崇め、『本当に、この人は正しい人であった』と言った」。
 主イエスの御在世中、すでに百卒長で信者になっている人がいた、と言い切ることは出来ないかも知れない。しかし、その時すでに、イエス・キリストに思いを向けている人々の中に、ローマ軍の百卒長という身分の人がいたと思われる。コルネリオのような信仰者が現われる伏線が敷かれていたと言うことは出来る。
 ということは、コルネリオ以外にも百卒長の入信者がいたのではないかと思われるということである。実際、そうだった。さらに、コルネリオ以前にも、そのような人がいたということがルカ伝から読み取れるのではないか。
 百卒長という職業、あるいは立場は、福音を素直に聞くことが出来た備えなのだという解釈がある。どういうことかと言えば、百卒長は戦争ではいつも最前線に立たなければならない。使命の遂行のために死の覚悟を決めて生きなければならない。上からの命令には忠実に従わねばならない。その姿勢が信仰に入る者には必要であって、百卒長であったことは信仰の準備として適切なのだ、と言われる。
 それはそうかも知れない。そして、実例があると言われるなら、その通りと言うべきであろう。
 ただし、初期のキリスト教会の入信者の中にそういう人がいたとしても、常にそうであったわけではない。むしろ、百卒長や兵卒でクリスチャンになった人は、軍隊を辞めて行ったのが事実である。軍人たる者は死の覚悟が出来ていなければならない。それは確かだ。しかし、軍人になる訓練は死の覚悟の訓練なのか。そうではない。殺人の訓練、人を殺しても平気でおられる人間になる訓練なのだ。だから、教会が軍隊を辞めろという規則を作ったわけではないが、キリスト者になった兵士は兵士であることをやめて行ったのである。
 コルネリオを理想的なキリスト者であると考える人がもしあれば、考え直した方が良い。彼は信仰的に立派な人であった。しかし、信仰的に立派であることと、百卒長であることを結び付けない方が良い。この結び付きに力を入れる風潮は昔のキリスト教にはなかった。ローマ軍がユダヤ人虐殺またキリスト教迫害に動員される日は間もなく来る。軍人と信仰は両立し難いのである。この議論に時間を取りたくないので触れないでおくが、コルネリオについて聖書がどう言っているかを学ぼう。
 2節に「信心深く、家族一同と共に神を敬い、民に数々の施しをなし、絶えず神に祈りをしていた」と記される。
 「信心深い」また「神を敬い」と訳された二つの言葉が今日の学びの鍵になっている。言葉としては別々だが殆ど同じ意味と見て良い。これが分かれば、肝心のことは全部分かったことになる。「信心深い」という言葉については、二つの面から掘り下げて把握しなければならない。第一は、この言葉の聖書における本来の意味である。第二は、使徒行伝の時代、この言葉がどういう意味で使われたかである。
 第2点を先に見ることにするが、この「信心深い」という言葉は、スグあとの7節にもある。1343節には、ピシデヤのアンテオケにおけることであるが、「集会が終わってからも、大勢のユダヤ人や信心深い改宗者がパウロとバルナバについて来た」と言う。174節には、これはテサロニケのことであるが「信心深いギリシャ人が多数あり」という言葉がある。
 今、これ以上例を拾うのは省略する。読む人はもう気が付いたと思うが「信心深い」人というのは、異邦人でユダヤ教の会堂にすでに出入りしていた人である。改宗者という言葉と重ねた場合もあるが、信心深い人と改宗者は区別されたと解釈する人もいる。改宗者という言葉は211節に「ユダヤ人と改宗者」という言い方で聞いた。五旬節の朝、使徒たちのところに駆けつけた人たちが、どういう人であるかリストを上げて来た中に、改宗者という言葉に触れた。最初期のキリスト教会に加わった人の中に改宗者がいたらしい。だが、これまではその人たちについての具体的な記事はなかった。
 コルネリオが正式の改宗者であったかどうか、すなわち割礼を受けたか、神を信じて会堂の集会に加わっていただけなのかは、我々にとって問題ではない。すでに我々は知っているが、ギリシャ語を用いるユダヤ人の会堂から、かなり多くの人がキリストを信じた。そして、ユダヤ以外の地では、会堂は、ギリシャ語を用いるユダヤ人の集まる所であったが、それらの会堂では異邦人の求道者を受け入れる傾向があった。カイザリヤはユダヤであるが、先に言ったような土地で、異邦人が礼拝に参加していた。そういう人は信心深い人と呼ばれた。ユダヤ人の中にも信心深い人はいたに違いないが、その人たちを「信心深い人と」呼ぶ言い方は、使徒行伝ではしていない。
 なぜ、こういう呼び方が始まったかについて分からないことが多いが、ギリシャ語を用いるユダヤ人の側から、この呼び方を始めたのだと思う。想像力を働かせ過ぎているかも知れないが、異邦人で会堂に来る人を見た時、敬虔なユダヤ人は、これこそ真の意味で神を敬い、恐れる人であると感じ、そのように呼び始めたのではないか。
 なぜ、こういう異邦人たちが、ユダヤ教の礼拝に受け入れられるようになったか。福音書に描かれている頑なにキリストに逆らうユダヤ人を見ていると、我々には説明が出来ない。神がキリストの福音のために、そのように準備したもうたと言うほかない。
 信心深い人という呼び方は、我々の間でも余り使われない。一つはこの訳し方がうまく出来ていないからだと思う。これはむしろ、「神を恐れる人」と言ったほうが意味がよく通る。そして、神を恐れるとは、先週、イザヤ書11章で聞いたように、真の知恵を求める志である。この本来の意味に戻ってこの言葉を理解しなければならない。
 神はキリストの福音を受け入れ、初期の教会を建設する器を用意された。その一部は生まれながらのイスラエルで、先祖の信仰を受け継ぐ人。他の一部は神を恐れ敬う異邦人である。この第二類の器がどのように用意されたかについて、我々は殆ど説明が出来ない。説明は出来ないが、この事実を受け入れるほかない。そして、神が備えたもうたのだと言うほかない。
 コルネリオは神を信じ、信じる者に相応しく実践をした。その実践とは、施しと祈りであった。民への施しと書かれているが、民とは神の民である。これはユダヤ人の会堂で、同族の貧しい者に対して行なっていた施しに参加したことを意味する。しかし、同国人同士の助け合いではなく、隣人への奉仕であるという意味は次第に明らかになって行く。すなわち、キリストの教会のディアコニアの準備であった。
 コルネリオの祈り。具体的に言えば、会堂に集まって祈ると共に、各自家でも時間を決めていのるようカイザリヤの会堂では教えていたことの実行である。実際、コルネリオは午後3時の祈りをしていた。これは31節でペテロとヨハネの実行を見たように、ユダヤ人は一般に行なっていた。しかし、慣習として儀式的になされたと取っては余り意味がない。コルネリオの午後3時の祈りは儀式として始まったのであるが、これは単なる儀式ではなかった。神がここで答え、ここで御言葉を与えたもうたのである。

 


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