2006.08.20.

 

使徒行伝講解説教 第65

 

――9:36-43によって――

 

 

ヨッパのタビタは「女弟子」と言われる。この言葉はこれまで使われて来なかった。キリスト者の間では弟子に男女の区別をつけなかっ たからである。すでに承知しているように、使徒行伝の教会においては、「弟子」という男性名詞を、女性の信者にも適用していた。
 では、ここで何故、タビタが「女弟子」だと言うのか。それは彼女が女性であることを特に言いたかったからではないか。つまり、彼女 はヨッパのキリスト者の群れにおける働き手、しかも女性の働き手であったことに注意を喚起するためではないか。これまで見たところでは、エルサレムでも、サマリヤでも、ダマスコでも、どこでも、教会の働き手は全て男性であった。女性信者が多数いたことは分かっているが、名を知られたのは主イエスの母マリヤほか少数である。しかし、使徒行伝のこの後の段を見ると、女性の名が沢山あがってくる。例えば、12章にあるマルコの母マリヤがいる。その家のロダという女中がいる。16章ではピリピ伝道におけるルデヤの働きに注目される。18章ではコリントにおける信仰者の中心であるアクラの妻であるプリスキラがいた。このように、女性の活動が増えている。
 タビタの出現が転換点になって女性の活動が盛んになったとは思わない。キリスト教は初めから、抑圧された人々を解放する性格を持っていた。だから、キリストによって解放された人が、社会の中で活動し始める。女性がこの面で顕著であった。その初めの例として、タビタを思い起こすことには意味がある。
 さて、ヨッパという町であるが、ここはソロモンの時代からイスラエルの政府によって開かれた地中海側の港として有名である。ヨナ書の物語りで知られるように、ここからタルシシ行きの船が出た。それは地中海の西の端まで行く最大の貿易船であった。
 もっとも、イスラエル人はもともと遊牧民であって、造船や航海の技術は持っていないし、民族としてもこういう業務には馴染みがない。それで、ソロモンは友好関係にあったツロからその技術を貰った。つまり技術者を雇い入れた。そのため、ヨッパは初めから外国人の多い町だった。キリスト教会の時代になる以前から、ヨッパはギリシャ人の多い町だったという記録がある。ペテロが来た時は、さらにそうなっていたであろう。
 タビタのことを説明するために、「ドルカスすなわちかもしか」という言葉が挟まれているが、ドルカスはギリシャ語である。タビタというのはヘブル語、正確に言えばアラム語である。彼女はヨッパでタビタと名乗るほかに、ドルカスというギリシャ名も使っていたのではないかと考えられる。
 今日学ぶところでも「教会」という言葉はまだ書かれていない。弟子が幾らかいただけかも知れないが、寡婦がいた。それが信仰者であったのかどうか、ハッキリしない。聖徒たちと寡婦たちが区別して書かれているからである。寡婦の中にはまだバプテスマを受けていなかった人もいたと思われる。それでも、彼女らはタビタの家に出入りしていて、信仰者との関係の中で生きていた。
 読んだ感じでは、ルダについて書かれた箇所を読んだ時よりも、人が多いし、群れの活動が盛んなようである。タビタが「数々の良い働きや施しをしていた」と書かれているのは、その活動の一面である。
 タビタが死んで、ペテロが呼ばれて行くと、寡婦たちが集まっていた。「寡婦」という言葉から直ちに思い起こすのは、エルサレムの教会には、日々の食事の世話を受けている寡婦がかなり沢山いたという6章の記録である。そのディアコニア活動をヨッパでも見習って実行していたと取るのは早呑み込みにすぎるかも知れないが、積極的に受け入れた方が全体が良く見えて来る。
 エルサレムの寡婦たちは必ずしもキリスト信者ではなかった。つまり、教会は信者になったら食べさせてあげる、と言って利益誘導の布教活動を広げていたのではない。だから、信じていない人にも食事を与えた。使徒たちが専ら携わるのが望まれる福音の説教と、現に日々の食事に事欠く貧しい寡婦たちを支援することは、キリスト者の務めとしては一つであるが、仕事としては別であった。その仕事のために霊的な賜物に恵まれた7人の働き手が立てられた。
 「数々の良い働きや施し」と書かれているのはディアコニアである。もとから、ユダヤ人の間では施しは重要視されていたが、ユダヤ人仲間の助け合いという限度を越えることは出来なかった。教会はその限度を越えることが出来た。すなわち、イエス・キリストは全てを与えることを教えておられたからである。エルサレム教会はこれを組織的に行ない始める。この考えがいち早くヨッパに取り入れられた。取り入れたのはタビタであろう。寡婦たちはタビタが世話した人たちである。
 一こと付け加えれば、もう少し時代を経ると、寡婦のうちから他の寡婦の世話をする働きをする人が出て来て、その働き人も寡婦と呼ばれ、教会に登録される。1テモテ59-10節の寡婦はそれである。さらに一こと付け足すならば、ヨッパではタビタの死に遭って、働き手がないという事情があったからでもあろうが、寡婦たちがかなり働いている。新しい動きである。
 37節には、「その頃、病気になって死んだので、人々はその体を洗って、屋上の間に安置した」とある。
 病気に罹って間もなく死ぬという実例が、昔は珍しくなかった。死ぬ少し前まで元気に働いていたということが推定される。働き手の中心であるタビタの死は、ヨッパの少数の信仰者の群れにとって、大事件であった。彼女がいないと早速困ったのである。
 彼女の遺体が、洗われて、屋上の間に置かれた。それはタビタの住んでいた家の屋上の間に違いない。そして、「屋上の間」というのは、この町のキリスト者たちが集まりを持っていた場所であろうと思われる。使徒行伝113節で、主の弟子たちが屋上の間に集まったという記事を読んだ。1212節でも、集会がマルコと呼ばれているヨハネの母マリヤの家で行なわれていたことが書かれているが、それはこの家の屋上の間であったらしい。屋上の間は、主イエスが最後の晩餐を行なわれた場所で、所を変えても、信仰者は集会の場所として相応しいと考えたようである。ヨッパでも屋上の間が集会所であったのではないか。つまり、タビタがこの町のキリスト者に集会の場所を提供しており、少なくとも場所的中心であったということが分かる。
 信者たちは善後策を講じるために集まった。一方では死体に応急の処置をした。埋葬の前に体を洗うことが慣習であった。油を塗ることも慣習であったが、それについては書かれていない。それでも、寡婦たちが油を塗っていたのではないかと推測する人もいる。死体を洗ったのは寡婦たちである。
 もう一方、弟子たちは相談して、ルダにいるペテロにスグ来て貰おうということに決まった。これが38節に書かれている。「ルダはヨッパに近かったので、弟子たちはペテロがルダに来ていると聞き、二人の者を彼のもとにやって『どうぞ、早くこちらに来て下さい』と頼んだ」。
 ヨッパからルダまで、近いといっても25キロほどの距離である。呼びに行って、連れて帰るには、ほぼ一日掛かった。ペテロは主イエスの復活の朝、ヨハネと一緒に走ったが、早く走ることは出来ない年齢であった。それからまた年数が経って、いよいよ歩みは遅い。そういう実情も我々は考えて良い。
 ヨッパの弟子たちは何を考えたのであろうか。ペテロが来て、死人を甦らせてくれるのを期待したのか。そう読み取ることは勿論出来る。ペテロによって数々の奇跡が行われたことは聞こえていたはずである。だが、来るのに時間が掛かって、死体の腐敗が始まると言う人もいたであろう。体を洗ったのは、甦りに備えてではなく、葬りのためであろうと考えられる。とにかく、死人の甦りが起こるというハッキリした期待がみんなにあったとは言えない。
 ペテロを迎えるために二人の使いを送ったことは、非常に大事な人物であり事柄であると考えたからである。この次にペテロが迎えられるのは、カイザリヤからであるが、カイザリヤの百卒長コルネリオは、僕2人と部下の兵卒の中で信心深い人と、計3人を迎えに遣わした。それはペテロを迎えて、福音の説教を聞くためであって、カイザリヤにおける奇跡を願ったのではない。そういうことだから、ヨッパから二人の迎えを送った意図が何であったかは確定的には言えない。非常に大事なことと考えられていたことだけは分かる。
 39節、「そこでペテロは立って、二人の者に連れられて来た。彼が着くとすぐ、屋上の間に案内された。すると、寡婦たちがみんな彼の傍に寄って来て、ドルカスが生前作った下着や上着の数々を、泣きながら見せるのであった」。
 ペテロは行って何をすべきかを知っていたから、直ぐ立ち上がって出発する。しかし、他の人は何が起こるかを知っていない。タビタの家で待っていた人たちの雰囲気は全くお弔いそのものである。故人を偲んでいるだけである。
 タビタは上着や下着を作って寡婦に与えていたのであろう。それが彼女の奉仕の一端で、どんなに助けられたか、と思い出話になって泣くという有様であった。
 「ペテロはみんなの者を外に出し、跪いて祈った。それから死体の方に向いて『タビタよ、起きなさい』と言った。すると彼女は目を開け、ペテロを見て起き直った」。
 ペテロがみんなの者を外に出したのは、お弔いの空気をこの場から一掃するためと言ってもよいであろう。あるいは、死の悲しみの影を払拭するためとも言えよう。あるいは、ここにおられるキリストだけが重要であって、他の者は余計だと言うことも出来る。しかし、我々に一番納得出来るのは、かつて主イエスが、このような場合にこのようにされたから、その通りしようとしたことである。
 前回、アイネヤの癒しの奇跡に関して、これをペテロの業として見ず、キリストの業として受け入れることが肝心であると教えられた。ペテロの業であったなら、一時的な驚きだけで終わってしまう。キリストが生きて働いておられる徴しであってこそ、後々まで語り継がれる。
 タビタの場合も同じである。ペテロはヨッパでは「キリストの名によって起きなさい」と言ったようには記されていない。それでも、 我々はそのように読み取ることが出来るのである。マルコ伝5章のカペナウムの会堂司ヤイロの、12歳になった娘のことを思い起こし、それと重ねてタビタの場合を把握するからである。
 マルコ伝540節にこう書かれている。「イエスはみんなの者を外に出し、子どもの父母と供の者たちだけを連れて、子どものいる所に入って行かれた。そして、子どもの手を取って『タリタ、クミ』と言われた。それは『少女よ、さあ、起きなさい』という意味である」。
 この場面に立ち会うことが出来た供の者の一人がペテロである。彼はその場面を覚えている。それを再現した。と言うよりは、その場面に再び立ち会わせられた感じを持ったのである。先ず、人々を退席させる。
 かつてカペナウムで、主は「タリタ、クミ」と言われた。ペテロはヨッパでそのことを思い出して、「タビタ、クミ」と言ったのではないかと想像する人がいる。アラム語で「タビタよ、起きなさい」という意味である。ただし、ペテロがここでアラム語で語ったかどうかは分からない。寡婦たちはタビタと言わないで、ドルカスと呼んでいたらしいことが39節で分かるから、ギリシャ語で話していたとも考えられる。
 「タリタ、クミ」と「タビタ、クミ」が似ているという語呂合わせは、真面目に論ずべき問題ではない。面白がって論じていると、この事実は作り話しだという議論になりかねない。
 「ペテロは彼女に手を貸して立たせた。それから聖徒たちや、寡婦たちを呼び入れて、彼女が生き返っていることを見せた。このことがヨッパ中に知れ渡り、多くの人々が主を信じた」。
 「人々は主を信じた」。ペテロを信じたのではない。イエスこそが命の主であると信じた。
 最後にペテロが皮なめしシモンの家に泊まったことに触れなければならない。「皮なめし」という職業は、悪臭と不潔のため、人から嫌われていた。町の風下の、離れた場所に住んでいた。差別の具体例は多数ではないが、ハッキリしている。
 ペテロがその人の家に泊まったのは、彼が信仰者であったからであるが、他にも理由があった。クリスチャンなら他にもいる。泊まる所は幾らもある。しかし、皮なめしの職人の家を選んだ。ここに伝道者の姿勢を見ることが出来る。ペテロは自己宣伝をしないから、讀み過

  ごす人があろうが、人から嫌われる仕事をする人を避けないで近づいて行くのである。それがキリストの後に随う者の姿勢であった。

 


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