2006.08.13.

 

使徒行伝講解説教 第64

 

――932-35によって――

 

 

 ペテロが方々を巡り歩いたこと、ルダ、サロン、ヨッパ、カイザリヤにおける活動が続いて記される。散漫な記事が寄せ集められていると感じる人がいるかも知れない。それは間違った印象である。
 ペテロが「方々を巡り歩いた」と言うのは、分かり易く言えば、広い地域を行き巡って活動したということで、漫然と渡り歩いたという意味ではない。まして、行く所がなくて、あるいは、エルサレムで他の使徒と不和になって、締め出されたというようなこととは全く違う。むしろここで我々は、その時の教会の活動と生きた姿を読み取ることが出来るのである。
 前回、31節で、ユダヤ、ガリラヤ、サマリヤ全地方における教会の確立の模様に僅かに触れた。僅かに触れただけであるが、「教会は平安を保ち、基礎が固まり、主を恐れ、聖霊に励まされて歩み、次第に信徒の数を増して行った」ということが掴めれば良かった。
 ところが、ペテロが「方々巡り歩いた」と言われているその地方については、教会の姿がまだ掴めない。あちこちに信者がいたわけである。しかし、「どこそこの教会」という言い方もされていない。その代わりに、32節を見ると「ルダに住む聖徒たち」と書かれている。
 ヨッパにも、41節に書かれているように、「聖徒たち」と言われる人がいた。そして「教会」とは言われていない。それはおかしいではないか。2-3人であっても、主イエスの名のもとに集まったなら、もうそれで教会ではないか。そういった疑問を感じる人があろう。尤もである。信じて集まる人のいるところ、そこに主がおられるとの約束があるからである。それでも、ここでは「ルダの教会」と呼ばなかった。
 その事情を考えて見よう。31節で、教会と言われたのと別のものしかなかった、と見てはならない。それでも、ユダヤ、ガリラヤ、サマリヤに建てられて行く教会と、ルダ、サロン、ヨッパにおける群れとは、本質的な意味で違うと見てはならないが、教会の形としては違ったものと捉えることが出来る。
 形が違う、と言ったことについて、詳しく論じることは難しい。論じて置く必要も今のところない。この段階で教会の形が区別されていた、と考えるのも適当ではない。大きさが違ったと捉えるのも問題が残る。すなわち、ある程度より小さいと「教会」と呼ばなかったのか、という議論になると、教会を考える方向が違ってしまう。
 今日のところを読むために見ておかなければならないのは、ペテロが「方々を巡り歩いた」と言われているのは、そういう人々のいる地域だったということである。大雑把な言い方しか出来ないが、ユダヤの西部、地中海の海岸線にそって町が並んでいた地域、あちこちにキリスト者がいた。そういう地域を考えて置こう。
 ペテロがこの地方に来たのは、自発的に歩き回るためではなく、遣わされたからである。誰から遣わされたのか。主から遣わされたのである。しかし、エルサレム教会が遣わしたと言っても良いであろう。814節には、「エルサレムにいる使徒たちが、ペテロとヨハネをサマリヤに遣わした」と書かれていたのを思い起こす。また、1122節には、「教会が、すなわちエルサレムの教会が、バルナバをアンテオケに遣わした」と書かれている。つまり、教会が、主の名によって、働き人を遣わした、と言うことも出来る。
 そこで、当然出て来るのは、どういう情報があってエルサレム教会がこの地方に使徒を遣わす必要を感じたのかという疑問である。勿論、我々には答えられない。しかし、風の便りに聞こえて来たというような情報ではない。誰か或る人が教会の伝道の進展のためにエルサレムに知らせたのである。来て欲しいという要請があったかも知れない。実際、カイザリヤにいたコルネリオは、ヨッパまで来ているペテロの来訪を求めたのである。伝道者が積極的に出て行っただけでなく、彼らを引き寄せる力が働いていた。
 「来て欲しい」という要請があった実例のうち特筆すべきものは、16章に書かれているマケドニヤ人からの要請であろう。これは夢で知らされたもので、生身の人間が語ったのではないが、その要請を受けた側からすれば、夢でも現実でも同じである。要は、来て、助けてくれ、という声を聞き取る耳があるかどうかである。エルサレムの教会にはその声を聞き取る耳が備えられていた。
 今度、ペテロが遣わされた地方の町として名の上がっているのは、南からいうと、すでにピリポがエチオピヤ人伝道の後で行ったと記されていたアゾト、それからルダ、ヨッパ、カイザリヤ。これらの町は比較的接近していて、一つの区域として扱うことが出来る。
 この区域の伝道は、アゾトに行ったと書かれているピリポが始めたのかも知れない。8章の40節で、「その後ピリポはアゾトに姿を現わし、町々を巡り歩き、至る所で福音を宣べ伝え、ついにカイザリヤに着いた」と読んだ。では、ピリポとペテロとどちらが先にカイザリヤ伝道を始めたのか。それを今問題にしても意味はない。
 カイザリヤについては、少し前に30節でもその名を読んだ。ユダヤ人に狙われているパウロを生かすために、兄弟たちが彼をカイザリヤに連れて下り、タルソへと送り出した、と書いてあった。しかし、この時カイザリヤにキリスト者がいて、パウロを助けたということでは恐らくない。カイザリヤから船に乗せたということである。
 ルダは海岸線から少し東に入ったところにある大きい町である。旧約時代からの町であるが、その頃はディオスポリスとも呼ばれた。エルサレムからエマオを経由し、ルダに行き、ここでアゾトに行く道とカイザリヤに行く道が分かれる。
 ペテロは町々に教会を建て上げるとともに、近隣教会の交流・連携を促進させることを具体的な目標としていたと考えられる。丁度、ユダヤ、ガリラヤ、サマリヤの教会がそれぞれの地域で連携して、ユダヤ教会、ガリラヤ教会、サマリヤ教会を建てたように、ここでは西ユダヤの教会が建てられて行くのである。――これが32節の初め「方々を巡り歩いた」という句を読んで、心に留めるべきことである。
 次に、「ルダに住む聖徒たちのところへも下って行った」と言う。ペテロがどういう順序で巡ったかについては、論じても意味がない。同じ道を何度も往復するということもあったであろう。ただ、「下った」というのは、エルサレムから来たという意味であろうから、先ずルダに行ったのであろう。
 そこにすでに、何人かの信者がいた。それが「聖徒」と呼ばれている。新しい呼び方ではない。13節でも聞いた呼び方である。すなわち、ダマスコのアナニヤは、サウロの名を聞いた時、「その人がエルサレムで、どんなに酷いことをあなたの聖徒にしたかについて私は聞いています」と主に対して言った。「あなたの聖徒」という言い方は、意味をハッキリさせるものである。すなわち、「聖徒」とは主の民、主に属する者であることを言おうとしているのだ。
 聖徒という言葉から我々が往々にして思い描くのは、所謂「聖人」であるが、的外れであるかもしれない。「聖」ということは、神についてこそ本来言えるのであって、神以外の者については、言えない。しかし、聖なる神は、レビ記2232節で言われる、「私はあなた方を聖別する主である」。だから、神からそう呼ばれた者は聖なる者である。それはまた「選ばれた者」と言い換えても良い。そのように呼ばれる人たちのいる所、そこに教会を見なければならない。ただ、彼らは未組織であった。集会を持っていたかどうかも分からない。
 「そこで、8年間も床についているアイネヤという人に会った。この人は中風であった」。今回のペテロの巡回伝道、あるいは巡察で気付かされる共通点として、どの地においても個人名が上がっている。勿論、これまで、どこででも個人名は上がっていた。新しいことではない。ただ、この地方のように、教会がまだ形を現していない状態では、個人の働きが大きいのである。
 アイネヤについて我々はここに書いてあること以外、何も知らないし、これ以上には知り得ない。すでに信じていたのか、この時ペテロの目に留まったのかについても分からない。8年間中風であったことについても、想像を膨らませて彼の人生の苦悩と転換を語ることは今はしない。
 では、余り関心を持てない状況が示されているということなのか。そうではない。我々は非常に生き生きと彼の癒される場面を描くことが出来る。なぜなら、こういう場面に福音書でしばしば出会っているからである。すなわち、イエス・キリストの出来事に重ねて、この事の意味、このことの現実性を捉えることが出来る。
 例えば、マルコ伝2章の初めに、カペナウムに戻って来られた主イエスを求めて、一人の中風の者を四人掛かりで連れて来たことが書かれている。主イエスは彼らの信仰を見て、中風の者に「子よ、あなたの罪は赦された」と先ず言われた。それから、「あなたに命じる。起きよ、床を取り上げて家に帰れ」と言われた。この場面で、我々は主イエスにある罪の赦しの権威の発動を先ず確認し、それから、寝たきりの病人を立ち上がらせる権威について学んだ。
 さらに、この出来事から教えられる一つの要点は、主イエスが御自身を信ずる者の信仰に目をとめておられることである。アイネヤの場合もそうであった。
 確かに、イエス・キリストの御姿は我々を圧倒し、ペテロの物語りにはそれだけの迫力がない、と誰もが感じる。しかし、当然のことではないか。主イエスは御自身の権能を発動しておられる。ペテロは自分の権能を示したのではない。イエス・キリストがあなたを癒して下さる、と言った。そして、その言葉は本当であった。
 ちょうど、エルサレムの「美しの門」で、ペテロが「ナザレ人イエスの名によって歩め」と言った時と同じである。そこにナザレ人イエスが肉体をもって臨在しておられたのではない。ただ、彼の名がペテロによって唱えられただけである。しかし、彼の名は、名だけであっても、まことの信仰をもって唱えるところでは、名でありつつ、現実なのである。なぜかと言えば、そこに御霊が在ますからである。
 「アイネヤよ、イエス・キリストがあなたを癒して下さるのだ。起きなさい。そして床を取り上げなさい」。この言葉はオハナシではない。イエス・キリストについての物語りではなく、キリストの現実が伝達されたのである。これをペテロの行なった奇跡というふうに捉えるのは十分でない。これはペテロの宣教の記録である。ペテロが癒しを行なったというよりは、「イエスは生きておられ、御業をなしたもう」ということを、ペテロは、言葉で、また事実で証しした。
 ペテロはアイネヤを先ずイエス・キリストに向かわせる。あなたを癒して下さるお方はこの方だから、この方を見よ。この方を受け入れよ、と言った。
 アイネヤの事件が語り伝えられるということは、オハナシが語られて行くことではなく、命と力が受け継がれて行くことである。この命と力が失われる時は、キリスト教の形骸化の時である。
 「ルダとサロンに住む人たちは、みなそれを見て、主に帰依した」。これもオハナシとして聞いてはならない。
 サロンというのは、ルダの地続きの平野の名であって、町の名ではない。ここから北に海岸沿いにカルメル山まで広がる平原がある。旧約聖書に「シャロンの野」が野の花の美しい所として登場する。イザヤ書33章にも、35章にも65章にも、シャロンの野のことが語られている。
 この地方の地理について、私は殆ど知らないが、聖書地図で見ると、かなり広い地域であるのに町はない。したがって、ルダの町のように人が多く住んでいたのではない。シャロンは象徴的な意味を持つ場所であった。
 イザヤ書33章では「シャロンは荒野のようになる」と言われる。美しい野原が砂漠になる。これは神の審判を象徴する。その逆に35章では「砂漠にシャロンの麗しさが与えられる」と言われる。これは言うまでもなく、約束された救いの到来を象徴する。ルダにおいて起こったアイネヤの出来事は、救いの日が来たことを告げた、と我々は読み取るのである。ルダにおけるアイネヤの出来事は、シャロンの平原に対しても示された。人々がそれを見た、というのは彼らが皆集まって奇跡を見たという意味ではない。この出来事が一挙に知れ渡ったということである。そこに、シャロンの麗しさの預言の成就が見られた。だから、人々の回心が起こった。
 「帰依した」と訳されているのは、「立ち返った」という意味である。「皆それを見た」と言っても、地域の全員が見て信じた、と言っていると取る必要はない。が、多くの人が見て信じるという事件が起こった。何人かの人しか信じていなかったルダの町で、劇的変化が起こったのである。それはこの町のユダヤ人が神に立ち返った、あるいは信仰復興運動が起こったということでなく、主、キリストに向けて回心した、あるいはキリスト来臨の預言の成就を受け入れたということである。
 したがって、ここに教会が姿を現した、と言うのは、やや性急に過ぎるかも知れないが、当たっている。聖徒たちが数人いたという状態から、多数のキリストの群れの集団が一挙に立ち上げられた状態へと転換したのである。

 


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