2006.08.06.

 

使徒行伝講解説教 第63

 

――9:23-31によって――

 

 

 パウロがダマスコで殺されそうになって、脱出した事件については、特に説明を加えることはない。城壁から篭で脱出する知恵は、かつてエリコを探りに行ったイスラエルの斥候が用いたもので、昔から知られていた。
 パウロの脱出については、彼自身IIコリント1132-33節で、「ダマスコでアレタ王の代官が、私を捕らえるために、ダマスコ人の町を監視したことがあったが、その時、私は窓から町の城壁づたいに、篭で吊り下ろされて、彼の手から逃れた」と述べている。使徒行伝の記述とはかなり違う。そちらではユダヤ人が彼を殺そうとしたように書かれ、パウロ自身の意識としては、迫害者はアレタ王であったらしい。アレタ王というのは、正式には王でないが、この地方を支配していた実在の人物である。年代も分かっている。二つの記事が同じ事件を語っているのは言うまでもない。
 ダマスコの教会に対する迫害があったらしいが、使徒行伝で読むところでは、ユダヤ人の間に特にパウロに対する殺意があったようにうかがわれる。一つには、パウロの並外れた影響力が、反対派の闘争心を呼び起こしたという理由があったのであろう。彼は生涯に亘って「同族の難」に何度も遭っているから、ここでそれを取り立てて言うことはない。
 もう一つ、彼のことがよく理解出来ていない人が、ユダヤ主義者だけでなく、キリスト者の中にも多少いたのであろう。その人たちは直接に加害者になることはなくても、庇ってくれなかった。「彼の弟子たち」が彼を逃がしたということは、彼の弟子以外は敵であったという意味ではないであろうが、彼の安全のために骨身惜しまず働く人が必ずしも多くなかったということであろうか。
 パウロが身の危険を感じたのは、人が忠告してくれたというよりは、自分でそう感じ取ったように思われる。「その陰謀が彼の知るところとなった」と書かれているからである。この事情については分からない。
 危険を避けてダマスコから逃れたのであるが、事実そのものとしては、彼がエルサレムに移ったことこそ重要である。つまり、エルサレム教会と結び付くことが出来たのである。ダマスコで活動していても、その活動は局部的で、教会の世界的活動には繋がらなかった。
 「サウロはエルサレムに着いて、弟子たちの仲間に加わろうと努めたが、みんなの者は彼を弟子だとは信じないで、恐れていた」。
 エルサレムの「弟子たち」というのは、先ほど触れたダマスコにいたパウロの弟子のことではない。こういう言い方は教会では通常しない。教会では一般のキリスト者のことを「弟子」と呼んでいた。使徒以外は弟子であるが、これは使徒の弟子という意味ではない。キリストに随いて行く者が弟子である。
 パウロは弟子の仲間に加わろうとした。しかし、エルサレムでは、彼のことを教会迫害者として記憶する人はいても、彼がキリスト者であると認める人はいなかった。信者になった、と言っても、信用されなかった。取り付く島もなかった。だがバルナバが現われる。
 「ところが、バルナバは彼の世話をして、使徒たちのところへ連れて行き、途中で主が彼に現れて語り掛けたことや、彼がダマスコでイエスの名で大胆に宣べ伝えた次第を、彼らに説明して聞かせた」。
 この事情はよく分かっていない。世話をしたというのも、どの程度のものであったか。
 バルナバはどうしてパウロを知っていたのか。想像するほかないが、以前から知り合っていたのかも知れない。あるいは、ダマスコでの事実をどこかで聞いていたのかも知れない。しかし、前もって知っていたのではなかったと推測する人もいる。どちらの推測が本当らしいかを考えても結局分からない。分かっていることだけを手がかりに考えて見るほかない。
 バルナバはクプロ生まれのユダヤ人であったと4章に書かれていた。彼の親はクプロで事業に成功して、莫大な資産を築いたのであろう。その資産はバルナバによって全部教会のディアコニアに捧げられた。
 彼がクプロ生まれだということ、また11章で見るようなアンテオケにおける伝道活動から、我々は彼を国際派のユダヤ人、つまりギリシャ語を用いるユダヤ人の中に入れてしまい勝ちである。だが、それは事実と違うのではないか。すなわち、「バルナバ」という名はヘブル名である。彼はヘブル語を使うユダヤ人であった。
 彼が異邦人伝道に積極的であったことを誰も認める。その生活と行動は国際人である。しかし、名前はヘブル名で通した。教会にはヘブル語を使うユダヤ人と、ギリシャ語を使うユダヤ人の二グループがあったが、バルナバはギリシャ語を完全に自由に語ることが出来たが、グループとしてはヘブル語派であった。ということは、ヘブル語グループとギリシャ語グループの間の繋ぎの役を果たしたということであろう。
 ステパノの死とともに始まった迫害で、多くのキリスト者がエルサレムから脱出したが、脱出した人の多くはギリシャ語を使うユダヤ人であったろうと我々は推測する。この状態が長く続いたとは思わないが、エルサレム教会におけるギリシャ語を話すユダヤ人の勢力は落ちたであろう。そして、使徒以外の者としてバルナバの存在が大きくなったと思われる。
 パウロ自身はタルソ生まれで、ギリシャ語を用いたが、ステパノのグループに近かったかどうか。パウロはステパノが殺されることを宜しとしたと8章の初めに書かれていたから、キリスト教に接近していたとしても、反ステパノ派であったと考える方が自然であろう。バルナバがステパノの死を冷ややかに受け止めたとは思わない。83節には、「信仰深い人たちはステパノを葬り、彼のために胸を打って、非常に悲しんだ」と書かれるが、その近くにバルナバもいたであろう。それでも、ギリシャ語を使うユダヤ人とは別な感じを持ったのではないか。
 バルナバは早い時期にキリスト者の群れに入ったのではないかと思われ、したがってバルナバとサウロ、すなわち、まだパウロと名乗っていなかったこのタルソ人は、親しい付き合いを続けたとは思われない。それでも、もともとは近い関係だったかも知れない。
 こういう想像は控え目にした方が良いであろうが、近付き易い関係にあったことは言えよう。パウロの手引きをする人としては、バルナバが最も適任の一人であったと言えなくない。そして、この時に初めて知り合ったとしても、深く理解し合えるものを持っていたことは疑う余地がない。すなわち、1125節に「バルナバはサウロを捜しにタルソに出掛けて行き、彼を見つけた上、アンテオケに連れて帰った。二人は丸一年、ともどもに教会で集まりをし、大勢の人々を教えた」と言う。
 この事情の説明は必要でないかも知れないが、余分であることを承知の上で述べておく。これまで、ユダヤ人以外には、キリストの福音は語られていなかった。が、アンテオケまで伝道が伸びた時、ギリシャ人にも呼び掛けるようになり、ギリシャ人で信ずる者が増えた。そのため、バルナバはエルサレムからアンテオケに遣わされたが、一人では担いきれない務めなので、同労者を求め、サウロしかないと判断し、タルソまで行って探し当てた。
 バルナバが、ダマスコにおけるパウロの貢献を語るだけの知識を持っていたのか。アナニヤのような人から情報を得ていたことはあり得る。しかし、27節で言われていることを、パウロについてバルナバが語ったと取らなくても良い。バルナバはパウロを使徒たちのところへ連れて行くまでは確かにしたが、あとはパウロ本人が語ったと読めなくない。
 要は、使徒たちが、かつて迫害者であったパウロを受け入れたかどうかである。確かに受け入れたのである。バルナバが手引きしたのは確かであるが、受け入れるかどうかの判断は使徒たちに出来た。イエス・キリストがイスカリオテのユダを受け入れておられたことを思い起こそう。キリストの跡を慕う人たちは、同じ道を行こうとする人がいる時、秘密結社が行なうような厳格な身元調査をすることはない。
 主の羊の群れに狼を導入してはならない。しかし、人を見れば狼と思え、という教えは教会にない。疑心暗鬼の世界ではない。
 アナニヤとサッピラのような人が信心深い者のように装おうとしても、見抜かれた実例を我々は知っている。パウロが本物のクリスチャンかどうかを見分けることは、難しくなかった。
 パウロが使徒たちのもとに連れて行かれて、明らかにされたのは二点であった。一つは、「途中で主が彼に現れて、語り掛けた事実」。もう一つはダマスコで「イエスの名で大胆に宣べ伝えた事実」である。パウロ自身、この二点で身の証しを立てようと懸命に語ったが、使徒たちもそれを受け止めた。
 パウロはIコリント91節で「私は主イエスを見たではないか」と言っている。キリストについて人から聞いたのでない。直接に見たのである。これに非常な強調が置かれる。
 主が彼に現れたもうたこととしては、ダマスコへの途上の経験の他に、使徒行伝189節に記されているが、コリントで見た幻がある。「恐れるな。語り続けよ。黙っているな。あなたには私がついている。誰もあなたを襲って危害を加えるようなことはない。この町には私の民が大勢いる」。しかし、今はダマスコで見たこと聞いたことだけを取り上げるだけで良い。
 神を見るとは。全て心の清い人に主イエスがマタイ伝5章で約束された恵みである。パウロが主を見たと言うのは、それと意味が違って、殆ど使徒であるというに等しい。これは使徒行伝1章の終わりのところで見たが、イスカリオテのユダの脱落の後、使徒の欠員を補充するため、資格を決めた。すなわち、「ヨハネの時から始まって、主イエスが私たちの間に行き来された期間中、行動をともにして、復活の証人となる者」。そのうちから籤で選んだ。
 パウロがそれと同じ条件であったとは言えない。彼はバプテスマのヨハネがキリストの証しをした時にはいなかったのではないかと思われる。
 それでも、パウロがエルサレムにいた間に、肉体をもって人々の間に行き来された主イエスを見たことはあると考えるのが自然であろう。また、ナザレ人イエスはパウロの属しているパリサイ派の中では、特に気になる人物であったから、見て確かめるくらいはしていた。
 それと別であるが、或る意味で重なることとして、彼はダマスコへの途上において主を見た。さらに、主は彼に語り掛けたもうた。ここで使命が与えられた。だから、パウロの人生が変わった。彼が主を見たことを、使徒たちは認めたのである。
 もう一つ、イエスの名で大胆に宣べ伝えたという点を見よう。イエスの名で語った。これは分かり易く言うならば、主が語りたもうように語ったことである。大胆に語る、あるいは大胆にハッキリ、憚るところなく宣べ伝えるという言い方に、我々はこれまでも関心を払って来た。ヨハネ伝にもあった。この言い方の重要性は見過ごされ勝ちであるが、429節と31節で聞いた言葉である。使徒行伝の文脈で少ないとはいえないが、1346節、143節、1826節、198節その他にも出て来る。
 前回、パウロが「イエスのことを宣べ伝えた」、「イエスこそ神の子であると説いた」、「イエスがキリストであると論証した」という言い方の中に、伝道者としてのパウロの資格を満たすものが全て含まれていたことを見た。
 それと比べると、「大胆に語る」というだけでは、内容の決定的なことを言い尽くしていないように感じられるではないか。物の言い方の表面的、感覚的なところに留まっているように見る人が多い。だから、この言い方は神学や信仰告白の術語になれなかったのかも知れない。その感じはもっともである。
 しかし、先にも触れた429節、「主よ今、彼らの脅迫に目を留め、しもべたちに、思い切って大胆に御言葉を語らせて下さい」と言っているこの言葉が表面的だと見てよいか。
 例えば、神学の言い方としては間違いないとしても、大胆に声が響いていないなら、話しが分かるということになるとしても、信じるところまでは行かない。
 最後に31節、これは解き明かしを省略して、このまま聞くことにする。一語一語、解き明かしても豊かな内容を聞き取れるのであるが、解き明かしを抜きにして、宣言として聞いても十分に教会の本質を明らかにしたものである。
 「こうして、教会は、ユダヤ、ガリラヤ、サマリヤ全地方にわたって平安を保ち、主を畏れ、聖霊に励まされて歩み、次第に信徒の数を増して行った」。

 


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