2006.07.23.

 

使徒行伝講解説教 第62

 

――9:19-22によって――

 

 

 「サウロは、ダマスコにいる弟子たちとともに数日間を過ごしてから、ただちに諸会堂でイエスのことを宣べ伝え、このイエスこそ神の子であると説き始めた」。
 これも驚くべき変身物語である。驚くべきことであるから、事実だろうかと疑われもする。パウロが新しい人となったことは認めるほかないとしても、迫害の指導者が、数日の期間を置いただけで、伝道者になれるだろうか。教会常識としても通用しないのではないか。
 パウロはテモテへの第一の手紙の36節で、監督となるべき人は、信者になって間もない人であってはならない、という意味の注意を与えている。回心直後のサウロが説教をしたのは、監督になるということとは別のことであるが、通じるところもあるのではないか。
 パウロ自身、ガラテヤ書1章の中で、回心の後「アラビヤに行って、それからダマスコに帰った」と言っている。アラビヤというのがどこで、そこにどれだけ滞在したかは分からないが、彼自身、新しい活動の準備のために、人を避けて、祈りの時を持ったであろうということは考えられる。準備なしで、すぐ諸会堂に行って説教をしたとは考えにくいのではないか。
 使徒行伝919節以下のこの記事を本当らしくないと感じる人に、本当らしいと思わせる説得は今はしない。だが、前回15節で見たように、「あの人は、異邦人たち、王たち、またイスラエルの子にも、私の名を伝える器として、私が選んだ者である」と主がアナニヤに言われたことは真実である。このことはアナニヤから聞かされたであろう。その召しに対する応答が始まったということは確かである。それはアラビヤからダマスコに戻った後のことと取った方が良いかもしれない。
 パウロの生涯についての記事は、全体として事実であると信じられていても、細部の事実については分からないことが多い。
 それにしても、一旦目が見えなくなり、三日の後に見えるようになり、直ちにバプテスマを受け、それから食事をして元気を取り戻した。この通りだと思う。この時、エルサレムから一緒に来た供の者でなく、アナニヤがつきっきりで世話をし、そこに信仰の交わりが結ばれたことは確かである。アナニヤによって、キリスト教信仰の初歩教育が行なわれたであろう。アナニヤ以外の信仰の仲間も交わりに加わったに違いない。
 要するに、我々が使徒行伝のここまでのところで、エルサレムの教会において見たことと同じような「聖徒の交わり」が、ダマスコにもあったのである。パウロが食事をとって元気になったと書かれているのも、ともにパンを裂く「交わりの食事」であったと見ることが出来る。パウロが一人食事をし、アナニヤがそれを見ていた、あるいはせいぜい給仕をした、と考えるよりは、一緒に感謝の食事をしたと考える方が実情に近いであろう。ダマスコの教会の初期の姿は、エルサレム教会の初期の姿をほぼ丸写しにしたものであったと考えるのが自然であろう。
 それならば、ダマスコにおいても、エルサレムにおけると同じように、キリスト者たちが聖書を一緒に学んでいたであろうと我々は考えたい。この時の聖書は旧約聖書であるが、彼らはまだキリスト教会の初期の人たちであるから、旧約の全体にわたって、一齣一齣が、イエス・キリストにおける預言の成就があるべき箇所であり、また事実、それが成就したと読み取り、確かめて行く学びを始めたばかりであった。
 その中にパウロが加わったのである。彼は聖書について、誰よりも進んだ学識を持っていた。そういう交わりの中で、パウロの発言の重さが増して行った。それが説教として聞かれることになった。
 エルサレムにおいて初期にどういう説教が行われたかの実例を、我々は幾つか学んで来た。すなわち、聖書の或る箇所が引かれた上で、「この聖句は、イエス・キリストのこれこれの御業によって成就した」と宣言されるのが使徒の説教のパターンであった。荒野におけるピリポのエチオピヤ人宦官への信仰指導も、説教ではないが、同じ型であった。ダマスコにおいても同じであったと見るほかない。
 人々がイエス・キリストの教えや奇跡の評判を立てて、新しい聴衆を集めることがなかったとは言わない。しかし、すでに実例を見ているように、評判を上げて人が集まるということであったかどうかは別として、教会の活動は説教が中心であり、説教の型は決まっていた。聖書があって、聖書のテキストに基づいてメッセージが語られた。
 それが聞き手にチャンと伝わったか、と疑う人はいるであろう。確かに、聞かなかった人、したがって信じなかった人はいる。今も同じなのだ。しかし、今でも、聖書が語られ、解き明かされて、信仰が生まれるという事実はある。
 ダマスコでは、ユダヤ人のキリスト教改宗者がおり、異邦人の入信者はいなかったようである。それらのユダヤ人は、ユダヤ教徒として旧約聖書を学んでいて、先祖の信じた教えを受け継ごうと志し、その歩みをさらに前向きに踏み出して、キリストの事実と出会い、先祖に約束されていたのはこのことだったと確信する、という進み方をした。みんなが同じ歩みをしたわけではないが、賛成か反対かはハッキリしていて、賛成者の基本的な方向は揃っていた。ユダヤ教からキリスト教への転換は、約束のもとにあった状態から、成就の状態への転換であるから、我々にも比較的分かり易い。
 パウロが「諸会堂で」、「イエスのことを宣べ伝えた」と言われ、また「このイエスこそ神の子であると説き始めた」というのは、以上に述べた状況であったことは論じるまでもない。ごく当たり前のことであるが、当たり前のこととして讀み過ごすのでなく、リアルな出来事として読むことが出来る。
 「宣べ伝える」という言葉が旧約においても新約においても重要であることを我々は知っている。しかし、使徒行伝でこの「ケーリュッソー」というギリシャ語動詞が用いられることはこれまでなかった。事実としての「宣べ伝え」は行なわれたが、語彙としては定まっていなかった。教会用語としてこのギリシャ語が定着したのはピリピ書が書かれた頃ではないかと言われる。ただし、言葉として何が用いられたかは、どちらでも良い。教会は実際、これをしていた。
 説教の場所として、ダマスコにある諸会堂が用いられた。エルサレムでもそうであった。68節以下でステパノの伝道の有様を読んだが、ステパノはギリシャ語を語るユダヤ人の諸会堂で語っていたようである。パウロが活動を始めたダマスコに、ギリシャ語を語るユダヤ人の会堂がどれほどあったか。これは我々には分からない。
 パウロはダマスコの諸会堂あての大祭司の添書を持って来たというから、初めに連絡の取れていたのは、大祭司に近い立場の、保守的傾向の会堂が多かったのではないか。ただし、どういう傾向の会堂であったかは、どちらでも良い。
 パウロが「会堂」で説教したことについては、一度で論じ尽くせないほど多くの意味があるように思う。便宜上ユダヤ人の会堂を利用したというのではない。ダマスコでもエルサレムと同様、最初のキリスト者は会堂を用いていたと思われる。パウロたちが世界伝道の中で、それぞれの町にあった会堂で先ず語ったことも便宜上の手がかりと考えない方が良い。これが摂理であったと言う説明は、陳腐だと思われるであろうが、摂理であったことは疑えない。
 しかし、会堂と教会はやがて別々になる。そのことについて今は論じないが、70年のユダヤ戦争の時、「会堂」はローマ帝国に対立するユダヤ民族の集団になり、「教会」は民族に属さぬものとなって、エルサレムから全員退去する。教会は帝国の迫害を受けながら、帝国と同一地平にあるものとして争うことはなく、一口で言うと、国家を越えたものとして建て上げられて行く。
 次に「イエスのことを宣べ伝えた」と記されている。これはキリスト教の基本姿勢であり、パウロの使命の中心である。分かり切ったことではあるが、イエスを宣べ伝える、ということの重さを受け止めて置こう。
 「宣べ伝える」ということについて、最も印象深く我々の心に刻まれているパウロの言葉は、Iコリント118節以下ではないかと思う。その21節では、「神は宣教の愚かさによって、信じる者を救うことを宜しとされた」と言う。宣べ伝えるとは、単なる教えを広めることではない。宣べ伝えることによって、救いが伝達される。と言うのは、宣べ伝えられるのは「イエス・キリスト」であって、イエス・キリストについての知識や情報を伝達することではない。そのように、宣べ伝えられたイエス・キリストを、信仰によって受け入れる人は、キリストの齎らしたもう救いと命を受け入れることになるのである。
 伝道者としてのパウロは初めの時から最後まで、一貫してイエス・キリストを宣べ伝える道をひたすらに走った。彼の話しが、だんだんキリストに重きを置くようになったというのではない。
 次に、「イエスが神の子である」と説いた。これも説明の必要なしに、教会の基本的教理、また基本的信仰告白であると我々は承知している。だが、分かり切ったことと見ないで、もう少し詳しく見たい。
 これは福音書にもある通り、主イエス御自身が、ピリポ・カイザリヤに弟子を連れて行かれ、「あなた方は私を誰と言うか」と問いたもうた時、ペテロが弟子一同を代表して捧げた告白である。「あなたはキリスト、神の子である」とペテロは告白した。主はその告白を受け入れて、「私はこの岩の上に私の教会を建てる」と答えたもうた。パウロのダマスコにおける伝道もその告白から始まる。
 ただし、先にも触れたように、諸会堂におけるパウロの説教のタイプは、エルサレムの使徒たちと同じく、聖書のテキストの解釈、約束と成就の宣言であった。パウロの後年の手紙を見ても、旧約の成就という教えの型がハッキリ読み取られる。そういう型に落ち着いたというのではない。初めからこの型しかなかった。
 すなわち、イエス・キリストがガリラヤで伝道を始めたもうた時、安息日にナザレの会堂に行かれ、聖書の巻物が手渡されたので、それを開いて朗読し、それから、「あなた方が耳で聞いたことは、耳にしたこの日に成就した」と宣言されたその型の通りである。キリスト教会ではこの型が守り通された。今もそうである。
 「これを聞いた人たちは皆ひじょうに驚いて言った、『あれは、エルサレムでこの名を唱える者たちを苦しめた男ではないか。その上ここにやって来たのも、彼らを縛り上げて、祭司長のところへ引っ張って行くためではなかったか』」。
 人々の驚きは大きかったが、ただの興味本位のものではなかったかと思う。パウロが説教の中で言おうとしたこと、本質的なこと、イエス・キリストに関すること、聞く者の命に関することは、全然捉えられていないようである。だから、我々も彼らの噂話を無視して次に移る。
 「しかし、サウロはますます力が加わり、このイエスがキリストであることを論証して、ダマスコに住むユダヤ人たちを言い伏せた」。
 サウロという人間がどんなに変わったかは興味ある話しかも知れない。しかし、パウロにとって、それは説教の主題にはなり得なかった内容である。22章にもあるように、議会の弁明の中では証しとして用いられた。ガラテヤ書でも少しは触れたが、それ以上触れる必要はないことだと承知したい。
 ただ、「イエスがキリストである」ことは、繰り返し確認しなければならない真理の福音の中核である。それを論証する仕方は、エルサレムの使徒たちにおいてそうであったと同じく、サウロにおいても、聖書による証明であったことに注意したい。
 サウロが力に満ちて人々を言い伏せたとは、聖霊の賜わる力によったことではあるが、ユダヤ人には聖書による証明に反論出来なかった実情を思い起こして置こう。
 「聖書による証明」と言っても、通じない人が今では多い。クリスチャンと言う人にも通じない。だから、今では説明しなければ分からならない。だが、これは使徒たちのしていたやり方であることを思い起こして貰いたい。聖書が論証の根拠になっていた数々の実例を胸に刻みたい。そうすれば、聖書による論証ということが現実味を帯びて来る。それは今も神に用いられているものである。
 イエスがキリストであることを論証するのは、巧みな説明によるのではないし、強力な説得によるのでもなかった。神の言葉と御霊によって証明がなされたのである。これは世間で多数者の同意を得るための論法ではない。教会が確認する方法であった。


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