ピリポのエチオピヤ人宦官への伝道は不思議な物語りである。「本当だろうか」と疑う人は少なくない。聖書の権威に反対の意見を持つ人がそういうことを主張するだけではない。聖書を重んじている人でも首をかしげることがある。例えば、宦官は神礼拝に加わることが出来ない、と律法は定めている。申命記23章1節には「全て去勢した男子は主の会衆に加わってはならない」と言われる。この規定がどういう意味を持つかについては、今触れないでも良いが、神によって造られたものは、神の造りたもうたままの完成品として、御業として、神に向かい、そういう御業をなしとげたもうた神を誉め称えるべきである。
この人がエルサレムに礼拝に来た、というのは何かの間違いではないか、と真面目な信仰者なら思うはずである。間違った話しが混合されて出来上がった作り話ではないか、と論じる人もいる。全てが作り話で、その種本が何かについて、夥しい仮説がある。
そのような疑惑や非難に答えて、釈明をしていては御言葉の宣教にならない。また、それだけの知識を私は持ち合わせない。とはいえ、この話しをこのまま鵜呑みにせよと決めつけるのが信仰の道だと言い張るつもりもない。我々に分かっていること、確かめられていることを、先ず整理して見よう。初期のキリスト教の急激な成長という事実、またその準備となる歴史があったこと、これは確かである。
アレクサンドロス大王の東方遠征(紀元前4世紀のことであるが)以後の世界文明が大きく変化した。エジプトの都市アレキサンデリヤが世界文明の中心地になった。この町にはユダヤ人が多く移住し、彼らが文明の担い手としてかなり重要な位置を占める。また、ユダヤ人はナイル川のずっと上流にも入って行き、その影響はナイル川のさらに上流であるエチオピヤにも浸透して行った。
エチオピヤは旧約聖書の中では、「クシ」という名で知られている。名前が知られていただけでなく、人の行き来があり、エチオピヤから来た人がユダの王宮にいたという実例は珍しくはない。例えば、預言者エレミヤの時代、エベデメレクというエチオピヤ人の宦官が宮廷にいて、監禁中のエレミヤを助けたという記録がエレミヤ書38章にある。その交通は、ナイルの急流を遡って、幾つもの滝を迂回して達する遠い困難な道を通してであった。
余計な話しになるが、他にもう一つ道があったらしい。それはアラビア半島の先端、昔「シバ」と呼び、ソロモンの時代には交易が盛んであって、シバの女王がソロモンを訪ねて来たという話しが
列王記上10章にあるが、そのシバから海を渡った向こう側、(その地方も昔シバの地であったと思われているが)、そこからアフリカ内部に入って行くとエチオピヤ高地である。この通路も使われたらしい。
キリスト紀元前のエジプトに行ったユダヤ人は、ユダヤ人の中でも国際的な精神に富んでいた。彼らは先祖の宗教をギリシャ語の世界にも広めようとして、多くの学者を動員し、聖書のギリシャ語訳を始めており、キリスト紀元の300年前頃にはモーセ五書は完成したようであり、その他の書も続いて出来た。
使徒行伝の時代、エルサレムには、アレキサンドリヤから来たギリシャ語を語るユダヤ人がかなりいて、その会堂もあったらしいということに、6章9節でも触れた。アレキサンドリヤのユダヤ人だけがステパノと論争したのではないが、キリスト者の中で特に活発な伝道活動をした彼と激論したのはヘレニストだった。アレキサンデリヤ出身のユダヤ人は、この地で作られたギリシャ語聖書を普及させる使命を感じていた。だから、エルサレムにもこれを持って来ており、さらに、この翻訳を携えて、ローマ帝国の各地に進出し、異邦人に聖書を教えていた。このことは、今では良く知られている。
それだけでなく、このアレキサンデリヤから、かなり早い時期に、キリスト教の伝道者が送り出されたことがある。名を上げれば、小アジアやギリシャに伝道したアポロという人である。使徒行伝では18章24節から現われる。彼はバプテスマのヨハネの系列の人である。推察すれば、ヨハネの集団がキリスト教になる以前、ヨハネの教えがエジプトに入り、バプテスマのヨハネの教えが受け入れられ、したがってヨハネの証言を受け入れたことに伴って、この集団もイエスをキリストと信じ、その伝道を始めた、ということになると考えられる。キリスト教がエジプトで堅固な地歩を築いたのは、使徒行伝には書かれていないが、とにかく、早い時代である。
そして、アレクサンドリヤから、上エジプトを経由して、ユダヤ教がエチオピヤにも入った。ユダヤ教のままに留まった一群がいて、20世紀に作られたイスラエル国に加わったという事実もある。そのユダヤ教からキリスト教化した人もかなり古くからいる。そういうことを踏まえて、我々はここに驚くべき神の御業に直面する。
確かに、我々には使徒たちの活躍した時代のことを、資料で裏付け、年代を指定して確定することは出来ない。記録が間違っていた場合もあり得たことも認めねばならないのではないかと思う。しかし、大まかな言い方しか出来ないけれども、このような「情勢」とか、「気運」というものがあったのである。それは素直に受け入れる他ない事実である。
気運というようなものに力点を置いて論じることは控え目にしたい。後の時代になってから、「あの時はそのような気運があった」と言われるのは良い。けれども、今その気運がある、と言うのは、当たることもあるし、当たらぬこともある。不確かである。だから、初期のキリスト教はこうこういうわけで進展した、と論じるのは良いし、そこに神の摂理があったことも信じなければならない。しかし、それ以上の議論は慎まなければならない。その摂理を利用することを考えるのは慎もう。
もう一つ、議論を越えてここで受け入れねばならない現実がある。気運などいうものとは違う確かな事柄である。それは、一人の人が回心し、洗礼を受ける、という事実があったことである。こういう事実の積み上げによって、キリスト教が伸びて行ったという現実である。
その頃クリスチャンになる「気運」が社会全体にあったのだという説明は、間違いではないと思う。だが、気運がそうであったと分かったとしても、それ以上の説明は我々には出来ない。調べて見ればこの頃、ローマ帝国内では、いろいろな新しい宗教が宣伝されて、伸びていた。これも確かなことである。しかし、それらはやがて衰えた。キリスト教も伸びたが、その後の数々の逆境のなかで、教会は衰えなかった。どこが違うか。それは、一人一人の信仰が生きていたからである。数が一時的に増えて、またしぼむのとは、別のことが起こっていたのである。我々はそれを見る。
「回心」と呼んでよかろう。この言葉は今の教会では余り聞かれない。言葉としては聞かれなくても、強調されなくても、良いかも知れない。しかし、事実として、出来事としての「回心」、あるいは「入信」、信じない者が信じる者に変わるという事件がなくて、クリスチャンと言われる人がただ増えて行くということでは問題であろう。話しは分かっているのかも知れないが、事実としての信仰がないし、事実の証しは立っておらず、命としての信仰がない。それなら、そのような信仰は、すでに過去の実例が示しているように、消えて行くほかないのではないだろうか。
今、簡単に回心と言ったが、心がフト変わるというような現象ではなく、もう少し丁寧に見ると、変わるべきポイントがあることがハッキリしている。何を信じたかは把握出来る。それを告白と言い換えても良い。これが確認されることが回心なのである。
さて、ピリポのエチオピヤ伝道は、御使いの命令によって始まった。――これまで、使徒行伝で御使いについて語られたことは余りない。御使いという言い方でなく、「白い衣を着た人」と言われたのが、1章10節にあった。これはキリストがオリブ山から昇天され、最早、地上にはいましたまわないこと。また、この次は、その天から再臨されるということを伝えるためであった。また、6章の終わりに、ステパノが議会に立った時、彼の顔は天使のように見えたと書かれたが、これは見た人にそう思われたというだけのことである。
初代教会に奇跡はいろいろと起こったが、御使いが現れて何かの業をするということは余りなく、使徒たちの努力によって福音は進んで行く。しかし、今回は使徒たちの知恵も及ばない発想である。たしかに、計画そのものからして特別なことと言わなければならない。ピリポにとっても思い掛けない命令であった。ちょうど、信仰の父アブラハムが、「行け」と言われた地を目指して出発したのと同じである。
「立って南方に行き、エルサレムからガザへ下る道に出なさい」。そして、ピリポは何も問わないで、全く従順に従った。「ガザが今は荒れ果てている」という挿入があるが、どういう意図でこう言われたのかについては、いろいろなことが考えられる、整理が困難であるから、今は深入りしない。
もっとも、このようにして、エチオピヤに福音が進出して、教会が堅固に打ち立てられたと見なければならない訳ではない。キリスト教がエチオピヤに進出したことは事実である。エチオピヤが当時として知られていた最も遠い国であったから、短期間のうちに福音が地の果てにまで届いた、と受け取って良い。しかし、交通の不便な地であって、エチオピヤの教会が他地域の教会とよく連絡が取れていたという事実はない。
エジプトのキリスト教は「コプト教」と呼ばれるもので、エチオピヤのキリスト教もそのコプト教の系列に属する。ニカイア信条を受け入れている。だが実際には、土俗宗教、その他の要素が混入しているようである。このことについても、今はこれ以上立ち入らない。
「すると、ちょうど、エチオピヤ人の女王カンダケの高官で、女王の財産全部を管理していた宦官であるエチオピヤ人が、礼拝のためエルサレムに上り、その帰途についたところであった。彼は自分の馬車に乗って、預言者イザヤの書を読んでいた。御霊がピリポに『進み寄って、あの馬車に並んで行きなさい』と言った」。
聖霊が命令したということ以外、我々には説明できないことばかりである。聖霊の命令とは、御使いの命令と同じ力を持つ。
この人がエチオピヤから来たということについて、宮廷の高官であること、宦官であることについて、ピリポはどこから情報を得たのか。二人が一緒にいた時間は長くない。イザヤ書の解き明かしで時間一杯で、本人からこれまでの事情を聞く暇はなかった。
したがって、辻褄の合う説明は断念するほかない。しかし、先にも少し触れたように、宦官は神礼拝を禁じられていた。それだのに礼拝が出来たのか。律法がこの時は解除されたというようなことは考えないでおく。宦官とは、人工的に神の創造に反する人間を作り出し、そういうことは禁じられているにも拘わらず、多くの国々の宮廷では必要な人間と見られていた。非人間化された人、人権の抹殺の最たるものであるが、その人が王宮の中では高い地位を得ていた。ユダ王朝もこの悪弊を受け入れていた。非常に問題である。
旧約の預言の人間回復の約束の中に、宦官にも子孫が与えられるというものがある。イザヤ書56章3節-5節に、「宦官もまた言ってはならない、『見よ、私は枯れ木だ』と。主はこう言われる、『我が安息日を守り、わが喜ぶことを選んで、わが契約を堅く守る宦官には、わが家のうちで、わが垣のうちで、息子にも娘にもまさる記念の印と名を与え、絶えることのない、とこしえの名を与える』」と記される。エチオピヤでは先ず宦官が福音に接したという事件には、非人間化され、権力機関の道具とされた人の間に、福音による人間回復が始まったという意味が籠められていると読むことはたしかに出来ると思う。
ただし、そこに強調点を置くのが、この箇所の真の読み方であるかどうか、もう少し考えて見よう。それよりも、彼が宦官であったという情報の方が不確かなのではないか。宦官であったかどうかは、彼がイザヤ書53章のメッセージの真意を読み取ったことに関係あるとは思われない。エチオピヤの高官であったことは否定出来ないであろう。「高官」であったことが「宦官」と取り違えられたと見ても、この事件の本質を歪めることはない。
女王カンダケの代理に礼拝しに来たのか。日本の宗教では代理の参拝というものが一定の意味を持つが、イスラエル宗教においては、神の前に進み出るのは私自身であって、代理人の礼拝ということはなかった。彼自身、エジプト経由で入って来た聖書に心を引かれて、天地の造り主なる神を礼拝したいと願ったのであろう。そして、自ら聖書を読み始めていた。どこで手に入れたのか。アレキサンデリヤか、エルサレムか。それを詮索しても意味はない。回心に向けての準備として、自分で聖書を読んでいた。そのことだけが重要である。
国政の重要な位置にいる人であるから、長期の旅行のためには、女王の許可、理解、さらに言うならば奨励がなければならなかった。それも神の摂理である。ただ、周辺的なことに関心が行き過ぎないことが大事である。
我々が見るのは、一人の異教徒の回心である。神のなしたもうた準備作業については、すでに幾らか触れた。それに詳しく論じることは省いても許されるであろう。ここでは、特に見るべきことだけが記されている。すなわち、彼は聖書を読んでいた。聖書を読むことを通じて入信した。これが入信の実例であった。周辺からの影響はあったかも知れないが、取り上げられていないのであるから、それには目を向けないことにする。
聖書を読んでいたことは必要な一段階であったが、読んだだけでは何も分からなかったことも確かである。信仰に入るまでの全コースがここで示される。読むだけでなく、御言葉が解き明かされなければならない。そのために生身の人間が遣わされなければならない。しかし、ピリポが来たから信仰に導かれたということではなく、そこに御霊の導きがあった。そして、信仰を受け入れることは、しるしとしてのバプテスマを受けることと結び付いていた。それらの大事な事項を次回に学ぶことにしよう。
|