2006.06.11.

 

使徒行伝講解説教 第57

 

――8:18-24によって――

 

 

 「シモンは、使徒たちが手を置いたために、御霊が人々に授けられたのを見て、金を差し出し、『私が手を置けば誰にでも聖霊が授けられるように、その力を私にも下さい』と言った」。
 シモンが教会の歴史の中で最も評判の悪い人物であることは良く知られている。それを題材にして語ることは、聞いて面白いかも知れないが、我々の救いにとってそれほど意味のあることだとは思われない。
 教会用語として「シモニア」という古くからの言葉がある。普通「聖職売買」と訳される。シモンの名から作られた言葉で、シモンのやった行為、金で一つの職務あるいは地位と、それを遂行する能力、(20節のペテロの言葉では「神の賜物」というが)、これを手に入れることである。聖職としての地位を売買することが昔はかなりあったから、シモニアという語は否定的な意味で度々使われたらしい。勿論、教会が富と栄誉と権力を持っていた時代のことである。今では、縁故とか、贔屓というような不公平な人事はあるかも知れないが、教会が貧しい時代であるから、金を積んで職務を買うというような話しは聞かない。今の我々は貧しくて幸いである。しかし、貧しくて幸いだ、というだけで終わっては、聖書のこの箇所を学ぶ意味はない。
 シモンは聖霊を授ける務め――というより能力――がペテロたちにあるのを見て羨ましいと思った。これを聖なる務めへの憧れと取って、善意に解釈するのは筋違いであろう。すでに魔術を使って人々を驚かせ、かなり富を積んでいたが、もっと得たいと思って、投資したのであろう。この欲望を批判することは無意味ではないが、今日は止めておく。
 今の世には、富の獲得ばかりでなく、必要もないのに増やすこと自体を追求する目的しか考えない多くの人がいる。その人たちに、もっと意味のある人生があるではないかと聞かせる必要は大いにある。だが、そういう人は多分ここにはいないから、論じても無駄である。
 シモンはペテロとヨハネの働きを見て、感じるところはあった。が、その働きを何と見たのであろうか。遠い他国へ行って修行を積んで来た魔術よりも、ズッと素晴らしいと感じたことは確かだ。しかも、見た目に華やかだと感じられ、さもしい欲望が募って、魔術よりももっと大きい利益を上げると考え、そのためには金を払って良いと思った。見た目の華やかさがなくても、これは素晴らしい奉仕の業であるが、そういう貴いものとは考えていない。
 使命に生きるということが全く分かっていなかった。使命に生きることについて、旧約の預言者たちがどうだったかを考えて見よう。彼らは苦労に苦労を重ねてその務めを遂行した。人々は彼の取り次ぐ御言葉を聞いてくれない。大抵の預言者は、結局、殉教した。その一生は何だったのか、と深刻に考えさせられるが、預言者は疑うことなく、使命に生きた。
 いや、預言者の例を引くよりも、我々の主イエスがどうであられたかを思い見る方が分かり易いであろう。「彼は侮られ、人に捨てられ、悲しみの人で、病を知っていた」。預言者はそのようなお方が来られるのを予告しており、人々はそのお方の来臨を待った。彼が来られた時、使徒たちは、この方の後に随いて行くべく召された。キリストは「人の子は枕するところなし」と言われたが、彼らはこのお方に随いて行った。そのことにシモンの目また心は、全く向けられていなかった。
 使徒行伝の時代は教会の大発展の時代であった。人々は教会の大躍進に目を奪われた。久しい間待たれていた神の約束の成就があったのだから、集まりが急激に伸びても不思議ではない。けれども、急成長を見て喜ぶなら、世俗的な事業の成功と同じである。主の歩みたもうた道、その後に随う人たちの歩んだ道、それがチャンと見えていなければならない。シモンにはそれが見えていない。
 すでにサマリヤにおけるペテロとヨハネの働きで見たように、使徒たちは御言葉を宣べ伝えるとともに、御霊を分け与える務めをしていた。シモンにはそのことが分かっていない。御霊を授けるという、しかも目に見える現象にしか心を引かれなかった。召しを受けて務めに就く人たちの務めの、特に重要な点は「御言葉を宣べ伝える」ことにあるのを我々は忘れていない。御言葉と御霊を並べることは良いのだが、順序を間違えると混乱が起こりやすい。
 御言葉を宣べ伝える働きが、キリストに仕える務めの代表的なものである。御言葉の宣教だけが務めであると看倣し、それ以外を本来の務めでないと言うならば、問題である。一つの体は多くの肢からなっており、務めも種々あるように、務めはさまざまある。多種多様の務めがキリストにおいて一つに統合されて、神の栄光を現すとともに、それらの務めが隣人を助ける。だが、それらの多種多様な務めを代表し、務めとはこうすることであると示すに最も適切な例は、御言葉を宣べ伝える業である。
 それぞれの務めにある各人は、御言葉が宣べ伝えられる時、どのような生き方がなされるかを考えれば、それは他の務めにも当てはまるということに気付くであろう。すなわち、仕えられている御言葉が仕える者に務めの最も良き方向付けと励ましを与えるからである。
 聖霊を授けるという働きは、今では教会で殆ど見ることが出来ない。しかし、だから教会は命と力を失ったのだと見てはならない。聖霊の賜物は見ることの出来る形で与えられなければならない、という主張が教会の歴史の中で時々繰り返される。一時的には熱が上がるが、また下火になる。一旦燃えた後の冷え切りは恐ろしいほどの無力化状態である。聖霊の目に見える賜物に関心が向き過ぎるのは危険なのだ。御言葉と御霊がつねに結び付く、というところに我々の務めの道を見出し、その道を進まなければならない。シモンの間違いと似た間違いが広範囲にある。
 今では聖霊の火は消えたのか。そうではない。御言葉が聖霊の力によって語られるところに、聖霊は働いている。だから、信仰が起こる。罪の赦しが現実となる。救いが起こる。
 次に、使徒たちがシモンの間違いにどのように対処したかを学ぼう。ペテロは叱責しただけでなく、特に悔い改めを命じている。
 これはシモンという個人に対する個人指導の問題でもあるが、教会の粛正、教会の秩序の引き締めの問題として捉えるべきことである。思い起こすのは、使徒行伝5章で見たアナニヤとサッピラの不祥事である。ここでも金に対する執着が関係している。ペテロはこの不祥事をたちどころに見破って、直ちに対応して、「主の御霊を試みるのか」と叱責した。511節に、「教会全体、ならびにこれを伝え聞いた人たちは、みな非常な恐れを感じた」と記されるので、我々も身を引き締める。ペテロはシモンの場合も問題が何であるかは洞察した。
 教会でも不祥事が起こる。表面化するまでに時間が掛かる場合が多い。また、事に気付いている人も、それを直ちに摘発することはしない。それは、遠慮とか気兼ねとかいう世俗の知恵によるものではなく、主イエスの教えに随うからである。マタイ伝13章の毒麦の譬えを思い起こしているからである。畑の中に毒麦が混じって生えていても、刈り入れの日が来るまでは、そのままにしておけ、と主はいわれる。
 二つのことが注意される。一つ、悪を悪として断定することは出来るかのようであるが、断定する自分自身はどうなのか、という問題を素通りして、真の裁き主なるお方が見えなくなってしまう危険がある。もう一つの危険は。毒麦を抜く時、麦も抜いてしまうこと、一般的に言って、躓きである。
 では、躓きを恐れて何もしないでいるのが良いか。そうではない。マタイ伝1815節以下で教えられている規定がある。兄弟が罪を犯していて、自分はそれを知っているが、他の人がまだ気付かれていないなら、人に知られないうちに、一人で行って、一対一で悔い改めを勧告せよと命じたもう。
 アナニヤ、サッピラの場合は、いわば即決裁判であった。ただし、ペテロが死の刑罰を判決したのではなく、「これは主の御霊を試みることである」と申し渡しただけで、本人たちが神の怒りに打たれて滅びたという特殊な例である。この場合も悔い改めて生きる道はあった。
 シモンの場合、アナニヤ、サッピラよりももっと悪性だったと言えるかも知れない。それでも、シモンはここでは立ちどころに滅ぼされるのではなかった。
 「お前の金はお前もろとも、失せてしまえ」。厳しい判決である。金と金に捕らわれている者への断罪である。人間が金というものを発明したのは不幸であった。金のなかった頃、物々交換があり、その頃でも大小の升を使い分けるという不正があった。獲物の取り合いの争いがあった。それでも、貨幣というものが人間生活の中に入り込むと、人間は格段に悪くなった。
 金銭よりも、もう少しましな価値があるのに、それに気付いている人は少ない。人々は金銭の奴隷になっている。その奴隷状態から抜け出せない悲惨さが今日ますます大きくなっている。この悲惨から脱却する試みがいろいろなされたが、事態は良い方向に向いていない。人々は金銭を用いて自分の生活を快適にしたいと欲し、貧しい人をさらに貧しくし、将来生まれて来る人類のために取って置かねばならない資源まで食い荒らし、破滅に向けての加速度がついて行く。
 主イエスは「神と富と両方に仕えることは出来ない」とマタイ伝624節でハッキリ教えたもうた。しかし、この教えはキリスト教国と言われる国においても、行なわれていない。富を作り上げ、それを用いて神の御業に仕え、人々にも仕えることが出来る、という理論が作られた。それはもっともらしく思われたのであるが、財産構築そのものが目的にすり替えられるようになった。だから、利益目的に生きる泥沼から脱却出来にくい。
 主イエスはむしろ「貧しき者は幸いなり」と教えたもうたではないか。金銭は良い目的のために用いることが出来る、ということは本当かも知れない。しかし、金銭がなければ良いことは出来ないのか。………いや、貧しいからこそ出来ることがある、と主は教えたもうたのではないだろうか。金銭を介入させないことを先ず考えて見るべきではないか。
 「神の賜物が金で得られると思っているのか。お前の心が神の前に正しくないから、お前は到底この事に与ることが出来ない」。――神の賜物とここで言うのは聖霊のことである。神が下さる最も大いなるもの、それが聖霊であるということを思い起こそう。ルカ伝1113節に言われた教えは、「このように、あなた方は悪い者であっても、自分の子供には良い贈り物をすることを知っているとすれば、天の父はなおさら、求めて来る者に聖霊を下さらないことがあろうか」である。
 シモンがこの事に与れないとは、御霊の賜物を取り次ぐ務めのことである。そのことをなす人は心の清い人でなくてはならない。清いとは人からそのように評価される人徳でなく、神のために生きているという意味である。
 シモンの心の汚れ、それは23節に「苦い胆汁」、「不義の縄目」と表現されているものである。これは以前彼が行なっていた魔術によって汚された心の汚れのことである。そういう汚れがあることが私には分かっているというのは、特別な霊的直感力がペテロには賜物としてあったということか。そう考えても良いであろうが、特別な人だけがこの感覚を持つのでなく、神の民は神の民として、聖なるものでなければならないからである。レビ記1145節は言う、「私はあなた方の神となるため、あなた方をエジプトの国から導き上った主である。私は聖なる者であるから、あなた方は聖なる者とならなければならない」。
 「だから、この悪事を悔いて、主に祈れ。そうすれば、あるいは、そんな思いを心に抱いたことが、赦されるかもしれない。お前には、まだ苦い胆汁があり、不義の縄目が絡みついている。それが私に分かっている」。
 シモンには、悔い改めたならば赦されるという道が示された。しかし、彼は悔い改めたのか。多分、そうでなかった。だが、「本当はどうだったのか」と議論しても実りはないであろう。
 悔い改めれば赦される。これが真実である。これは神の約束である。また、シモンが「仰せのようなことが私の身に起こらないように、どうぞ、私のために祈って下さい」と言ったのは、叱責に対する従順であると見られる。しかし、結局、本当の悔い改めには至らなかったと見るべきであろう。彼は刑罰の恐ろしさを感じたようである。アナニヤとサッピラは刑罰の恐れの大きさを感じたそのショックで息絶えた。シモンもそうだったであろう。そこで、執り成しの祈りをして貰いたいと願った。けれども、生まれ変わることにはならなかった。
 悔い改めるとはどういうことかをハッキリさせなければならない。これを厳しい要求だと思ってはならない。人は新しく生まれなければ神の国を見ることが出来ない、とイエス・キリストの言われたのはこのことなのだ。


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