2006.06.04.

 

使徒行伝講解説教 第56

 

――8:14-17,25によって――

 

 

 エルサレム教会とサマリヤとは、これまで無関係であった。無関心であったとは言えない。「あなた方はサマリヤにも私の証人となって出て行く日が来る」と主イエスは18節で言われたからである。しかし、その日についての予感はなく、それはもう少し先ではないか、と使徒たちは考えていたようである。彼らが怠慢であったとは思えない。みんな手一杯であった。
 ステパノの死を合図のようにして、キリスト教迫害が始まり、使徒らはエルサレムに踏みとどまったが、大多数の人は散らされた。ところが、このことが、サマリヤ伝道の始まりになる。その報告がエルサレムに届いたのである。風の便りに聞こえて来たということではない。ピリポが一緒に行った人の誰かを、使いとしてエルサレムに送ったと思われる。つまり、その時期の教会には、組織も制度も殆ど整っていなかったが、散らされても共同体であって、情報を知り合い・報せ合う努力をしていた。それは教会の持つ宝の一つである。
 出先から中枢部への連絡というようなものではない。エルサレムが中枢であると考えられていたのでもない。そういう意識を持つ人が幾らかいたかもしれない、そう思われるフシはある。11章にはそのような意味のものらしい事件が出て来る。しかし、この問題は間もなく解決した。教会は主の教会であって、一人の、あるいは一部の力ある人々、あるいは期待される人々の、支配や感化を受け付けない。
 11章になると、アンテオケ教会が、異邦人伝道を活発に始めるところを聞くのである。だが、「地のはてまで私の証人になる」と、主から直々に言われたのは12使徒である。それなら彼らの建てたエルサレム教会が世界伝道の中心になるべきではないか。ところが、そうでなくて、アンテオケ教会の方が海外伝道の中心になっている。しかし、エルサレム系統とアンテオケ系統の組織が別々になって行くのではなかった。
 教会は枢要な人物のいる所とか、歴史的に重要な地とか、あるいは重要な名を持つ教会とかを中心とするのではない。御霊の働く所が中心になるのであって、中心は幾らでも増やすことが出来る。そして、中心が出来すぎて混乱するということもない。御霊は一致と和合の御霊だからである。
 それでは、エルサレムにいた使徒たちは、なぜペテロとヨハネを派遣したのか。それはサマリヤ教会を監督・指導するためではなかった。二人は間もなくサマリヤの村々を廻りながらエルサレムに戻っている。二人の使徒の力に依存してサマリヤ教会が建ったということではない。大事なのは、聖霊が降って教会が建ったことである。地方教会の自主性ということを考えても、間違いではないが、自主性よりも遥かに重要なのは聖霊を受けていることである。
 サマリヤ開拓伝道をしたピリポも、ここに居続けるのでなく、間もなく南方に転じることが26節に書かれている。実は、このピリポはペテロ、ヨハネと一緒にエルサレムに帰ったのかも知れないのである。余分なことを論じているのかも知れないが、「エルサレムからガザへ下る道」と26節で言われるのは、一旦エルサレムに帰ったところ、また新しい使命が与えられて、エルサレムを出てガザに向かった、と読み取ることも出来る。それは兎も角、ピリポはもっと留まって、教会の基礎を固めるべきではないかと考えられるかも知れない。それが間違った考えとは言えない。
 そうだとしても、御霊の働き、御霊の力を、先ず重要視しなければならない。――「御霊の働き」、これが今日学ぶ最重要点である。そして、ペテロとヨハネがサマリヤに派遣されたのも、御霊が与えられるためであった。御霊は主の御旨のままに与えられる。五旬節の朝、誰かの手を通してでなく、この時は主御自身によって与えられた。けれども、そういうケースは稀にしかなく、我々の知るところでは、いつも御旨にかなう器、人物を通じて伝達される。その器は誰でも良いということではない。御旨にかなう器が派遣されねばならない。
 なお、14節に「エルサレムにいた使徒たち」と書かれているが、使徒は全員エルサレムを離れずにいたということか。そうかも知れない。しかし、迫害下の教会を決死の覚悟をもって守らねばならない日々が、そう長く続いたのでないことは分かっている。だから、使徒の或る者はエルサレム以外の場所に出掛けて、活動を始めていたということは十分ある。その時、エルサレムに教会とともに残って仕えている者もいた。その人たちが、ペテロとヨハネをサマリヤに派遣したと考えることも出来る。そのほうがこの時の状況に合致しているのではないか。
 さて、今日、世界中の教会は、五旬節を記念しているが、昔のユダヤの慣例による一つの祝日を覚えるだけでは意味がない。特別な日を定めることはキリストの来臨によって意味を失った。全ての日が祝いの日、聖なる日となったのである。五旬節は聖霊を送るという主の約束が成就した日であるから、我々はその成就を踏まえ、また聖霊の全き充満の日を待望するために、この日を教会の益のために役立てる。
 使徒行伝24節で学んだように、エルサレムで、この五旬節の朝、一同は聖霊に満たされた。あの時は、それから、人々がバプテスマを受けた。しかし、サマリヤではバプテスマが先に行なわれたけれども、御霊はまだ降っていなかった。だから、サマリヤでも御霊が降るようにと、ペテロ、ヨハネが赴いた。サマリヤの教会も、エルサレム教会と同じにならなければならない。どこにあっても、同じ御言葉が聞かれ、同じ信仰が生きており、同じ霊的な命が満ちている。教会の格差はあってならない。格差があるなら、それを何とかして埋めて行かなければならない。これは教会全体として負うべき務めの一つである。
 では、ペテロとヨハネによって聖霊は降ったが、ピリポによってはそうならなかったのか。ピリポにはそれだけの資格がなかったのか。――そのように考えている人が多いのではないかと思うが、ここで「資格」とか「階級」とか「器の資質の上下」というような世俗的な考え方を採り入れないようにしたい。主は宜しとしたもう時に、宜しとしたもう器を通じて、御霊の賜物を配分したもう。これが確かなことである。
 使徒行伝19章では、エペソにおいて、アポロのバプテスマ執行によっては御霊は降らなかったが、パウロが手を置けば御霊が降ったということがある。これは、しかし、パウロとアポロの資格の違いを論じようとするものではない。ヨハネの名によるバプテスマか、イエス・キリストの名によるバプテスマか。この違いが重要だということを示す事件である。アポロはイエスをキリストと信じることを教えたが、聖霊については教えなかったし、彼の行なったバプテスマはヨハネのバプテスマであって、イエスをキリストと証ししたのは確かであるが、イエスの名によるバプテスマではなかった。
 サマリヤにおけるピリポのバプテスマは「主イエスの名によるバプテスマ」であったと16節は言う。
 キリストの名それ自体が絶大な意味と力を持つ、と我々は知っている。キリストの名によるバプテスマには最早、何も付け加える必要はないはずではないか。その通りである。ピリポのバプテスマが月足らずのものであったと取ってはならない。バプテスマのやり直しは要らなかった。この人たちは聖霊を受けて、信じて、キリストを告白して、バプテスマを受けたのである。ここで「聖霊が下った」と言われることは、むしろ「聖霊の賜物」、「聖霊の現われ」を指したと見るべきであろう。
 それでは、イエス・キリストの名によってバプテスマが行なわれたなら、そこには御霊の降臨が直ちに伴うのか。――必ずしもそうではない。使徒行伝の時代は特別な時期であったから、数々の奇跡的なことが起こった。しかし、後にはむしろ、そうでない場合が普通になる。これを教会の力の衰えであると考える人が多いようだが、「私はいつもあなた方とともにいる」との約束を無視してはならない。主の教会はつねに主の教会でなければならない。
 キリストの教会という名だけが残って、実質はそうでないものに退化してしまったということがあるとすれば、主御自身がそのような名前だけのキリスト教会を焼き捨てたもうであろう。もし、その裁きが始まっていないなら、主が教会の悔い改めを待っておられるという意味である。
 ここで纏めて置きたい。主の約束と、約束の成就は、必ず結び付いている。だが、必ずしも続いて起こるのではない。時間的前後関係が逆になっている場合もある。五旬節には一同が聖霊に満たされる事実がバプテスマに先立った。サマリヤでは、バプテスマを受けたという事実が先にあって、聖霊を受ける事実は後になった。しかし、矛盾ではない。
 聖霊が必ず与えられるという約束は確かに与えられた。約束は御言葉による約束であるが、「約束」には「約束の徴し」が結び付いている。その約束の徴しとして、キリストの名によるバプテスマが定められた。だから、徴しを受けたなら、約束は必ずなると信じて待つのが当面の信仰の励みである。そしてこのことを固く信じさせるのが「保証」として、御言葉を聞く人にすでに与えられた御霊の働きであると我々は知っている。御霊の働きなしでは、とても信じられないことである。
 では、迷いや、単なる思い込みや、単なる説得によって信じてしまうことはどうなのか。それは、一見、信仰のように見えるかも知れない。けれども、信仰でないことはやがて判明する。信仰は人を救いに至らせる。それだけの確かさを持つ。確かさのないものは信仰ではない。
 聖霊を信ずることがキリスト教会の中で次第に疎んじられて来ているのは重大な問題である。聖霊について教えることさえ消え掛かっている。だから、キリスト教はますます無力化して行く。
 しかし、声を大きくして「聖霊!」、「聖霊!」と叫べば、教会に活力が戻って来るというものでもない。聖霊を信じることは、聖霊によってこそ起こる。また、聖霊の教えは分かり難いから、上手に解説しなければならない、と要求するのも問題解決にならない。上手な解説は出来るであろう。しかし、解説で分かることと、「信じる」ということは、かなり違うから、すり替えをしてはならない。解説ですり替えるのでなく、聖霊を信ずる信仰を「生命」として伝えるべきだ。使徒行伝ではまさにその生命の躍動が見られるではないか。「みんなが聖霊を受けるようにと、彼らのために祈った。………そこで二人が手を彼らの上に置いたところ、彼らは聖霊を受けた」とあるのは、その事実である。その事実が事実として受け入れられるまで、肉迫しよう。解説と納得で済ませるのでなく、事実が体得されるところまでって行かなければならない。
 二人が手を彼らの上に置いた。そこで彼らは聖霊を受けた。それなら、手を置くという行為によって聖霊を受けたのか。そうではない。手を置くことは、エルサレム教会が7人の働き人の任職をした時に行なったが、すでに御霊と知恵とに満ちた人たちを選んだのであるから、手を置くことで御霊が授けられたのではない。手を置くことに特別な意味があると見るなら、魔術師シモンの考えと同じである。
 手を置くことは、一つの仕草であって、こだわる必要はない。御霊の現われの形は自由なのである。
 この続きにシモンが飛んでもないことを言い出すという事件が起こる。その事は今日は飛ばして、25節に進む。「使徒たちは力強く証しをなし、また主の言葉を語った後、サマリヤ人の多くの村々に福音を宣べ伝えて、エルサレムに帰った」。
 使徒たちが来て、サマリヤにも聖霊が与えられた、というところに今日学ぶべきことの中心がある。しかし、聖霊を与えるだけが務めではなかった。「力強く証しをなし」ということ、また「主の言葉を語る」ということがあった。
 「力強く証しをする」というのは一つの言葉で、「証しをする」というのとは別である。意味は同じと取って良いかも知れないが、違いを示すために、「力強く」という語を加えて訳語とした。「誓って証しする」とか、「厳粛に証言する」とか、強い調子の証しをするところで用いられたらしい。将来まで力の働くような教訓や警告をしたということであろう。
 「主の言葉を語った」というのは、4節で、散らされた人たちが「御言葉を宣べ伝えた」と言われ、5節で、ピリポが「キリストを宣べた」、また12節に「神の国とイエス・キリストの名について宣べ伝え」と言われた、それらと同じ意味のことかも知れない。これは断定出来ないのだが、「主の言葉」と呼ばれる一群の御言葉があって、使徒は主イエスの口から聞いて心に刻んでいたが、ピリポは恐らく五旬節に入信したので、まだ知らなかったし、教えることも出来なかったという事情があるものかも知れない。
 確かに、「『主の言葉』によって言う」というような言い方が行なわれる。例えば、I テサロニケ415節に、「私たちは主の言葉によって言うが、生き長らえて主の来臨の時まで残る私たちが、眠った人々より先になることは、決してないであろう」。これを見ると、「主の言葉」という格付けをされた伝承があったと考えられる。そして、ここで言われる「主の言葉」は、マルコ伝91節の「よく聞いて置くがよい。神の国が力をもって来るのを見るまでは、決して死を味わわない者が、ここに立っている者の中にいる」という言葉の中に残っているものではないかと思われる。
 しかし、このことにはこれ以上立ち入らないで置く。大事なことは、使徒たちが御霊を人々に分かち与えるとともに、御言葉にも与らせたことである。御霊だけが単独に働くことを考えるのは無意味である。

 


目次へ