エルサレムから散らされた人々が、行く道々で福音を語り広めたことについて、すでに或る程度学んだ。散らされるという禍いは、福音の拡張という喜ばしい事実の反面だった。この4節については、まだまだ掘り下げねばならないと思うが、今日はその一例に触れに留まる。散らされた人は多く、行く先は多方面であったから、主な流れしか追跡出来ない。その中で、ピリポがサマリヤに行ったケースを見るだけである。「多くの人がユダヤとサマリヤに散らされた」と1節で言われたが、ユダヤに行った人たちについては触れることが出来ない。エルサレムを一歩出ればそこはユダヤであるから、サマリヤに行く人もユダヤを経由した。
ピリポは一人でサマリヤに行ったのであろうか。他の道をとった人の中には、数人が一団となって逃れたのではないかと思われる例がある。アンテオケまで行った人たちはそうであった。ダマスコに行った人も複数であろう。が、とにかく、サマリヤに行ったピリポは、一人であったように書かれている。――ただし、ピリポがただ一人でサマリヤ伝道の一切を担ったと見なければならないということではないと思う。ピリポがエルサレムの12人に伝道の報告を送ったと考えられるが、報告に行った使いは、彼と一緒にエルサレムから来た人だと見るのが自然であろう。ただ、彼がこの後ガザに行く道に現れた時は、確かに一人であった。
ピリポについて我々が知っているのは、これまでのところ、6章にあるあの7人の一人だということだけである。7人のうち、その人となりを知ることが出来たのは、ステパノだけであった。ピリポは広範囲の活躍をした伝道者であるが、キリスト者になる以前の経歴は分からない。ギリシャ語を使うユダヤ人の会堂に属していた人であり、寡婦の食卓の世話をする人として、人々から信任されたことが分かっているだけである。
彼はサマリヤに行き、そこからガザへ下る道に行ってエチオピヤ人に伝道する。ユダヤ人以外には少数のギリシャ人に福音が伝えられただけであった時、エジプトの奥地のエチオピヤまで福音が達したのは驚くべきことだが、神はその器を用意された。ピリポはそれから海沿いの南方アゾトの地方で開拓伝道をし、最終的にはカイザリヤ教会の働き人になる。彼の伝道のことは彼自身の口から語られたものと思われ、客観性のない不思議な物語りとして、疑いの目で見られるかも知れない。しかし、サマリヤについてはペテロとヨハネが行って確認しているし、エチオピヤについても、実際エチオピヤにキリスト教が伝えられた事実と符合する。不思議な話しだが、嘘ではない。
ピリポが聖書についての深い学びをしていたことが間もなく明らかになる。それは、ガザに行く道でエチオピヤの宦官に会い、問われて、イザヤ書53章の解き明かしをしているくだりである。そこに記される「苦難の僕」、それはイエス・キリストの預言だと教えたのである。ピリポがこの時、偶然の思い付きで語ったということではない。3章にあるペテロの説教には、「神はあらゆる預言者の口を通してキリストの受難を予告しておられた」と言われているし、4章27節と30節には「僕イエス」という言い方があるから、旧約の預言をキリストの光りに照らして読むという読み方は教会では身についていた。「主の僕」を預言するイザヤ書53章が、その時点ですでにそのような解釈で読まれていたに違いない。この解釈は主イエスに由来すると思われる。
それにしても、イザヤ書53章について、教会の中で確認されて行く読み方をハッキリ提示したのは、使徒ではなくピリポが最初であった。したがって彼の聖書についての学識の深さは並々ならぬものがあったと考えられる。彼はアレキサンドリヤ系のシナゴーグに属していたのではないかと思われる。
では何故、サマリヤに行ったのか……。何か繋がりがあったのであろうか……。それについては何も分からない。思えば、復活の主は使徒行伝1章8節で、「聖霊があなた方に下る時、あなた方は力を受けて、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、さらに地の果てまで私の証人となるであろう」と言われたのであるから、ユダヤの次に位置付けられているのがサマリヤであることは当然であろう。
また、主イエスがサマリヤのスカルで伝道されたことが、印象深い記事としてヨハネ伝4章に書かれているのを思い起こす人は多いのではないか。これは他の福音書にはない記事であるが、今学んでいるキリスト教会によるサマリヤ伝道と何らかの関係を考えないでは読めないところである。では、そのことと関わりがあって、ピリポはサマリヤに行ったのか。そう考える余地がないとは言わないが、主イエスの行かれた町はスカルと書かれている。ところが、ピリポが行ったのはスカルではなく、もっと西の方にあるサマリヤという名の町、北王国の首都だった頃からの町であるらしい。もっとも、「サマリヤの町」と書かれているのは、サマリヤ県にあるどこか一つの町だと取ることは出来なくない。
もし、ピリポがスカルに行ったと書かれているならば、我々の想像力は刺激されて俄然大きく膨れ上がったであろう。というのは、スカル、すなわち旧約に出て来る名ではシケムであるが、このシケムはイスラエルの歴史に出て来る地として、特別有名であり、重要である。
先祖ヤコブは遠いパダンアラムから帰って来た時、金を払ってシケムに土地を買い、そこに祭壇を立てた。祭壇を確保することを願ったから、その祭壇について人から干渉されないように金を払った。また、シケムに井戸を掘ったと伝えられている。後にヤコブは飢饉の時エジプトに移住し、寄留先で死ぬが、死ぬ前に自分の遺骨を先祖アブラハムのマクペラの墓に葬れと息子ヨセフに命じる。これは創世記49章に書かれている。ヨセフがそれを実行したことは、創世記50章に記されるが、ヨセフも自分の死後、遺骨は取っておいて、イスラエルがエジプトを出て約束の地に帰る時が来たならば、その骨を持って行けと命じる。ヨセフの子孫であるマナセ族とエフライム族は、カナンの地に帰った時、ヨセフの骨を持って行ってシケムに葬ったことがヨシュア記24章に記されている。そのようにシケムはイスラエルにおける重要なところであって、モーセの後継者ヨシュアはここに住んだのである。
主イエスがスカルに行かれた時、サマリヤの女と「ヤコブの井戸」、また「ゲリジム山かエルサレムか」を巡って語り合いをしておられる。そこを読めば、スカル、つまりシケムは、ユダヤと関係が悪くなった後もサマリヤの宗教的伝統においても中心地であったことが分かる。
さらに、このサマリヤの女は「私はキリストと呼ばれるメシヤが来られることを知っています。その方が来られたならば、私たちに一切のことを知らせて下さるでしょう」と言い、それに対して主イエスは「あなたと話しをしているこの私がそれである」と言われた。ここに、サマリヤに受け継がれたイスラエルの信仰の核心部分が何であったかが示されるのである。すなわち、サマリヤ人も、約束されたキリストの到来を待つ民であった。
ピリポによる伝道の中で、この記事と結び付くようなやり取りがあったことは書かれていない。我々の読む限りでは、もっと低俗で魔術的なものに心を引かれていた者らが、まことの神に帰依したという要素の強い物語りが続く。
しかし、ヨハネ伝4章で読み取ることの出来るメシヤ待望が、ありそうもない作り話だと言ってはならないであろう。サマリヤの宗教的事情について述べるならば、ユダヤ人はサマリヤ人を異邦人以下の、神と無縁な民のように見ていたが、サマリヤの宗教はモーセ五書を正典とするユダヤ教の一派である。モーセ五書以外の書を正典として受け入れない点は、問題だと言えるかと思うが、カナンの地に定着したイスラエルが先ず正典として守ったのが五書であったことは確かである。これを守ろうとする点でサマリヤがユダヤに劣っていたと言うことは出来ない。王国分裂があって後、南王国ユダのユダヤ教も、正典が何々かを確定していなかった時代はずっと続いた。モーセ律法を最も重要視したという点で、区別はつけがたい。
ユダの宗教またバビロン捕囚以後のユダヤ教においては、エルサレムに重点が置かれた。しかし、モーセの律法にはエルサレムについての記述は何もない。むしろ、申命記11章29節に、「あなたの神、主があなたの行って占領する地に、あなたを導き入れられる時、あなたはゲリジム山に祝福を置かねばならない」と言われるように、ゲリジム山は以前から祝福の山なのである。サマリヤ人はゲリジム山に誇りを持つ。
もう一つ触れねばならないこととして、申命記18章15節に、「あなたの神、主はあなたのうちから、あなたの同胞のうちから、私のような一人の預言者をあなたのために起こされるであろう。あなた方は彼に聞き従わなければならない」というモーセの言葉が記されている。これはメシヤ預言の一つとして有名であるが、サマリヤのユダヤ教でも、特に重要視されたようである。ただし、資料の年代から言って問題が残るということである。それにしても、メシヤが来るという信仰があったことは、ヨハネ伝4章のサマリヤ女の言葉から明確に讀み取ることが出来る。サマリヤ人はそのメシヤが、ゲリジム山に来ると信じていたようである。
今日学ぶテキストに入るが、5節に「ピリポはサマリヤの町に下って行き、人々にキリストを宣べ始めた」と記される。ピリポの宣教の最も中心的なことである。4節には「散らされて行った人たちは、御言葉を宣べ伝えながら……」と書かれていたが、5節では「キリストを宣べた」と言う。主旨が食い違っている訳ではないが、ピリポの宣教がどういうものであったかをズバリと鮮やかに示そうとするものである。
「福音を伝えた」と言っても良いし、「御言葉を語った」と書いても同じであるし、「イエスを宣べ伝えた」と言うことも出来たが、ピリポとしては、単なる新しい教えではなく、素晴らしい人格であるナザレのイエスを解説するのでなく、その方が来られたことの意義を教えるのでなく、その方がキリストだと言って、キリストそのものを伝達しようとした。「キリストを宣べた」という端的な言い方には、ピリポの説教する場面を髣髴とさせる迫力がある。それは、キリストがどこそこに来られた。来て、これこれのことをなさった、と話すのではなく、今ここに来ておられる。生きておられる。今ここで御業をなしたもう、という宣言であったことに注意しよう。それが単に語られる言葉でなく、現実であることを分からせるのが奇跡であった。
サマリヤ人はキリストの来臨を予告されているのだから、ピリポはその予告にどこかで触れたに違いない。また、キリストはゲリジム山に来臨されたのでなく、ガリラヤに来られ、エルサレムに行って苦難を受け、エルサレムで復活された、という事実に触れなければ、お伽話のように受け取られたであろうから、イエス・キリストの事実に触れないことはなかったであろう。しかし、ピリポが第一に言いたいのは、主がここに来ておられ、生きておられ、この通り徴しを現わしたもう、ということであった。6節はそのことを言うのである。「群衆はピリポの話しを聞き、その行なっていた徴しを見て、こぞって彼の語ることに耳を傾けた」。
人々は先ず徴しを見、それからピリポの語る言葉を聞いたというのが順序である。したがって、彼らが「信じた」というのも、本格的な信仰というよりは、信仰の門口に過ぎなかったと見ることは出来る。それでも、そこから信仰に入り、救いに入ることは許されていた。
我々の思い起こすのは、主イエスがガリラヤで伝道を始めたもうた頃の情景である。人々は説教を聞いて学者や教師の教えと違った威力に驚いたが、奇跡をなしたもう力に驚いた面もある。彼らの関心が目に見えるものに傾いているのを、主イエスは喜びたまわなかった。それは確かであるが、人々が大いなるお方が来たりたもうたことを感じたのは、それはそれで正しい。
7節、8節を併せて読んで置く。「汚れた霊に憑かれた多くの人々からは、その霊が大声で喚きながら出て行くし、また、多くの中風を患っている者や、足のきかない者が癒されたからである。それで、この町では人々が大変な喜び方であった」。
福音書の中で読む主イエスのガリラヤ伝道も、初めの頃このようであった。例えば、マルコ伝1章32-34節に「夕暮れになり、日が沈むと、人々は病人や悪霊に憑かれた者をみな、イエスのところに連れて来た。こうして、町中の者が戸口に集まった。イエスはさまざまの病を患っている多くの人々を癒し、また多くの悪霊を追い出された。また、悪霊どもに物言うことをお許しにならなかった。彼らがイエスを知っていたからである」と記される。
悪霊払いの呪術を行なう者が、当時、民間の癒し手として活動していて、珍しくはなかった。魔術師シモンもその一人ではないかと思われるが、イエス・キリストは魔術師の仲間ではなかった。悪霊は魔術によって追い出されたのではなく、イエスがどういう力と存在意義を持つお方であるかを知っていたので、聖なる力に圧倒されて、破滅を恐れて逃げ出したのである。サマリヤで悪霊たちが大声で喚きながら出て行ったのも、イエスの御名の威力を感じていたからである。したがって、人々は悪霊払いの力に驚いたというのではなく、悪霊の叫ぶ叫びの内容に驚き、かつ喜んだ。その喜びも、やがて消えて行く喜びではなく、救いを見た喜びである。
ここで読む限り、サマリヤ人の信仰は、次に出て来る魔術師シモンと余り違っていないではないか、と考えられるかも知れない。しかし、この喜びが単なる肉的な喜びで、彼らは御利益を喜んだだけだと軽蔑することは良くない。主イエスは癒される手段を持たない哀れな人々を思い遣り、彼らに対する憐れみの御業を行ない、かつまた御自身を解放者として示したもうたのである。魔術師が客寄せのために人々を楽しませる見世物をしたのと同列ではない。
さらに留意すべきことがある。後に9章31節で、「こうして教会は、ユダヤ、ガリラヤ、サマリヤ全地方に亘って平安を保ち、基礎が固まり、主を恐れ、聖霊に励まされて歩み、次第に信徒の数を増して行った」とあるところでは、パレスチナ教会が堅実に建てられて行ったことが語られるのである。つまり、ガリラヤとサマリヤの教会は、初めが似ていただけでなく、やがて堅実に建てられて行った点も同じなのである。すなわち、初期には奇跡に圧倒されて信じた人も、御言葉に聞き続けたので、御言葉によって教会が建てられたのである。そして、ユダヤ、ガリラヤ、サマリヤの三つの地方が一つに纏められていることは、キリスト教会の新しい、将来に亘るパレスチナ教会の形成であるとともに、旧き時代に北王国とともに滅んだとされる、イスラエルの氏族の回復の意味を籠めて、サマリヤの回復を説いたものである。
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