ここまで見て来た使徒行伝の場面は、どれも長い記事であった。ところが、8章1節後半から3節までは、短い文章を詰め込んだ箇所である。迫害の事実が始まっていて、この短い箇所に書かれたのは、全て迫害に関する記事である。したがって、迫害に関連する記録三つがここに集められたと見られるが、その記録は全て断片であって、ことの成り行きが分かるようには書かれていない。
さて、今日は先ず、「その日、エルサレムの教会に対して大迫害が起こり、使徒以外の者は悉く、ユダヤとサマリヤの地方に散らされて行った」というくだりを読む。
これは「断片」であると言った。続きの記録が引きちぎられたのである。その続きのことまで考え併せないと、事実は捉え切れない。
「その日」というのはステパノの死んだ当日ということであろう。が、一日だけでなく、しばらくの期間続いたと思われる。その迫害を実行したのは、大祭司との関係はあったが、実行犯としてはパウロだけしか分かっていない。だが、彼一人が実行したのかどうか、それ以上のことは分からない。
「大迫害」と言われている事件について、よく分からない。ステパノの裁判と処刑についても、長い記事ではあるが、分からない点が多いことについては既に触れた。だが、1節後半には分からない点がもっと多い。
ここだけ読んで、エルサレムの教会が、使徒12人だけを残して、壊滅したと考えては誤解であろう。使徒のほかに弟子たちが幾らか踏みとどまったのである。9章26節には、「サウロはエルサレムに着いて、弟子たちの仲間に加わろうと努めたが、みんなの者は彼を弟子とは信じないで、恐れていた」と書かれている。その時にはサウロの迫害を経験した者が多く戻って来ていたからであろう。とにかく、エルサレム教会が消え失せたのではない。
1節の「散らされた」というのは、4節以下で読むように、新しい伝道をユダヤとサマリヤにおいて行なうという一面を持ったことであり、また、散らされたうちの幾らかはエルサレムに戻ったという続きがある。
エルサレム市内では、神殿において、また市内の諸会堂における伝道が行なわれていたが、エルサレムの外にまで活動を広げることはなかったようである。市内だけで手が一杯という感じであったと思われるが、そう思われただけであって、実は、門戸が開かれているのに見ようとしなかっただけである。
使徒たち以外の人が散らされたのであって、使徒たちも散らされたというのではなかった。使徒たちが一緒であったなら、また別のことが起こったであろう。というのは、三つの福音書に書かれているように、主イエスは12弟子を全国伝道に遣わし、神の国は来た、と宣言させたもうた。そのことを覚えているので、使徒たちは散らされた人たちを組織して、2人ずつ組にして、伝道を展開したであろう。しかし、今回は使徒の指示によったのではないらしい。ごく自然に、というよりは御霊の示すままに、彼らは行く先々で伝道した。
主が12人を派遣された時には、「異邦人の道に行くな。またサマリヤ人の町に入るな。むしろ、イスラエルの家の失なわれた羊の所に行け」と命じられた。このことにこだわると、話しが面倒になるから、簡単に見なければならないが、主は12人を派遣することによって、約束の時は満ちたということを、一斉に、全国に届かせようとされたのである。
そこでは「地の果てまで」ということは考えなくて良かった。したがって、異邦人伝道、サマリヤ伝道は別にして置かれた。そういうことがあったため、サマリヤ伝道はまだその時ではない、という考えが、使徒にも、その他のキリスト者にもあったかも知れない。だが、制限がなくなっているということは何となく感じていた。すなわち、復活の主は、1章8節で、「聖霊があなた方に下る時、あなた方は力を受けて、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、さらに地の果てまで私の証人となるであろう」と言われた。そして、聖霊は下った。だから、サマリヤに出て行くのは、むしろ当然であった。にもかかわらず、その時が来ていると主張する人はいなかったらしい。
では、何がキッカケでそれが分かったのか。これは我々が既に気付いていることであるが、ステパノの殉教を合図の号砲のように始まった迫害である。散らされて、逃げていって、行った先で、こここそがキリストの証しを立てる場所だと悟ったのである。
さらに、11章19-21節を見なければならない。「さて、ステパノのことで起こった迫害のために散らされた人々は。ピニケ、クプロ、アンテオケまでも進んで行ったが、ユダヤ人以外の者には、誰にも御言葉を語っていなかった。ところが、その中に数人のクプロ人とクレネ人がいて、アンテオケに行ってから、ギリシャ人にも呼び掛け、主イエスを宣べ伝えていた。そして、主の御手が彼らと共にあったため、信じて主に帰依する者の数が多かった」。
この箇所については改めて詳しく学ぶ機会があると思う。とにかく、「散らされた」ということの結果は、思い掛けぬ大きい祝福であった。
主が1章8節で言われたのは、エルサレム、ユダヤ、サマリヤ、そして地の果てであった。エルサレムのキリスト者が散らされた先は、ユダヤとサマリヤ止まりであった。ここから疑問が起こるかも知れない。サマリヤの隣りであって、使徒たちにも、主イエスにも関係の深いガリラヤはどうなのか。
エルサレムとユダ、そしてサマリヤは政治支配としては同一であったが、ガリラヤはヘロデの支配であったから、散らされた人が入って行くのは簡単ではなかった、と説明する人もいるようである。そうであろうか。
確かに、使徒行伝でここまでにはガリラヤ伝道に触れることはなく、そのことは福音書と一貫したものとして使徒行伝を読む者にとって、気になることであった。しかし、9章31節にあるように「こうして教会は、ユダヤ、ガリラヤ、サマリヤ全地方に亘って、平安を保ち、基礎が固まり、主を恐れ、聖霊に励まされて歩み、次第に信徒の数を増して行った」と書かれている。
使徒行伝にはガリラヤ伝道に着手したという記事はないが、ガリラヤ伝道は実際になされていた。誰がしたのか……。主イエスがなさったのである。主はエルサレムを軽んじておられた訳ではないが、より多くの時間を、ガリラヤの町々の伝道につぎ込んでおられた。だから、何時と特定することは我々の知力では困難であるが、早い時期、教会が町々にあって宣教活動をしていた。そういうわけで、復活の主がガリラヤで会うと言われたのである。
使徒以外の者は悉く散らされたということについては、先にも触れたし、散らされて教会が壊滅したというような情景を捉えるならば、全くの間違いである。使徒以外、全部いなくなったと見る必要もない。例えば、後で見るステパノの葬りに関与した人たち、彼らは後で逃げたかも知れないが、葬りの務めをことごとく終えるまではエルサレムを去らなかった。
使徒たちが踏みと止まったのは何ゆえか。それは、彼らが群れの牧者としての務めを自覚していたからに違いない。真の羊飼いは羊を捨てて逃げることはない。これはイエス・キリストがヨハネ伝10章で、良き羊飼いの譬えを用いて教えておられたことと合致する。
では、使徒たちは危険に身を曝しながら、教会を守ったのか。そのように理解して良いと思うが、使徒たちが危ない目に遭ったという事実があったかどうかは別問題だと思う。
迫害はキリスト者全体でなく、その中で、ある傾向があると疑われていた人たちに集中したのではないかとも考えられている。ステパノも、実際に冒涜的な言葉を吐いたからではなく、そのように疑われたからであったと我々は思う。6章11節13節によると、そう疑われ、悪意による偽証をされ、その偽証を検討もせずに、判決のない処刑を行なったのだと見るほかない。そのような誤解に過ぎぬ傾向ではあるが、ある人たちに迫害が集中した。
使徒たちは、信仰の傾向がステパノと別であったと言うことは出来ないと我々は思う。が、使徒の中で特に顔を知られていたペテロとヨハネは、敬虔なユダヤ人に劣らずユダヤ教の慣例を守っていた。そういう人まで迫害されたと見ることは出来なくない。しかし、この時の迫害はステパノの傾向の者に対する一過性のものであるから、人を選ばず誰も彼も殺すというものではなかったのではないか。
2節に移るが、ここにはステパノの葬りの次第が書かれる。「信仰深い人たちはステパノを葬り、彼のために胸を打って、非常に悲しんだ」。――信仰深い人たちであるから、追及を受けなかったのかも知れない。ここには「葬り」と「悲しんだこと」が記される。
先にステパノの死の場面を学んだ時、彼が「眠りについた」と記されていることに留意した。「主にあって眠る者は幸いなり」と教会の中で言われることが間もなく定着する。これは主イエスがカペナウムのヤイロの家で12歳の娘が死んだ時、またベタニヤのラザロが死んだ時、死ではない、眠ったのだ、と言われたことから起こったキリスト教の風習である。
ヤイロの娘の死の時は、「泣くな」と言われたが、泣くことを総じて禁止したもうたのではない。特にヤイロの娘の場合、単なる弔いの儀礼として、泣き女と言われる人々が雇われて来て泣いているのを見て、その空しい業を止めさせたもうたという意味が入っていると思われる。
確かに、「眠り」と言う場合、死は勝利に呑まれたのであって、復活は来ている。ただし、死者が直ちに甦るわけではない。その日が来るまでは待たなければならない。したがって、離別の悲しみはある。その悲しみを耐え難く覚える人もいるであろう。そういう人たちが悲しむのを、不信仰であると断罪する必要はない。これ見よがしに泣いて見せ、自分がどんなにこの人を愛していたかを見せびらかそうとするのは空しい偽善であるが、「悲しむ者と共に悲しむ」こと、悲しむ人の悲しみに同情して溺れてしまうのでない、深い悲しみはある。「彼のために胸を打って非常に悲しんだ」とはそういうことである。
信仰深い人たちがステパノを「葬った」とは、どのようなことであろうか。死体は血まみれになっており、また石で砕かれていたので、目も当てられない有様であった。神によって創造された人を、目も当てられない悲惨なさまで打ち捨てて置くのは、当人はもう死んでしまったのだから、「人間に対する侮辱」と言うのは無理かも知れないが、造り主の御業を侮辱することだと言えるのではないか。その死体を綺麗に洗って、棺に納め、先祖の墓に入れたということであろう。主イエスの死の場合も、アリマタヤのヨセフと、パリサイ派のニコデモが葬ったと言われている。
罪を犯したゆえに殺された刑死人の場合、その人を尊厳なものとして扱うことには問題があると言われたかも知れない。これを葬ることは一般の人々の憚るところではあったが、禁止はされていなかったらしい。公共の課題として、誰かが葬りをしなければならない。木に架けて殺された人の死体を、翌日までそのままにしてはならない、と神の律法は命じていたのである。敬虔な人なら、世間からどう見られようと、人間としての義務を果たすために葬ったのである。死体を放置することは、それが葬りの儀礼である場合はとにかく、人間としてなすべきことではない。ステパノを葬った人たちは非常に嘆いたが、殉教した聖者として崇めたようには思われない。
次に、「サウロは家々に押し入って、男や女を引きずり出し、次々に獄に渡して、教会を荒し回った」。
この実情がどうであったかを説明するのは非常に難しい。エルサレムにおける迫害の実情がここに書かれているだけでは分からない。しかし、22章を見ると、彼が後にキリスト者になり、使徒となり、彼自身が迫害を受け、裁判を受けた時の議会における陳述を読むことが出来る。4節で言う、「私はこの道を迫害し、男であれ女であれ、縛り上げて獄に投じ、彼らを死に至らせた。このことは、大祭司も長老たち一同も、証明するところである」。
この言葉は8章3節のことばと基本的には共通している。だから、8章3節はパウロに由来する言葉であって、この言葉の信憑性については大祭司や長老が証言してくれると信じることが出来る。
さらに、9章に入ると直ちにパウロの回心の事実が語られるのであるが、「私は大祭司のところに行って、ダマスコの諸会堂宛の添書を求めた。それは、この道の者を見つけ次第、男女の別なく縛り上げて、エルサレムに引っ張って来るためであった」と言う。これも同様の言い方で、パウロ自身の口から出たものであると確認する他ない。
大祭司の添書を持って行ったとは、ダマスコにおける異端の疑いのある者を、裁判に掛けるために逮捕してエルサレムに連れて行く、その手続きをとったという意味である。裁判なしでキリスト者を虐待してはならない。それは律法違反である。しかし、裁判に掛けるまでは獄に繋いで置く。それがすでに刑罰である。その間、逮捕した役人や獄の番人が縛られた者に対して暴力を振るうことは通例であったと思われる。
パウロがダマスコでしようとしていたことは、すでにエルサレムで行なっていたことである。家に押し入って男女を逮捕することは、パウロが個人的判断で、熱心さに駆られて手ずからしたものでなく、大祭司の管轄下で、その諒解を得て、大祭司のもとにある役人を貸し与えられて、あるいは託されて、これを指揮して実行したということである。
この裁判で有罪と判決され、石打ちの刑に処せられた人がどれほどの数いたかについては、全く分からない。けれども、パウロ本人の言うことを受け入れるほかないのではないか。
それでは、パウロが何故そこまで荒れ狂ったのか。彼は故郷の町ではギリシャの学問を学び、エルサレムに来てからパリサイ派の神学を学んだ。その学びから、このような狂気が育つのか。――我々の知っている論法を用いて、この経過を説明することは殆ど出来ないのではないかと思う。だから、書かれているままを受け入れる他ないのではないか。そして、主の直接の働きかけによってパウロが180度の転換をしたように、その転換の前に、彼はサタンの直接の支配に服していたと言うべきではないだろうか。サタンの直接介入によって、このような狂気的残忍が生じた。しかし、主はここに介入して、悪魔に打ち勝ちたもうたのである。
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