2006.04.23.

 

使徒行伝講解説教 第52

 

――754-8:1によって――

 

 

 ステパノの裁判の終わりの部分については、分からないことが沢山ある。群衆が激昂してステパノを連れ出し、石で撃ち殺したと書かれているが、裁判は中断されたことになろう。そういうことが出来たのであろうか。すぐ思い起こされるのは、主イエス・キリストの受難の場合であるが、とにもかくにも裁判をして、法に基づいて処刑した。その法もユダヤの法と、ローマの法とに遵ったものである。ユダヤの法だけで、死刑を執行することは出来なかった。
 ヨハネ伝1831節によると、ピラトはユダヤの長老たちに「あなた方は彼を引き取って、自分たちの律法で裁くが良い」と言った。それに対してユダヤ人は「私たちには人を死刑にする権限がありません」と答えている。実情はその通りであった。つまり、ユダヤ人はローマの支配のもとで、自治機能を認められていたが、完全な自治にはほど遠かった。
 ピラトとしてはこの裁判に関わりたくなかった。これはユダヤ国内での宗教的意見の相克から起こった裁判で、ローマの世俗的な法には馴染まない。ピラトから見て、ナザレのイエスは犯罪人とは思われない。しかし、ユダヤ人に「あなた方の律法によって裁けば良いではないか」と言ったところ、それは出来ない、とユダヤ人たちは言ったのである。二つの法律が絡み合って、それで真理が明らかになったとは言えないのであるが、ピラトの側から見たほうが、キリストの無罪が良く見えるという面もあった。
 ユダヤ、エルサレム、ガリラヤを通じて大きい感化を与えたナザレのイエスのような重要人物であるから、総督ピラトが裁いたということではない。それが誰であれ、一人の人を死刑にする裁判は、軽々しく行なわれてはならなかった。だから、ステパノもキチンとした裁判を受け、ローマの法律にも合致した手続きを経て処刑されねばならなかった筈である。ところが、ステパノの弁論がまだ終わっていないのに、人々は彼を外に引き出して、殺した。そんな事実があったとは思われない、と言うことは出来ても、事実はあった。
 ステパノの裁判は途中で混乱して、中断されたようであるが、本当は終わりまで一応行なわれ、判決が下り、それから刑が執行されたのではないか。裁判のその部分の記録が失なわれたのだと考える人は少なくない。ステパノ裁判の初めの部分についての使徒行伝の記録、すなわち611節から72節までの記事は、正規の裁判が行なわれていたさまを描いたものと思われる。そして、81節の「サウロはステパノを殺すことに賛成していた」という言葉は、これはこれで意味は分かるが、もっと長い言葉の1断片と考えた方が良いと主張する人もいる。当たっているかも知れない。これはサウロの判断であって、彼は暴徒と化して衝動的に振る舞ったのではなく、裁判が行なわれたことの資料の断片が残ったことを示すと言っているように取ることも出来そうである。
 その裁判の後の部分が何故こうなったか、また、ローマの総督の批准を受けなくて良かった理由について、我々は説明に窮する。いろいろ説明は試みられているが、十分納得の行く説明はない。それでも、ステパノが使徒行伝に記されたような経過で殺されたことは事実である。
 ユダヤ社会が無法状態に陥って、裁判も出来なくなり、それと連携して、ステパノに対するリンチと、キリスト教迫害が起こったのだと見ることは出来るかも知れない。実際、イエス・キリストを十字架に架けて殺したユダヤ社会が、ドンドン崩壊して行ったと言うことは出来る。ただし、それを万人が納得するように証明するだけの材料は十分でない。
 では、どういうことになるのか。ステパノの裁判については、彼を殺すことになった結論は分かるが、経過は分からない、と言うほかないのではないか。だから、彼の裁判についていろいろ調べたり論じたりすることは、手間ばかり掛かって得るところはない。それよりも、彼の死だけを見ることにしたい。
 54節、「人々はこれを聞いて、心の底から激しく怒り、ステパノに向かって歯ぎしりをした」。人々のこの怒りについては、説明を加えなくても良い。ステパノの弁論は、まだ結論に達していないのだが、51節以降はあらわな対決姿勢を取って、ユダヤ人に対する非難になっている。だから、ユダヤ人たちは血相を変えてステパノに迫って来た。しかも、次のステパノの姿勢と言葉が、人々をさらに怒らせる。
 「しかし、彼は聖霊に満たされて、天を見詰めていると、神の栄光が現れ、イエスが神の右に立っておられるのが見えた。そこで、彼は『ああ、天が開けて、人の子が神の右に立っておいでになるのが見える』と言った」。
 ステパノについて、68節には「恵みと力とに満ちて、目覚ましい奇跡と徴しとを行なっていた」と書かれている。また、それに続いて「リベルテンの会堂に属する人々、クレネ人、アレクサンドリヤ人、キリキヤ人やアジヤから人々などが立って、ステパノと議論したが、彼が知恵と御霊とで語っていたので、それに対抗できなかった」とも書かれていた。
 貧しい寡婦の食卓の世話をする7人の筆頭に立てられたが、彼はまた使徒たちを凌駕したかも知れないほどの力ある伝道者であった。ユダヤの伝統とヘレニズム世界に跨る学識がある。律法学者としての訓練も受けていたのではないかと思われる。しかも、奇跡を行なうことが出来た。さらに、知恵と御霊とによって語る人であった。知恵だけなら対抗出来るが、御霊によって語るから、いろいろな学派の律法学者にとって、太刀打ちできない相手であった。彼は言葉の人であるだけでなく、霊の人でもあった。ユダヤ人はこういう人物が出現すると対応に困惑するのである。伝統的な規範で判別することが困難である。そこで何か難癖をつけることが出来る点を見つけ出して、葬り去ろうとするのが常套手段である。今回も結局はそうした。
 その彼が聖霊に満たされて、天を見詰めていると、神の栄光が現われ、イエスが神の右に立っておられるのが見えた。これまで、こういうことがあったかどうかは分からない。ステパノは「神を見る人」であった。神はその栄光を滅多に人々には現わしたまわない。神を見るのは特別な人だけである。主イエスはマタイ伝58節で言われた。「幸いなるかな、心の清き者、その人は神を見るであろう」。ステパノはそのような人であった。
 神を見るとは、聖書ではそう何度も説かれているものではない。しかし、汚れた者には禁じられていることであるが、窮極の潔めに与った人には許される。こういうことが聖化の道を登り詰めた者に最終段階で示される、ということを強調する必要はない。こういう問題に触れるのは危険でさえある。しかし、主イエスが「その人は神を見る」と言われたことは、無駄ではない。
 キリスト教会の時代に入って、殉教者の伝記が尊重され、沢山書かれるようになるが、殉教者が殉教する前に神を見たという記事がよく書かれる。こういうことを取り立てて論じることは、益にならないから避けて置きたいことだが、ステパノの死の直前の姿がこのようなものとして捉えられたことは確かである。殉教者崇拝の勧めではないが、彼らは潔らかな者として死んで行った。
 ところで、ステパノにはイエス・キリストが神の右に立っておられるのが見えた、と書かれている。イエス・キリスト御自身「人の子は力ある者の右に座し……」という言い方をされたことは福音書によって広く知られている。「人の子」という呼び方は、56節には用いられるが、55節では使われていない。主イエスは地上にいたもう日によくご自分を指して用いたもうた呼び方である。そして「神の右」というのは、父なる神からキリストに支配の全権が渡されたことを象徴する位置である。
 ただし、「神の右」はつねに「座したもう」位置として語られる。「座する」とは支配を象徴する姿勢である。ところが、ステパノに示されたのは、55節でも56節でも、人の子が「立っておられる」姿である。
 それは「神の右に座する」というキリストの位置を表わす表現が、初期のキリスト教会ではまだ定着していなかったからであろうか。そうでないことは確かである。「私の右に座せよ」という言葉は、詩篇1101節に由来するものであって、初めから決まった言い方である。ステパノもそれは知っている。だから、座したもうキリストを見たのでなく、座したところから立ち上がられたのを見たということではないか、と多くの人は考える。
 つまり、ステパノの最期の時が近付き、彼が「主よ私の霊をお受け下さい」と言おうとしているのに先立って、主が立ち上がられたのである。あるいはステパノを出迎えるために立ち上がられたと取っても良い。ステパノにとっては神の御座のもとに、またキリストの懐に、受け入れられること、言葉を換えて言えば神との和解の完成が来たのである。
 「天が開けた」とは、閉ざされていた天が開かれたことを言う。神のみもとに入ることが憧れであっても、天は閉ざされ、人は入ることも見ることも出来ない。それが今開かれたのである。
 「人々は大声で叫びながら、耳を覆い、ステパノを目がけて、いっせいに殺到し、彼を市外に引き出して、石で打った」。
 ステパノが「私は神を見た」、また「キリストを見た」と言ったことが冒涜の極まりであると人々は受け取ったのである。神を見た者は死ぬ、と昔から一般に考えられていた。だから、神を見たと高言するのは身の程知らずであると思われた。さらに刑死人として殺されたナザレのイエスを、神と同列に立てていることも、許されぬ冒涜と思われた。
 そこで、彼らの暴力が爆発する。神を冒涜する者は石打ちの刑に処さねばならない。律法にそう書かれているから、それを守ると言うのであるが、隣人を愛するという戒めはここでは忘れられてしまった。石で撃ち殺すのは神を汚す者を地から断つことである。そういう者に対して憐れみを掛けることは禁じられているという言い分で、隣り人への義務が免除されると言うことが出来るのか。
 石打ちの刑を行なう場所がエルサレム市外に設けられていたかどうかは知らない。十字架刑の行なわれる場所としてはゴルゴタがあった。
 石打ちというのは、かなり大きい石を、投げるのでなく、上から落下させて撃ち殺すものであったらしい。大体、1人の人が2個、上から投げ落とせば、死んだようである。それでまだ死ななければ、証人として立てられた者が追加の石を落とす。それでもまだ生きておればみんなで石を落とす、という定めであった。
 「これに立ち会った人たちは、自分の上着を脱いで、サウロという若者の足元に置いた」。
 「立ち会った人」というのは「証し人」という言葉である。彼らは悪が断たれたことを見届けるのである。彼らは刑の執行人ではない。社会の有害物を取り除く公人というふうに見られたのでもない。
 石打ちの刑についての規定によれば、刑を受ける者は裸にされる。石を投げる者が上着を脱ぐ規定はなかったようである。ここでサウロという若者の足元に上着を置いたということがどういう意味を持つのか。よく分からない。サウロが刑執行の現場責任者であったと見るのは困難であろう。若者という言い方は、恐らく未婚の男性を意味する。これに携わる者の代表者であったとは考えられない。
 むしろ、サウロ、後のパウロにとって、一生付き纏う不名誉を軽減するため、彼がまだ若者であったことを記して置きたいという配慮があったのではないかと考えられるのである。
 大事なところは5960節である。「こうして、彼らがステパノに石を投げ続けている間、ステパノは祈り続けて言った、『主イエスよ、私の霊をお受け下さい』。そして、跪いて、大声で叫んだ、『主よ、どうぞ、この罪を彼らに負わせないで下さい』。こう言って、彼は眠りに就いた」。
 ステパノの祈った言葉は二つである。この二つの言葉から我々が直ちに思い起こすのは、主イエス・キリストが十字架の上で語りたもうた二つの言葉である。一つは、ルカ伝2334節、「父よ、彼らをお赦し下さい。彼らは何をしているのか分からずにいるのです」。もう一つは、ルカ2346節、「父よ、私の霊を御手に委ねます」。
 この二つの言葉の解き明かしの必要はないと思う。主イエスの御言葉を理解する必要がないのではないが、解き明かしをするまでもなく、我々には分かっているし、ここで大事なのは我々も同じ言葉を唱えることである。
 主イエスが十字架の上で語りたもうた言葉と、ステパノが石で撃ち殺される時に唱えた言葉は同じなのである。ということは、期せずして一致したという意味ではなく、ステパノが主イエスに追いつこうと努力して追いついたということでもなく、ステパノが主に倣ったということである。主が言われたようにステパノも唱えた。
 ステパノが語ったことと、主が語られたこととが内容的に同じだと見ることは出来ない。神の子が父に向けて語られたのと、ステパノが主に向けて語ったのとを混同しないで置きたい。しかし、とにかく、ステパノは主の語られた言葉を真似して語った。それは正しい。我々もステパノに倣おう。
 ステパノが主イエスの御あとにしたがって殉教の死を遂げたように、我々も殉教者にならなければならない、ということでは必ずしもない。殉教者にならなければならない機会があるかも知れないが、その機会は来ないかも知れない。しかし、来ても来なくても、我々は地上を去る時に、「主イエスよ、私の霊をお受け下さい」と言うことが出来る。これを語ることの出来る幸いを感謝をもって覚えて置こう。
 そして、もう一つの言葉。これは生涯の終わりに発する言葉ではない。これはむしろ毎日唱えるべきである。すなわち、「我らに罪を犯す者を我らが赦すごとく、我らの罪をも赦したまえ」と祈るのである。
 最後に、ステパノが「眠りについた」ことに短く触れて置く。これまで教会で死人があった例としては、アナニヤとサッピラの突然死があった。この場合は死者以外の何者でもないものとして処理された。だが、ステパノは死者ではなく、眠った者として扱われたのである。
 キリストが来られたことは、死に対する勝利である。これはヤイロの娘の死に際して明らかにされたものである。主は「娘は死んだのではない。眠ったのだ」と言われた。キリストにあって死ぬ者は、死んだのでなく眠ったのであり、それ故に生きる。主の復活の後、この原理がキリスト者に確認された。それの最初に適用されたのはステパノである。


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