2006.03.12.

 

使徒行伝講解説教 第50

 

――744-48によって――

 

 

「荒野の教会にいて、生ける御言葉を聞く」というテーマが、先に38節で語られた。この「荒野の教会」、また、そこで語られる「生ける言葉」は、ステパノの語ろうとする重要な言葉であって、モーセ理解の鍵となるべき言葉だったことに我々は留意させられた。ところが、この点について、先祖たちのモーセに対する反逆が本格化したということにも、我々は直ちに気づかせられた。この反逆は時を経るにつれていよいよ明確に、かつ露骨になって行く。
 ステパノがこの議論をもう少し進めた時、すでにだんだん昂じて来ていた人々の憤激は爆発点に達する。ステパノの説教が終わっていないのに、人々はもうこれ以上聞く必要はないと決意したかのように、彼に向けて殺到して、裁判も開かずに殺してしまう。率直に言って、彼らの激昂ぶりは我々に理解出来ない。律法に教えられて来た民なら、もう少しはマトモなはずだと思うのである。
 さらに、81節で、「サウロはステパノを殺すことに賛成していた」と書かれていることについても納得が行かない。これは人々が判断力を失って、怒りに駆られて反対意見の者を殺してしまった、という無意味な出来事ではないか。サウロともあろう学者がどうして民衆と同じ狂気に陥ったのか。――パウロは伝道者となってのち、自分は神の教会を迫害したのだから、最も罪の深い者だという意味のことを言うが、この犯罪を生涯痛み入っていたことが分かる。
 たしかに、彼らは狂気に駆られて罪なき人の血を流すという、律法によって禁じられていたことをした。だが、これは主イエスが十字架の上で、「父よ、彼らをお赦し下さい。彼らは何をしているのか、分からずにいるのです」と言われた言葉の光りに照らせば、解明できる事情である。確かに、この御言葉を引いて来なければ、不条理の勝利の前で道理は屈服しなければならない。しかし、キリストのこのお言葉は勝利者の言葉であるから、我々も勝利に与る者となる。――その言葉と同じとは言えないが、ステパノが言っている言葉、「主よ、どうぞ、この罪を彼らに負わせないで下さい」は、主イエスのゴルゴタの言葉と十分符合する。ステパノもまた勝利者となった。
 事情の説明としては、それで決着が付いていると見てよかろう。だが、我々自身がこの時のユダヤ人の過ちの真似をすることがないためには、もっと詳しく状況を調べて置く必要がある。すなわち、自分は熱心なユダヤ教徒である思っていた人が、すべきこともせず、すべからざることをした。同じことが我々に起こらないように、キチンと学ばなければならない。ステパノとユダヤ人との食い違いが大きくなって行ったところを詳しく見るべきであろう。
 先に38節で、モーセがシナイ山で「生ける御言葉を授かり、それをあなた方に伝えた」ということを聞いたが、この先祖たちは結局モーセに従わなかった。それがどういう意味の不従順であったかも見なければならない。彼らは神の律法を受けたことは受けたのである。それを無視する人も多いが、それではいけないという判断が国民的な合意事項であった。だから、ユダヤ人は「律法の民」であったと言える。この「律法」と、「生ける御言葉」とが同じ物として捉えられていたならば、問題はなかった。モーセが荒野における教会で「生ける御言葉を授かって、それを伝えた」といわれている「生ける御言葉」は、律法の戒めだけではなく、神の告げたもう全ての言葉に拡大すべきであるが、荒野における御言葉としては、特に律法があった。しかし、彼らにとって、律法の言葉は「生ける言葉」として聞いたのではなかった。だから、機械的に律法に従うことはあったとしても、本当の意味の服従にはならない。
 少し余計な話しと思われるかも知れないが、我々の間で、神の律法は機械的には守られるとしても、消極的な服従に留まり、律法よりは福音が大切なのだという理論で、律法を誠実に聞き続けることをお座なりにしてしまう場合がある。そのため、単純な順守でありながら、一向に身に付かないということが起こっている。
 いや、福音を聞くということについても、生ける御言葉としての福音ではなく、福音と言われているオハナシに過ぎないことがあるのではないか。それでは、聞いても生きない。
 次に、「証しの幕屋」の理解においても、モーセとイスラエルの人々の間には食い違いがあった。「証しの幕屋」は44節で言われるように、山で見たままの型に従って造るよう命じられて造ったものである。だから何も問題はない。そう我々も受け取っていた。実は、ここに問題があったのだと指摘する人がある。幕屋についてのステパノの理解はその観点から見た方が正確かも知れない。そう言われてまごつく人もあろう。
 幕屋が造られた次の段階では、ソロモンによる神殿の造営が行なわれる。この時、神殿造営をしたソロモン自身が「いと高き神は手で造った家の中にお住みにならない」と確認した。これは正しい認識であった。石や木材を用いて人の手で造られたエルサレム神殿では、このことがさらに明瞭になったのではあるが、荒野の幕屋も人の手で造ったものである。人々は糸を紡いで機を織り、各種の生地を織って、それを縫う。アカシヤやジュゴンの皮も集める。そのように、人の手で集め細工しなければ幕屋は出来ない。
 そして、出エジプト記258節にこう記されている。「彼らに私のために聖所を造らせなさい。私が彼らのうちに住むためである」と神はハッキリ言われた。それで幕屋は神の住むところとして造られたことは確定的だと思われたのではないか。
 実は、ここで「神は手で造った家の内にはお住まいにならない」という大原則を確認しておかなければならない。この大原則は後の預言者時代に確立したものであるから、大原則ではあっても、ここには適用されなかった、というようなことを言っても意味はない。もともとこのことがハッキリしていなければ、神殿を建てることは偶像を刻むことと同じになってしまうであろう。
 少し視点を変えて論じて見ると、エルサレムの宮は後年、エレミヤの時代にバビロン軍によって破壊された。ステパノの死後にもローマ軍によって再度破壊された。ということは、その宮がなくなれば、宮に住むと言われた神も、住むところを失った住所不定の存在になったということであろうか。引いては、その神を信ずる人がいなくなれば、神も消滅したのか。そういうことでは決してない。
 ここは、キチンと考えて見れば明らかである。すなわち、神が「この通りに造れ」と言われたのは、山の上で見られた天上の家である。それは天上にこそある。地上に降ろして据え付けるわけには行かない。「この通り」とは同じ物を造ることではない。天上の物を模した地上的な物を造るに過ぎない。
 エルサレム神殿は、神の建築許可が出る時まで続いた「証しの幕屋」を模して造ったものである。その証しの幕屋は荒野にいた時に持っていた幕屋を引き継いだものである。それを造り直した記録はないが、布で造った幕屋は年を経ればボロボロになるから、何年かすれば、前の物とソックリ同じ物を造ったことは確かである。人々はそういう物を造る技術を持っていた。大きさ、形、材料を少しも変えないよう、最大の努力をしたに違いない。天上においてこそ実在であって、地上にあるものは神の住まいそのものではなく、それの象徴に過ぎない。
 では、なぜ、間違いやすい象徴を神は用いたもうたのか。神が民とともに住みたもうことを、信じる者らが確認する「徴し」が必要だったからである。イエス・キリストの来臨は、神そのものがともにいたもうこと、インマヌエルの事実そのものであった。キリストは世に来られて以来、このことを頻りに語られた。しかし、人々は神が人とともに住むことを神殿という象徴によって表わす古いしきたりに固執し、抜けだそうとしない。ナザレのイエスを人々が裁いた時の罪状の最大確認事は、御自身が神殿を破壊すると発言されたかどうかであったことを我々は知っている。
 「私たちの先祖には、荒野に証しの幕屋があった。それは見たままの型にしたがって造るようにと、モーセに語った方のご命令どおりに造ったものである」。
 この幕屋をステパノは「証しの幕屋」と呼ぶが、出エジプト記3821節に出ている呼び名である。「証し」というのは神御自身の証し、また契約としての律法のことである。律法がここに保管されているという意味である。
 証しの幕屋は旧約聖書では出エジプト記2721節その他にもっと頻繁な呼び名として「会見の幕屋」と言われる。神はこの幕屋の中の贖罪所と呼ばれるところにおいて民と「出会う」と約束されたからである。呼び方は違うが、同じものである。証しの幕屋と呼ばれるのは、神がそこで御自身を証しされるからであるが、ではなぜ証しになるのか。何をもって証しされるのか。神が御自身をもって証ししたもうのである。神が人とともに在すこと、そしてこの幕屋の中心には「贖罪所」が置かれていたが、ともにいたもう神は「贖罪」をなしたもうお方であることを告げておられた。
 「私たちの先祖には、荒野に証しの幕屋があった」と言われ、続いてこれが山の上で見たように、その通り正確に造れと命じられて造った、と書かれるために、神の命令に忠実に従ったもの、と取られることが多いと思う。だが、忠実に従っているという面はあるとしても、もう一つ、生ける御言葉に聞かない、これに従わないという不従順を引きずっているというところを見なければならない。それでないと、3839の繋がりが44節では読み落とされてしまう。
 つまり、証しの幕屋を持ちながら荒野を彷徨していた時代はイスラエルの信仰は正しかったが、カナンの地に入ってからは駄目になった、というふうに考えてはならない。これは象徴に過ぎないのであって、イエス・キリストの来たりたもう時に全て明らかになる事実を見ていなければならないという意味を読み落とすべきではなかった。
 幕屋については、どう造るかだけでなく、これを移動させる時の運搬の規定がある。宮は固定した建物であるのに対し、幕屋は移動する。移動の実例については分からぬことが多いが、確かに、長い間、宮はなくて幕屋しかなかった。そして、幕屋の場所は移っているので、移動があったことは確かであろう。
 幕屋はそのように手軽に動くので、さすらう信仰者の礼拝所として神殿よりも適切ではないかと考えられることがある。信仰の父祖たちは約束の地にいても土地を所有せず、定住せず、家に住まず、幕屋に住んだ。日本語聖書で「仮庵の祭り」と呼ばれるその仮庵は、幕屋のことである。幕屋に住んでいた時代の精神に立ち返ろうとした祭りである。だが、その祭りがあるから家より幕屋の方が信仰的だというのはおかしい。
 45節に移るが、「この幕屋は、私たちの先祖がヨシュアに率いられ、神によって諸民族を彼らの前から追い払い、その所領を乗り取った時に、そこに持ち込まれ、次々に受け継がれ、ダビデの時代に及んだのである」と書かれる。これはモーセの後継者ヨシュアに率いられたイスラエルが荒野を離れて、約束の地に入っても受け継いで来た信仰であると理解されることが多い。しかし、ステパノの理解では、すでにその時、モーセを通じて導きたもうた生ける神、生ける言葉を語りたもう神への背反という面があることを含みとして持っている。これを我々は心得て置かなければならないのである。
 この時代、人々は戦争に出る時、神の幕屋の中心に置かれる神の箱、証しの箱、契約の箱、律法を納めた箱を担いで戦場に出た。神がともに在して勝利を得させたもうという信念を表明するためには意味があったかも知れない。しかし、当時でもやはりおかしな風習であったと言うべきだ。預言者エリの末期、ペリシテ人が襲って来て、イスラエルは戦いに敗れ、およそ4000人が殺された時、矢張り神の箱と共に出陣して、勝利を挽回しようとした。しかし、さらに酷く敗北し、神の箱すら敵陣に奪い去られるという結果になったことがある。神が共にいて下さるということが御利益宗教になり、神の箱をかついて行くことが気休めのための一種のマジナイになってしまったのである。
 イエス・キリスト御自身もエルサレムの宮を人々が重要視し過ぎることをとがめておられたが、ステパノも同じ線である。これが主イエスの殺され、ステパノも真っ先に殺された理由であると思われる。イエス・キリストはエルサレムの宮の崩れる日は近いと予告しておられたが、ステパノもそうであったらしい。
 宮、神殿を建てたのはソロモンであるが、ダビデの遺志を実現したものである。このダビデについて一瞥して置きたい。ダビデの家は後にイスラエルの最高の名門になるが、初めはベツレヘムのエッサイの7人の息子の末子であった。人に抽んでる者になるとは誰も考えていなかった。それがイスラエルの王として立てられた。
 多才な人で音楽と詩に秀でていた。道徳的に立派であったかどうかは疑わしい。が、神を思う熱心は確かにあった。だから、自分が国内の統一をしとげて、立派な家に住むようになったのに、神の家は未だに幕屋である現状を心苦しく思い、神のために家を建てるべきではないかと発意し、預言者ナタンに相談すると、同意してくれた。しかし、その夜、ナタンのもとに神の言葉が臨み、ダビデの計画の差し止められる。神の家を建てるよりもっと大事なことがあると神は主張される。
 ダビデが宮を造営しようとして神の許可を得ようとして得られなかったことを、ステパノは重要事と見た。ダビデは後の時代にはユダヤでは殆ど理想の王のように一般には思われている。しかし、宮を造営する資格はないと断定された。神はハッキリ不適任と宣告された。理由は戦争によって多くの人を殺したからである。イスラエル国の国威を輝かせたということは、多くの他国人を殺したということである。ここには深い意味が籠っているが今は触れない。
 ただし、神はダビデを相手にされなかったのではなく、「お前が私の家を建てるのでなく、私がお前の家を建てる」との恵みの約束をされる。それはダビデ家、ダビデ王朝の約束であるが、ダビデの子たちが歴代の王になるというだけでなく、むしろ、ダビデの子として、まことの王メシヤが来られるとの約束である。
 ダビデが神の権威をも凌ぐような権威をもって神に仕えようとした訳でなく、それよりはズッと神を恐れ、人に対しても謙遜であったと思われるが、人として権威を持つ者から仕えられることを神は喜びたまわなかった。神は御自身の憐れみを受ける者をいとおしみたもう。人が神のために建てる家に喜んで宿りたもうのでなく、メシヤのために家を建てたもう。
 要するに神は立派な宮で讃美されることよりも、心へりくだって憐れみと正義を行なう者に仕えられることを喜びたもうのである。神のためにどれほど立派な家を建てるかよりも、神の遣わしたもうキリストに目が注がれることを求めたもう。それをユダヤ人が無視したことをステパノは論難しようとしたのである。


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