「それから彼らは、オリブという山を下ってエルサレムに帰った。この山はエルサレムに近く、安息日に許されている距離のところにある」。
弟子たちはオリブ山を去った。彼らにとって思い出多い地であるが、これから後この山のことは彼らの話題に上ることは殆どないであろう。ゼカリヤ書14章には終わりの日の預言が記され、最終の苦しみの日に万国の民が集合してエルサレムを攻め撃つようにされるが、残りの者は町から断たれることはないのだと約束される。預言はさらに続き「そして、その時、主は出て来て、それらの国民と戦われ、主の足はオリブ山の上に立ち、オリブ山は非常に広い一つの谷によって、東から西に二つに裂ける」と言われる。
エルサレムとオリブ山は、終末の日に主が来られる場所であると広く信じられた。そこで、旧約時代においても、肉体の甦りの信仰の影響で、資産を持っている人は、エルサレムに墓地を購入し、そこに葬られて終わりを待ち、終わりの日に人よりも早く主の来られるのに会おうとしたということである。
しかし、キリストの弟子たちは、そのように重要な場所であると思われていたオリブ山に執着することをせず、早々にそこを立ち去る。主の来臨がオリブ山だということを忘れたわけではないが、命じられていること、すなわち、「エルサレムから離れないで、かねて私から聞いていた父の約束を待て」との御言葉に従ったのである。今はエルサレムに戻って待つことが大切なのだと判断した。
キリストの昇天という段階は終わったのである。主の来られる段階の前に来る聖霊降臨の段階に進んだ。これは重要であるから、準備をしなければならない。その準備が始まったのである。
弟子たちの姿勢が以前と違って来ているように感じ取られる。キリストの復活に出会ってもまだ心細そうに見え、行くべき方向が掴め切れていなかった弟子たちは、主の昇天を見送って後、毅然とした姿勢を取るようになったと見るのは、思い過ごしではない。劇的な方向転換はないが、この辺りから、彼らの肚が据わったと読み取るべきであろう。
この変化を「弟子」から「使徒」への変化と言うことも出来よう。同じ人をある時は弟子、ある時は使徒と呼び、その違いは必ずしもハッキリしているとは言えなかった。我々自身も、同時に弟子でありまた使徒であるという二つの面を持っている。弟子とは、教えを受け、またその方の後について行くことである。使徒とは使命を受け、遣わされるということである。弟子であることを或る時から卒業するという捉え方は正しくない。しかし、使徒であることは、或る時点で始まる。その時点とは聖霊降臨の時である。
これまでのところで、使徒という呼び名は用いられていたが、彼らのうちに使徒という自覚があったとは言えないと思う。しかし、聖霊を受ける用意の最終段階に入って、彼らの準備も整って来たのが窺えるのである。
さて、その山はエルサレムに近いと言われる。エルサレムの城壁を東に出ればそこがオリブ山である。「安息日に許された距離」という書き方がなされているから、主が昇天しやもうた地点を割り出すことが出来るかも知れない。
「安息日に許されている距離」と言われるのは、律法の書に規定されているわけではない。これは律法学者たちが決めたものである。文字どおりに受け取るなら、安息日には一歩も出てはならない。窓から手を出すのもいけないと言われたほどである。人間の解釈を神の定め以上に重んじることがあってはならなかったが、律法学者らが人間の緊急の必要を無視して人を苛酷に束縛することをしないで、この距離までなら歩いて良いと考えたのは妥当と見るべきであろう。その距離は2000キュビトである。ただし、厳しい戒律を自らに課する団体の人たちは1000キュビトまでしか許されない、と決めていた。1キュビトは56センチである。
では、エルサレムから2000キュビト、1120メートルになる地点を捜せば、主の足が地を離れたところが確定できるか、そんな簡単なことでないのは論じるまでもない。ある人はエルサレムから1120メートルというと、オリブ山頂だという結論を出したが、この距離に固執する必要はないであろう。ごく近い距離だということを言えば良い。弟子たちは、これはまるで安息日の距離だ、安息日にあるようなものだと感じながらエルサレムに帰って来た。もっとも、この日オリブ山頂に往復したらしい。
勿論、この日は安息日ではない。3節に40日に亘って、ということが書かれたので、復活節後40日、曜日で言えば木曜日であったと我々は理解している。しかし、40日という日数を厳格に主張しなければならないというものでもないであろう。復活の主の40日の顕現ということは、使徒行伝1章3節にしか言われていないから、特に主張しなければならないものでもない。
次に移る。「彼らは、市内に行って、その泊まっている屋上の間に上がった」。
この「泊まっている屋上の間」は、キリストの弟子たちにとって馴染みの深いところであったに違いない。主が弟子たちと過ぎ越しの食事をされたのは二階の広間と言われる。この屋上の間と同じ所ではなかったかと考える人は多いようである。
主イエスは過ぎ越しの小羊を屠るべき日に、ルカ伝22章7節以下によれば、ペテロとヨハネを遣わして、過ぎ越しの用意をさせたもうたと記される。その家の主人は主イエスに、前から、過ぎ越しの食事の場所の提供を約束していたと考えられる。隠れた信奉者であったに違いない。同じ場所だという見方に固執する必要はないと思うが、同じところと考えたほうが話しの続き具合が良い。五旬節を迎える準備はその方が捗ったであろう。弟子たちは主の受難の後も、少なくとも復活の後には確かに、ここに寝泊まりしていたであろうと想像される。
「その人たちは、ペテロ、ヨハネ、ヤコブ、アンデレ、ピリポとトマス、バルトロマイとマタイ、アルパヨの子ヤコブと熱心党のシモンとヤコブの子ユダとであった」。
ルカは福音書の6章14節以下に、この11人の名を挙げている。そこにはもう一人イスカリオテのユダが書き込まれていた。11人の名前の順序が若干入れ替わっている。福音書の方では、ペテロとアンデレは兄弟であるから並べて書いてある。ヤコブとヨハネの兄弟も同様である。弟子団の中での働きの重要性が変わったので上の方に書かれたということかも知れない。しかし、我々にとっては順位の変化に目を留めることは要らない。
この名簿の後の方に出て来る名前の使徒の活動記録は、福音書にも、使徒行伝にも出て来ない。そういう名の人物は存在の影が薄いから、本当にいたのか、と問題にする人もいるが、記録の残らない場合はあっておかしくないであろう。
使徒たちの中の主だった人だけを重視して、資料の不足している人については殆ど無視するような捉え方が一般に行なわれている。我々の間でもそういう傾向に陥り勝ちである。これでは、使徒行伝を伝道の英雄の記録として捉えることになる。伝道精神を昂揚するために、その精神に溢れた伝道功労者を表彰するということでは、聖書と主旨の全く違った読み物になってしまう。
使徒は12人で一組の集団であった。この後で、欠員を補って12人という数を揃えなければならないとペテロが提案し、他の人々もそれに全面的に賛成したところを学ぶことになっている。そこで改めて確認したいのであるが、有能な伝道者が或る程度揃ったからこれで行こう、ということにはならなかった。
12人という数が満たされなければならない。なぜなら、この数は象徴的な意味を持っているからである。12はイスラエルの支族の数である。神はヤコブの子12支族を立てて、これによってこの世界の中に、ご自身の民を用いて国を建てさせ、祝福を全地に及ぼそうとされた。神の国、あるいは神の国を映し出すもの、ないしは神の家を映し出す家、教会を建てようとされた。
12という数は重要である。だから、12でなくても良いではないか、と軽々しく考えてはならなかった。これは象徴であるから、象徴されていることが重要で必ずしもこの数に固執することではない。例えば、12人のうちヤコブが先ず殺された。その時、直ぐに補充をしたかというと、それは出来なかった。出来なくても良かった。
しかし、初めは12の数が揃えられていることが重要であった。12人でなくても良かったとか、12人は後から付け足された作り話であると見て良いという解釈は受け入れるわけに行かない。
名前の一つ一つについて、幾らか説明を加えた方が、この一団を具体的に把握し、またこれに対して親しみを覚えることになるであろう。先ず、ペテロである。ペテロというギリシャ風の名は後で用いられるようになったもので、その前は同じ意味でケパと呼ばれた。そして、本名はシモン、あるいはシメオンであった。初期の教会において最も重要な存在であったことは、クリスチャンならば誰でも知っている。ペテロはヤコブが殺された後、ヘロデに捕らえられ、続いて殺されることになっていたが、ある夜、御使いの導きによって奇跡的に脱獄し、兄弟たちに挨拶した後、姿を隠す。彼が活動を続けたことは確かであって、ローマにおいて殉教したことも広く知られるが、この後使徒行伝の中に記録は残らない。
第二に名を挙げられるヨハネは、弟子の中で一番若く、したがって最後に死んだ使徒であると見られる。初期の教会ではペテロと並ぶ重要人物で、二人は一緒に行動することが多かったが、ヨハネの名は12章以後には出て来ない。後に小アジアのエペソを中心とする教団を組織して、パトモスで殉教する。
三人目のヤコブはヨハネの兄弟、すなわち、その兄であって、主イエスから最初に召しを受けた者の一人である。名前はそれほど知られていなかったようだが、実際家として重要であったに違いない。彼の殉教は12章2節に記される。12使徒の中では最初の殉教者であった。
四人目のアンデレはペテロの兄弟で、彼がペテロを主イエスのもとに導いたようである。その最後が十字架に架けられる殉教であったとの言い伝えがある。アンデレという名はギリシャ風である。
五人目のピリポは、ヨハネ伝によればペテロとアンデレの町ベツサイダの出であり、カナの人ナタナエルをキリストに連れて来た。すなわち、以前から親しい関係であったと考えられる。そのナタナエルを主イエスは高く評価しておられるので、当然。12弟子に加えられたはずだが、共観福音書にはナタナエルの名がない。別の名で記されたと考えられる。それはバルトロマイではないかとも考えられる。ヨハネ伝12章によれば、主の死の日が近づいたとき、一団のギリシャ人がイエスにお目に掛かろうとしてピリポに取り次ぎを頼んだ。ピリポは異邦人との繋がりを前から持っていた。彼の名はギリシャ式の名である。
六人目のトマスは、デドモと呼ばれたらしいが、それは双子という意味である。双子の一方であった。トマスというギリシャ名は初めからのものではないらしいが、これ以外の名は知られていない。彼がインド伝道に行ったという伝説がある。
七人目のバルトロマイ、これはトルマイの子という意味のアラム語であるが、ナタナエルの別名ではないかという説があることは先に述べた。彼についてもインド伝道に行ったという言い伝えがある。
第八番目のマタイは、主の賜物という意味のヘブル語をもとにしてギリシャ風に綴ったもので、レビという名もあった。取税人であったらしい。マタイ伝の著者とされるが、そのような言い伝えがあるからである。
九番目はアルパヨの子ヤコブであるが、ヤコブという名はユダヤ人の中に多い。ゼベダイの子ヤコブと区別してアルパヨの子と呼ばれ、また小ヤコブとも呼ばれる。名前しか知られていない。他の同名の人の中に紛れたのかも知れない。アルパヨはクレオパと同じではないかと思われ、ナザレのイエスとは親戚関係のようである。
十番目の熱心党のシモンの「熱心党」は当時のユダヤ人の国粋運動のセクトで、叛乱を起こすこともあったようである。シモンが主イエスの弟子になる以前そういう運動に参加していたということのようである。
十一番目のヤコブの子ユダは、イスカリオテのユダと区別するためにこのように呼ばれたのであろう。マタイ伝とマルコ伝の弟子目録にあるタダイが同一人物であろうと思われる。名前すら一致しないと批判する人があろうが、12人の一団として把握しよう。
「彼らはみな、婦人たち、特にイエスの母マリヤ、およびイエスの兄弟たちと共に。心を合わせて、ひたすら祈りをしていた」。
主イエスから弟子として任命された以外の人もこれに加わっていた。すなわち、婦人たちとイエスの肉親である。肉親は以前、主イエスとの関係が肉的に近すぎたため、却って信仰的には拒絶を引き起こしていたことが良く知られている。それがどうして変化したかについて、詳しいことは到底論じ尽くせないが、主イエスが十字架に架けられたもう時、マリヤが母としてその場を去ることが出来なかった事情までは普通の人間として理解出来る。しかし、立ち尽くす間に変化が起こったのであろう。十字架の苦難に耐えたもう我が子を見るうちに、母としての情をもって息子を見るという関係は転換し始めた。そして、三日目の復活によって彼女の転換は完成した。彼女は自らの息子を主として受け入れる。彼女の息子たちも兄であるイエスを主として受け入れるように変わった。
この兄弟のうちヤコブという人がいたのは確かだが、彼は使徒ではなく、長老らしい。しかし、エルサレム教会の柱と言われる重要人物になり、「義人ヤコブ」と呼ばれた。ヤコブ書の著者であるヤコブはこの人のことである。ペテロが脱獄後、12章17節で「このことをヤコブや他の兄弟たちに伝えて下さい」と言ったヤコブはこのヤコブである。また、15章でパウロとバルナバが異邦人がキリスト者になる時、割礼を受けるべきでないという問題についてエルサレム教会と決着をつけるために上京した時、エルサレム教会を代表して交渉したのもこのヤコブであった。
ほかに120名ばかりの信者の集団があったということを次の節で読む。彼らは同じ屋上の間で集まりをすることは出来なかったが、イエスの肉親は使徒と同じ場所にいたということであろうか。マリヤのことは使徒行伝ではここにしか書かれていない。この間の事情は良く分からない。
彼らは一緒に祈っていた。それはこの屋上の間で朝から晩まで祈祷会をしていたということであろうか。そうでなく、ここで言う祈りとは、定まった時間に宮に行って捧げる祈りであったと思われる。例えば、3章の初めに、ペテロとヨハネが午後3時の祈りの時に宮に上ろうとして、と書かれているような祈りである。こういう祈りを午前9時にも行なっていた。その祈りの積み重ねによって教会の基礎が築かれたのである。
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