「ところが、先祖たちは彼に従おうとはせず、却って彼を却け、心の中でエジプトに憧れた」。
エジプトから御自身の民を脱出させることが神の御意志であった。すなわち、神の民は、そこを脱出しなければ、神の民に相応しく、ひたすら神に仕えることは出来ない。しかも、この脱出はイスラエルの民にとっても、解放、自由、自立であって、これは全ての人間にとって慕わしい幸いである。このことのためにモーセが用いられた。
しかし、エジプトからの脱出を、人々は一面では歓喜して神に感謝したのであるが、荒野の生活の厳しさに悲鳴をあげて、エジプトの肉鍋を思い起こし、それに憧れるという、逆方向に向き変わってしまった。これが38節からの歴史であって、43節まではその反逆についての記事が続く。いや、51節から53節までの言葉は、もっと徹底してイスラエルの民の不信仰を論じるものであって、彼らへの攻撃である。攻撃された人たちは憎しみに燃えてステパノを惨殺した。
ステパノは神の民の歴史を、アブラハムから説き起こし、こうしてモーセに至った。モーセは神から賜った絶大な力を用いて、神の民を奴隷状態に拘束して置こうとするエジプトの権力と争い、エジプト脱出に成功する。イスラエルが紅海を渡り切るとともに、海の中の道が閉ざされた奇跡は、エジプト脱出の成功を齎らしたのである。人々はモーセとともに神を讃美して歌い、女たちはモーセの姉である預言者ミリアムに先導されて、タンバリンを取って踊りつつ神を讃美した。ここまでは信仰の歴史と呼んでよいであろう。
しかし、39節以下の陳述は、信仰の歴史と呼ぶにはいささか苦しい。それでは、不信仰が勝利した歴史と言うべきか。それはいけない。神がモーセを起こして、なさせたもうた歴史、これは神の御業の歴史であって、神の御業の進展を見なければならない。これを単純に不信仰の歴史であると言うことは正しくない。
それでは、神がその計画に基づいて御業を展開して行かれる時に、それに対抗する不信仰の闘いがあって、神の計画はなかなか進まなかった、というふうに全体を捉えるべきか。
こういう見方は、理屈好きな人々の間で、尊重されているようである。神の意志は善であり、神の善なる意志が実行されていると一面では認められるが、他方では人間の悪がこれに拮抗しているというのが世界の現実ではないかと見る人は多い。クリスチャンと言われる人の中にも、こういう見方をする人は少なくない。
表面上では、そのように見られる面があることは事実である。しかし、信仰者は神の意志は善であると見るだけでなく、力ある働きを進め、ついに勝利することを確信している。そのようには見えない場合であっても、敢えて見えることに逆らって、神の勝利を信じて待つことが出来る。
そして、さらに一点、信仰者は、神の達成したもうこの勝利に、神の選びたもうた民が、器として用いられ、参画させられることがあり、そういう場合には素直に参加すべきであるということも知っている。
すなわち、民の中に信仰者と不信仰者がいて、信仰者は神の御旨がついに成し遂げられるのを信じて、その成就に参与するのであるが、それは神の民と言われる人々の中にも善玉と悪玉、神の御業の進展に仕える者と、神の御業を妨害する者の二種類の人がいて、自分は善玉であるが、悪玉は結局滅ぼされるということなのか。そういうふうに理解しても良いと思われることはあるが、実際は我々の貧しい思いでは捉えることの難しい崇高な神の御旨に、分からぬままに服従させられると言うべきである。
だから、神の民と言われており、あるいはそう思わせられている人が、実はそうでない場合があって、この人々がどうなるかというようなことは、我々の関与する問題ではないから、気にしないでおけ、滅びる者は滅びるのだ、と割り切るのも十分ではない。彼らの救いは今隠されているが、彼らの救いは定められていて、明らかにされる日があるかも知れないことを考えない訳には行かない。――それは、我々自身にも救いの徴しが確かではなかった時期があるということに思い至るなら、素直にそう考えないではおられないからである。
そして、神は限りなく寛容であられるとはいえ、救われる者を悔い改めを経て救うを宜しと定めておられるのは確かである。だから、我々は人々の救いというよりは、もっと具体的に彼らの悔い改めを祈り求める。いや、悔い改めに近づくように働きかけるべきである。
ステパノの説教を読み取って行くためには、今述べて来たことは重要である。というのは、この時のステパノの説教の記録の中に、今言ったようなことは書かれていないために、我々は書かれていないことは考えなくて良いと思って仕舞い勝ちだからである。すでに何度も注意を喚起されたように、ステパノは言おうとしていたことを語り切らないうちに、暴虐にも虐殺された。
物事を語る論理には順序がある。終わりまで聞かないうちに結論を下すのは愚かな人である。終わりまで自制して聞くことが出来るように、神は人間に自制心を与えておられる。ステパノを殺した人は、この心を失ってしまった。我々は彼らよりもう少しは慎ましくなければならない。だから、ステパノが語るべくして語らなかった言葉が何かを考えて、それを補わなければならない。それは、特に難しい作業とは言えない。信仰者なら当然、ステパノの思いが分かっているから、語るべきことが何であったかは明らかである。信仰者でなくとも、「主よ、どうぞ、この罪を彼らに負わせないでください」という彼の最後の言葉を聞けば、何を考えていたかは分かる。
ステパノのその次の言葉に移る。40節、「『私たちを導いてくれる神々を造って下さい。私たちをエジプトから導いて来たあのモーセがどうなったのか、分かりませんから』とアロンに言った」。
前の節では「エジプトに憧れる」という言葉が出て来た。ここには二重の意味が含まれていると思う。一つは、エジプト脱出と逆方向の力である。出て来たところへ戻って行こうとの意向である。荒野には何もなかったが、エジプトにはいろいろな物がある。特に人々の憧れたのは食物であったようである。
もう一つ、エジプトの偶像に憧れたという意味があるように読むことが出来る。エジプトは偶像に満ち満ちた国であった。イスラエルの人々がそれに馴染んでいたと考えなくても良い。むしろ、その逆であって、偶像を必要としない、先祖の神を礼拝する宗教について、誇りを持ったと推測する方が納得出来るのである。しかし、荒野に出て、心細くなって、考えが変わったということはあり得る。
偶像を刻んではならないとは、イスラエルの民にとって、出エジプトの後、シナイで初めて接する禁止命令であった。それ以前は許されていたという意味ではない。大目に見られていたと取るべきでもない。宗教に関しては規定がなかった。人々は先祖の神を、先祖が礼拝したように礼拝した。エジプト人の宗教的習慣を見ても、羨ましいと思ったことはない。だから、モーセがミデアンの荒野で、燃える柴の中に現れたもうた神から使命を受けたとき、この使命について同胞に何と語って良いか分からなかった。
そこで、神は「あなた方の先祖の神、すなわち、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神が、私をあなた方に遣わされたのだ」と言えば良い、と指示された。それでほぼ十分であったのだ。
ただし、モーセはそれだけでは足りないのではないかと思って、その名が何という神かを知りたいと願った。先祖以来、イスラエル人にとって、神は一つしかないから、彼らの仲間うちでは、「先祖の神」と言うだけで、名を知らなくても十分であった。しかし、イスラエルはその当時エジプトにいた。エジプトではエジプトの神々が礼拝されているから、それと違うことをハッキリさせたいと考えたのであろう。神はそこで、「ありてある者、ヤーヴェ、これが我が名である」と教えたもうた。ただし、この名は妄りに口にしてはならないものである、と律法は教える。
さて、民が偶像を造ることをアロンに求めた事件は、出エジプト記32章に書かれている通りである。モーセは出エジプトの後、2ヶ月目の3月15日にシナイ山の下に着き、それから70人の長老を引き連れて山に登り、長老たちを残して彼一人だけが神の御前に立った。最初の7日間、主の栄光が山の頂を包み、燃える火のように人々には見えたと記録されている。
こうして、40日40夜モーセは山の上に留まって、おりて来なかった。この40日という期間について、ノアの洪水とか、主イエスの荒野の試みとか、思うことがいろいろあるが、それは今省略して、人々がモーセの不在の故に不安と焦燥感に陥ったということだけを取り上げる。山に登ったモーセが40日間降りて来なかったのには、我々の分からぬことではあったが、それだけの日数が必要があった。民もまた40日間、待たなければならない。すなわち、彼らはここから始まる彼らの旅について思い巡らすことをすべきであった。
モーセの不在の間、アロンが指導者の代理をつとめた。しかし、それだけの指導力を彼は持たない。人々の言いなりになる。
モーセがついている間は人々は安心していたようである。紅海の奇跡、マナの奇跡、必要な時には数々の奇跡が行なわれた。しかし、モーセが山に籠って、その山が火と煙に包まれた。彼はもう生きていないかも知れない。彼の奇跡によって支えられたようなことであるから、彼が山に登ったまま行方不明になったとすれば、一つの民族がシナイの山の下で自滅しなければならないのではないか、との心配があった。
その時、彼らが思い起こしたのは、エジプト人が彼らの偶像に頼って、祭りをしていたことであった。子牛の像がエジプトにおいて普通に見られる偶像だったかどうか分からない。41節、「その頃、彼らは子牛の像を造り、その偶像に供え物を捧げ、自分たちの手で造った物を祭って、打ち興じていた」。
出エジプト記32章によるとモーセはこれを見て怒りに燃え、神から賜って持ち帰った二枚の板を砕いて水に撒いて民に飲ませた。こうして二枚の板を造りなおさねばならぬほど、これはモーセを怒らせる罪であった。
思い起こされるのは、後年、イスラエルの民が分裂した時、エフライム出身のヤラベアムは北王国の王となり、北王国の人民が南のダビデ王朝の支配から離れた時のことである。北王国の者が南王国に戻ることがないように、ヤラベアムは二つの金の子牛を造って、「イスラエルよ、あなた方をエジプトの国から導き登ったあなた方の神を見よ」と呼び掛けた。列王紀上12章28節に記される。それでも、偶像礼拝禁止の戒めを守って、北王国からエルサレムに礼拝に行く人は少しはいたが、大部分の人は、もうエルサレムに行かなくなった。
子牛の像には特別に魅力を感じさせられるらしい。ヤラベアムのことの故に、ユダヤ人がサマリヤ人を徹底的に嫌うことになったのは、広く知られる通りである。
イスラエルの人々は、先祖の神を捨て、エジプト人の神を取り入れて、金の子牛を造ったというのではない。彼らは「これがイスラエルの神である」と言った。先祖の神そのものなのだ。見えなかったものを、もっと良く見えるようにしたのだ、と言った。しかし、それこそが間違いであった。
神の名前が間違っていさえしなければ良いということではない。預言者は「主はこう言われる」と前置きして預言を語った。預言者の語る形式は必ずこうなっていた。偽預言者もこの言い方を用いた。それは間違いなく主ヤーヴェの名で語ったのであって、バアルとかモロクとかロンパとか、その他怪しげな神の名を用いたのではなかった。しかし、名前が間違っていなければ良いということではなかった。名前だけは正しいけれども、その言葉が真実に神からのものでないという場合がある。
話しがそれるが、今、神の誤りなき教理が説かれている、と言われるけれども、生きた御声が響きわたっている訳ではないという場合がある。この場合はどうなるのか。これは別問題ではあるが、また似た問題だ。真の意味で神が語っておられるのでなく、人間の感想に過ぎないのに、語る人が、自分は神の言葉を語るように命じられた、と偽っているならば、偽りであることは確かである。一見、神の言葉そのもののように聞こえるとしても、言葉としてはそっくり同じであれば、本物と看倣してよいのか、それとも教理的に間違っていなくても、偽りは偽りではないかと問われる場合が事実ある。そういう教師の教えを聞いて、神の恵みを信じ、キリストの贖いを信じ、洗礼を受ける。けれども、信仰を説いた教師は信仰の破船をしてしまう、という場合は実際にある。そういう場合、その導きによって信じた人の信仰は本物なのか、救いはどうかという深刻な問題がある。
今はその問題に立ち入ることはしないが、救いのことであるから、決して曖昧にしてはならない。このことに関しては御霊の証しを求めれば良い。御言葉には御霊の働きが必ず伴うからである。
アロンの指導のもとでイスラエルの人たちが金の子牛を造って、これが我々をエジプトから導き出したもうた神である、と言った場合、それが正しいかどうかは、もっとハッキリしている。神は明らかに像を刻むことを禁じられたのであるから、その像は神ではない。それを拝むことも禁じられているのであるから、考え違いをして拝んでしまったと言うことで不問に付して良いものではない。
十誡の第二誡は厳罰を伴っている。この誡めを破る者には子々孫々にまで呪いが続くと言われている。それは神を拝む拝み方に関することではなく、神認識の中味そのものに関する重要なことだからである。すなわち、神は人が手で造ったものによって御自身を示すことはされないだけでなく、形あるもの、限りあるものによって無限なる御自身を伝達されることもない。神はもっぱら生ける御言葉によって御自身を伝えたもう。また、神のようなものによって、何となく神々しい雰囲気を伝えることはされず、生ける言葉を伝えたもう。偶像は生ける神と真っ向から反するのである。
しかし、神が形あるものによって御自身を示したもう場合はあるのではないか、と問われることはあるかも知れない。なるほど、例えば、先に見たように、燃える柴によって御自身を顕したもう。しかし、聖書は神が現れたもうたという言い方は避けて、御使いが現れた、と言う。
要するに、神は見える姿をもって御自身を顕すことはなさらない。何によって御自身を顕したもうかと言えば、御自身の御言葉によって、生ける御言葉によって御自身を示したもう。さらに言えば、神は御言葉である御子を遣わして御自身を明らかにしたもうたのである。
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