2006.02.12.

 

使徒行伝講解説教 第47

 

――736-38によって――

 

 

 ステパノは法廷でモーセについて述べて来て、「この人が、人々を導き出して、エジプトの地においても、紅海においても、また40年の間荒野においても、奇跡と徴しとを行なった」と説教したことが36節に記されている。「この人が」ということばが、36節、37節、38節に繰り返される。
 モーセのしたことは「奇跡と徴し」であると36節で言われるのに驚く人がいるかも知れない。普通に聖書の学びをしている人なら、モーセの務めは、神の律法を与えたことであると理解している。例えば、ヨハネ伝福音書117節には、「律法はモーセを通して与えられ、恵みとまこととは、イエス・キリストを通して来た」と書かれている。福音書においても、使徒パウロの書簡においても、ほぼその線で捉えられている。ところが、ステパノは、モーセについて語る中で、律法については何も触れていない。これはどういうことか。
 ステパノが特別な理解をしていたと考える必要はないと思う。ステパノが初期の教会の信仰者であったから、初期の教会では教理の教え方がまだ固まっていなかった、と説明するのも的外れである。
 確かに、教会の初期にはいろいろ整わない点があった。しかし、すでにイエス・キリストが知るべき真理を悉く明らかにしておられるのである。モーセの位置づけもされている。難しく考えては真理を捉え損なう。ことは単純に学ばなければならない。我々に示されている真理はステパノにも示されていた。
 それをステパノが議会における説教で全部語ったわけではない。語りきらないうちに彼は殺されてしまった。また、すでに我々の気づいているように、ステパノの説教の記録の中には、キリストによる救いという言葉は出て来ない。この大事なことを彼が信じていなかったと言う人があれば、飛んでもない思い違いであろう。
 譬えて言うなら、一つの山をこちらから見るのと、あちらから見るのでは、山の形も色合いも違う。モーセという神の遣わしたもうた器も、角度を変えれば違って見える。しかも、あるがままのモーセを、自ら捉えたところに従って言い表そうとしても、語るべきことは沢山あるから、多くのことを割愛して、今必要とされている事項だけを言うことになる。ある時には彼によって律法が与えられたという点を強調する。ある時には奇跡を行なったことだけを言う。その二つの場合が食い違っていると思う人はいないであろう。
 もし、ステパノの言葉を聞いて、これは今まで教えられて来たモーセと別のモーセだと感じる人がいるならば、その人は自分の信仰の認識は問題だと自ら気づかねばならない。すなわち、その人は人から教えられてモーセの概念を頭に入れているけれども、モーセそのものを捉えていないらしい。モーセの概念を持つことは構わない。それによって知識が整理される。しかし、その概念に固執して、モーセそのものを無視するならば、悲惨なことになる。モーセについて知っている知識は人に教えることは出来ても自分の救いに役立たない。
 モーセを「奇跡を行なうための人」として捉えるのは、当たり前のことと言えばその通りであるが、我々のこれまでのモーセ理解においては手薄になっていた部分である。それと、もう一点、ステパノのモーセ理解の要目について触れるならば、38節で「生ける言葉」ということを言っているところにも注目しなければならない。これについては後で触れるが、奇跡を行なった人というだけでは、モーセはエジプトの魔法使いより僅かに優れただけの人物になってしまうであろう。
 モーセは、第一に、神の民をエジプトの奴隷状態から導き出して約束の地に連れて行くという使命を受けていた。神の民が神の民であるためには、奴隷状態から先ず脱出しなければならない。肉体は奴隷のままでも、神に仕えることは出来ると言われるかも知れない。パウロはIコリント7:21で「召された時奴隷であっても、それを気にしないが良い」と言う。それは、誤魔化しの理論ではない。キリストによる解放は、魂の解放から始まる。肉体の解放とは次元が違うから、肉体としては奴隷労働に服していても、霊的には解放されている。ただし、パウロも、その直ぐ次に「もし自由の身になり得るなら、自由になりなさい」と勧める。人の奴隷となっていると、神と隣人に仕えることについての障碍があるからである。
 エジプトのイスラエルは、初めは優遇される客人であったが、王朝が変わると、特権は全てなくなった。その民族がゴッソリと奴隷にされた。エジプト当局は一時イスラエルの人口制限をしようと考えたが、それよりは高級な労働力として確保して置くように政策を転換して、物質的には優遇したが、自由を与えなかった。
 出エジプト記5章に書かれているが、ミデアンからエジプトに戻ったモーセは、先ず、3日の道のりほど荒野に行かせて、神に犠牲を捧げさせて欲しいとパロに要求する。パロはこの口実は労働忌避であると見て、許可しない。
 我々の中にも荒野に行って神に犠牲を捧げるという主張は、口実に過ぎなかったと思う人があるようだが、出エジプトは単なる束縛からの脱出でなく、むしろ、心置きなく神に礼拝を捧げるための脱出であった点を見落とさないようにしたい。このことは今日の我々の生き方とも関係する。
 もし、この要求を容れないなら、エジプト全土に禍いが降ると神は言われ、モーセはそれをパロに伝えたが、事実、禍いが次から次ぎへと襲い掛かる。パロはひるまず、魔術師を呼んで、モーセの奇跡に対抗するような魔術を使わせる。しかし、とうとう魔術師はモーセに勝ことが出来なくなる。
 モーセとエジプトの魔術師との対決は、信仰者の間でも一つの不思議物語りとして受け取られることが多い。ステパノがモーセの働きの中で奇跡を強調しているのを読んで、新鮮な感銘を受ける人があろうが、もともとエジプトの魔術に対して神の力による奇跡がイスラエルの解放であったことが、本質的なこととして強調されている。
 エジプトは学問の国であることを誇っていたが、その学問は、ある面では随分高度ではあったが、得体の知れない魔術や魔法とも結び付いていた学問であった。この魔術的なものに打ち勝たなければ、精神の自由は得られない、という意味を読み取らなければならない。奇跡とは、訳の分からない怪しげな業に対する神の大能に勝利である。
 次に、紅海における奇跡に言及される。イスラエルの脱出をエジプト軍が追って来て前は海で塞がれ、うしろから大軍がまさに追いつこうとした時、神はモーセの求めによって、先ず目の前の紅海を開いて、海の中にイスラエルの行く道をつけ、イスラエルが渡り終えると直ちにそこを閉じて、エジプト騎兵が追いつくことがないようにしたという奇跡である。神に解放された者が通って行くことは出来るけれども、それを引き留め、元の奴隷状態に連れ帰ろうとする者が追って行こうとしても行くことが出来ない。そういう奇跡がある。
 それから40年に亘って奇跡が続く。荒野にいた間ずっと奇跡が続いた。水がなくなったときに、モーセがその杖で岩を撃つと、岩は水を吹き出した。荒野にもオアシスがあって、それに適合した旅行計画があったから、岩を撃って水を出す奇跡が毎日行なわれた訳ではない。一方、マナを降らせる奇跡は、安息日以外毎日のことである。この毎日の経験によって、民は、人の生きるのはパンのみによってではなく、主の口から出る言葉によってであると悟った。
 これらの奇跡物語りは、お伽話のように聞こえるかも知れない。合理的に考えることの出来なかった古代人が、不合理なことを考え出して納得していた。我々はそういうことは信じない、と論じる人が沢山いた。しかし、合理的に考える考えが力を失い、今では合理的ということは有り難くも何ともない。そう考える人が増えたが、神が介入して来られなければならない。奇跡が信じられないという理性一辺倒では、人間は結局行き詰まってしまう。そういう信仰では、あってもなくても同じものになってしまうではないか、というところに人々は追い詰められるようになった。
 神は人の知恵の及ばない方法で力を発揮したもう。その奇跡を我々は、説明が出来ない場合があるが、信じる。イスラエルがエジプトを脱出し、40年間荒野で放浪したあげくカナンの地に入ったのは、当然のことではなく、奇跡であって、その奇跡のために神はモーセという特別な器を用意されたのである。誰でも良い、誰かがそのポストを引き受ければ良かったということではない。
 モーセの後を継いだヨシュアも、誰かが後を継がねばならなかったから継いだ、というのではなく、彼もまた奇跡を行なうための器である。神の民がいて、信仰が受け継がれて行くところでは、奇跡も受け継がれて常時起こるというのではない。神が宜しとしたもう時にだけ、奇跡は起こる。
 次に、37節、「この人が、イスラエルの人たちに、『神は私をお立てになったように、あなたの兄弟たちの中から、一人の預言者をお立てになるであろう』と言ったモーセである」とステパノは語った。
 モーセのことを語るのに、ステパノは、先ず同族から拒否された人、と言い、次に神によって支配者・解放者として立てられた人と言い、次にその務めのために、奇跡を行なうという特別な力を表した人と言ったが、その次に、来たるべき預言者について預言した人、と言う。この預言を語ったことを取り上げているのはステパノのモーセ理解の重要な点である。多くの人はこの点に余り注目していない。
 この預言は、申命記1815節に、神がモーセに語りたもうたという形で述べられたもので、意味としてはほぼこの通り書かれている。この37節の言葉を理解するために、申命記の言葉をもう少し先まで、続けて読んで置こう。「あなたの神、主はあなたのうちから、あなたの同胞のうちから、私のような一人の預言者をあなたのために起こされるであろう。あなたは彼に聞き従わなければならない。これはあなたが集会の日にホレブであなたの神、主に求めたことである。すなわち、あなたは『私が死ぬことがないように、私の神、主の声を二度と私に聞かせないで下さい。また、この大いなる火を二度と見させないで下さい』と言った。主は私に言われた、『彼らが言ったことは正しい。私は彼らの同胞のうちから、お前のような一人の預言者を彼らのために起こして、私の言葉をその口に授けよう。彼は私が命じることを、悉く彼らに告げるであろう。彼が私の名によって、私の言葉を語るのに、もしこれに聞き従わない者があるならば、私はそれを罰するであろう……』」。
 少し説明の必要がある。申命記では5章に、神が直々にモーセと語りたもうのを部族の長老たちは聞いていて、非常に恐れ、その恐ろしい声を二度と聞かせないように、その火を二度と見ないようにと願った。神はその願いを受け入れて、モーセのような預言者を通して、すなわち人間の姿をとった者を通して御言葉を与えようと約束された。御言葉を聞く者の兄弟である者が、神から与えられる御言葉をそのまま語るという方式で御言葉が伝えられて行く、と言われたのである。
 したがって、この預言は、モーセ以後、御言葉を受けた預言者が御言葉を語るという方式が維持されると言われたということである。我々が旧約の預言者について知っているのもそのことである。神から「これを語れ」と命じられたのでないのに、自分の思いを語る預言者は罰せられる。
 しかし、ここでは「一人の預言者」と言われているではないかとの疑問がある。その疑問に対し、これは一人の預言者のことでなく、預言が統一のある一貫した言葉だという解釈がある。それも、正しいと思われる。それでも、一人の預言者とは来たるべきメシヤのことだという解釈はユダヤ人の中にもあった。ヨハネ伝119節以下に、バプテスマのヨハネが出現した時、エルサレムの権威が調査委員を立ててヨハネが何者であるかを調べるために遣わしたということが書かれている。「あなたはどなたですか」。「あなたがエリヤですか」。「あなたはあの預言者ですか」と問うが、あの預言者というのは申命記18章にある一人の預言者のことである。そのような特別な預言者が来るという考えがユダヤ人の間に厳然と受け継がれていたことが分かる。
 したがって、キリスト者の間では、この解釈がさらに強かった。ステパノがそうであったことは言うまでもない。恐らくステパノは37節で簡単に触れたことを、後でもう一度取り上げて、この方こそ我々の主であると論証しようと考えていたに違いない。しかし、それを論じる以前に殺されてしまった。
 38節に入るが、「この人が、シナイ山で、彼に語り掛けた御使いや先祖たちと共に、荒野における集会にいて、生ける御言葉を授かり、それをあなた方に伝えたのである」と言う。
 ここで強調されているのは、「荒野の教会」に生ける御言葉があったという点である。「荒野の教会」と言ったことについては先に論じたが、荒野のエクレシアは、教会と訳すのが正しいと考えられる。そこに、すでに教会が建てられた。出エジプトは教会を建てるためであって、その時に教会が建ったのである。
 これまでの所を振り返って見ると、アブラハムは神の命じたもうままに出発した。それがすでに教会であると言う人がいたなら、それは正しい。「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、まだ見て居ない事実を確認することである」とヘブル書11章の初めに書かれているが、アブラハムはこの信仰に生きた。神は彼と契約を立てたもうた。神との契約関係にあるもの、これは教会だと言って良いであろう。教会にとっての本質的なことは揃っている。
 したがって、アブラハムの子イサクにおいても、その子ヤコブにおいても、いよいよ教会らしくなって行く。しかし、この段階ではまだエクレシアという用語は使われていなかった。小さいという点で、エクレシアと言わなかったのであろう。しかし、エジプトから脱出した一団は、約束の地に到達した訳でもなく、まだ雑然とした集団であったが、エクレシアであった。
 このエクレシアには生ける御言葉があった。この生ける御言葉の中味は主として律法であったと言って良い。ステパノはそれを「律法」と言わずに「生ける御言葉」と呼ぶのは、エクレシアには御言葉が必要だからである。
 気難しい人々は、ステパノが律法の授けられたことについて何も言わないからいけない、と言う。ある人は、ステパノが律法について何も言わないのはいけないではないかと言う。ある人は律法が語られているだけで福音がなければ教会ではない、と言う。そうかも知れないが、福音、福音、と言われてはいても、「生ける御言葉」でないならば、本当に教会があるのかどうかが問題になるということについて、深く思い巡らさねばならない。
 生ける御言葉がなければ教会は建たない。しかし、生ける御言葉があるならば、荒野で集まっていても教会なのである。


目次へ