2006.01.22.

 

使徒行伝講解説教 第45

 

――7:17-29によって――

 

 

 旧約の歴史的人物のうち最大の存在は、見方によってアブラハムとされ、またモーセであるとも言われる。この二人のどちらが重要であるかという比較を試みることには意味がない。アブラハムはイスラエル人から肉の父として最大の敬愛を捧げられるだけでなく、血縁のないキリスト者からも「信仰の父」と呼ばれ、身近なものとして敬愛を受けている。一方、モーセはそのような親近感を持たれていない。しかし、神の掟を取り次いだ絶大な権威を持つ者として恐れられる。
 イスラエル人は系図によって把握される。すなわち、先ず系図で先祖との関係を捉え、次に子孫との関係を捉え、それから一個の人間として理解される。モーセはレビ族で、族長レビから父アムラムに至るまでの系図は分かっている。しかし、モーセ以後の系図はハッキリしていない。モーセの子ゲルショムとエリエゼルはレビ族の中にいたが、以後は断絶した訳ではないけれども、分からない。モーセの子孫ということで特別な扱いを受けることはなかった。
 つまり、その氏族の系図に収められるよりは、12氏族全体を越えた人物と見られている。その兄アロンは、その子孫が代々先祖の跡を継いで祭司の務めを帯びるのに、モーセには子がいたが、それは後継者ではない。モーセの後継者はむしろエフライム人ヨシュアである。モーセは他の人と違って別格である。すなわち、特別な務めを帯びているからである。
 モーセに関しては分からない点が多い。しかし、むしろ、分からないことに意味があると言うべきであろう。彼の生涯の初めの40年、これはイスラエル人としては一旦捨てられ、パロの娘の養子としてエジプト籍に入れられ、エジプトの王宮の中で育てられ、様々な高度な教育を受けたことは知られている。しかし、彼の学んだことの内容については知られていない。
 エジプトは当時、世界最高の文明国であった。奴隷制を確立して、奴隷労働の上に文明を立て上げ、精神文化さえ築いたことは知られる通りである。すなわち、アッスリヤとかバビロンの文明が、軍事的な権力を誇示するものであったのに対し、エジプトの文明は柔らかな線を持った美を求めたもので、単なる知識ではなく知恵を尊び、また死の彼方にあるものへの憧れを大切にするという気風をもっていたことは人々の指摘する通りである。モーセにそのような知恵、深慮があったことは明らかに考察される。彼は並外れたスケールの器であった。
 エジプトの王女が葦の篭に入れて捨てられたモーセを拾い上げて育てたという物語りは、お伽話のように受け取られることが多いが、作り事ではない。エジプト王朝は各種の民族を統治するために、力で抑圧するのでなく、各民族の中から秀才を選び出して、それに最高の教育を施し、知恵によって治めるという方針を取っていたということがある。モーセがそういう事情で選ばれていたと見ることは、彼のなした事業を理解する上で有益である。
 彼の生涯の第二段階、ミデアンにおける40年、これもモーセの大事業の準備として重要な時期だと察しはつくが、40年かけて何を学んだか、分からない。羊飼いをしていたことは分かっているが、それだけではないであろう。
 出エジプト記3章12節には、主なる神がモーセに使命を授けたもうた時、「あなたが民をエジプトから導き出した時、あなた方はこの山で神に仕えるであろう」と言われた。「この山」というのはシナイ山と見るのが妥当であるから、ミデアンはシナイ半島ではないかという説が根強くあるが、一般に、ミデアンの地とはシナイ半島の東のアカバ湾の東岸を指すことになっている。確かに、ミデアンという地はそこだと取らなければならない。
 モーセはミデアン人の祭司エテロの娘の夫であるから、舅からミデアンの宗教について教えられたであろう、と多くの人は推測する。そして、ミデアン人はもともとイスラエル人と人種的にも宗教的にも近い関係にあったと見られている。モーセはイスラエルの宗教を組織した人だが、ミデアンの宗教から学んだことをもとに組織した、あるいは、エジプトにいた間に崩れてしまったイスラエルの宗教をミデアン宗教を参考にして復原したのであろうと想像は出来る。しかし、具体的にどういうことがあったかは分からない。
 分からないことは分からないままで良いと言い張る必要はない。調べられる限り調べるべきだが、モーセに関して分からないことが多いのは、神の測りがたい知恵を思う機縁となっている。
 さて、今日は17節から学び始める。17-18節にこう書かれている。「神がアブラハムに対して立てられた約束の時期が近づくにつれ、民は殖えてエジプト全土に拡がった。やがて、ヨセフのことを知らない別な王がエジプトに起こった」。
 神はアブラハムに受け継ぐべき地を与えると約束された。だが、それは約束であって、現実には一歩の土地もなかった。その状態で、アブラハムも、その子も、その子の子も、何代にも亘って400年間待ち続けた。神の約束であるから信じて待つ、という人にとってのみ、約束は意味あるものである。
 それは、さんざん待たせ、またじらすということではない。人は待つことによって待つことの意味を知るのである。願いが叶えられることには意味があるが、待つことはただただ苦痛である、と考える人は多い。しかし、神の民は待つことについての教育を受けるのである。昔そうであったというだけでなく、今日の我々も待つという修練を重ねつつ終わりの日を待つ。そこに信仰の豊かさがある。
 アブラハムは、「信じる」ということの真の在り様を示す典型であったが、信じることの深い意味は、「待つ」ことによって具体的なものになる。ただし、待つことが全てなのではない。待っていた約束は、定められた時に成就し、それで終わるのではなく、次の段階に発展して行く。このように段階を追って進んで行くことの与える充実感も我々は味わう。
 約束の成就はカナンの地に入って土地を取得することであるが、それは先ず出エジプトという事件から始まる。さらに、それに先立ってイスラエルの奴隷化という変化があった。ヤコブ一族が全世界的飢饉に際してエジプトのゴセンに移住した時、ヨセフがエジプトの有力者であったという事情があったからであるが、エジプト王朝から丁重に受け入れられた。寄留者ではあるが客人であった。その状態はヨセフのことを知らない別の王が起こったことによって覆される。すなわち、王朝が変わったのである。イスラエルに対する好意を持っていた王朝は倒れたのである。その時のパロが誰であったかについて二つの説があるが、この問題の決着を着けることは省略する。
 こうして、イスラエルが寄留の地で客人であることは止み、奴隷にされ、苦役に服することになる。さらに、イスラエルの人口が増えては危険であると見たエジプト王朝は人口を抑制するために、ある時期だけのようであるが、嬰児を捨てさせた。その時期がモーセの誕生と重なった。
 19-21節には、「この王は私たちの同族に対し策略を巡らして先祖たちを虐待し、その幼な子らを生かして置かないように捨てさせた。モーセが生まれたのは、丁度その頃であった。彼は稀に見る美しい子であった。3ヶ月の間は父の家で育てられたが、そののち捨てられたのを、パロの娘が拾い上げて、自分の子として育てた」と記されている。
 エジプトの政策に振り回されて、モーセは一旦捨てられ、パロの娘に拾われ、王家の中で養われて、支配者としての最高の教養を身に着けることになる。ステパノはこれを22節で「モーセはエジプト人のあらゆる学問を教え込まれ、言葉にも業にも、力があった」と纏めている。
 どうして、エジプト人の学問なのか。まことの神を知らない人の知恵は、どんなに立派であったとしても、価値なきもの、いやむしろ、己れを高しとして神に逆らうものではないのか。この疑問には一応道理があるから、答えなければならない。
 エジプトの知恵は神々を作り出し、権力者を神に祭り上げることや、人間の頭で考え出した救いの思想を建て上げることをした。そのため、エジプトにおいて権力と富とを持つ者は奴隷に労働を強いて、巨大な墳墓を作らせて、自らが永遠の朝に目覚める時までその肉体が保存されるようにさせた。これは、自らが永遠者になろうとする企みに他ならない。神の忌み嫌いたもうことである。
 しかし、エジプトの人の考え出したものが何もかも悪であると言うべきではないであろう。例えば、幾何学という学問、これは年々洪水によって土地の境界線が消されても、同じ線を引くことが出来るようにする。こういう知恵は、金儲けをしたり、人を支配することに使われもするが、しかし、これを用いて隣り人に奉仕することも出来る。チャンとした学問を修めた方が、良く人に奉仕することが出来るのである。
 モーセが一国民を引き連れて40年に亘って荒野の旅をして行くためには、主の民のために奉仕する学問を身に着けていなければならなかった。同じことは今日も言える。霊的な知恵とは言えないものでも、教会のために、神の正義のために用いられる知恵はある。世俗の学問を侮り、聖なる学問と称する学びだけをし、人の役に立つことを何も修練しないことが正しいと思ってはならない。神はモーセを一流の知識人、教養人にして用いたもうた。
 ただし、我々が人の役に立つ高度な知識を持っていることを誇ったり、自己満足したりしてはならない。この世の知恵に関しても、自分は知っていると思うことはむしろ空しいのであって、自分が如何に知らないかを知ることが大事だと言われている。人は知識が殖えれば殖えるほど謙遜になる。
 モーセがエジプトの学問として身に着けたことをステパノは「言葉にも業にも力があった」と言う。指導者として立つために、言葉と業がひときわ卓越しなければならないことは容易に理解される。人を指導するためには、号令でもなく、脅かしでもなく、惑わしでもなく、筋道の通った論に依らなければならない。モーセの修行にも文章訓練があったであろう。
 さて、モーセは40歳になった時、人生の転機が来た。23節に、「40歳になった時、モーセは自分の兄弟であるイスラエル人たちのために尽くすことを思い立った」と記されている通りである。エジプトの学問を身に着けて、それによってエジプトの政府のための仕事を始めていたのではないかと思う。このような仕事をしていては、権力ある者らに奉仕するだけであって、弱い者をいじめることにしかならないのではないか、と考えたのかも知れない。
 正義感が高まって来たということもあろう。奴隷制度に対する憤りがあったのであろうか。同胞が苦役に服しているのに、自分は楽な仕事をしていることの負い目を感じた、ということがあるかも知れない。
 しかし、これは、神によって新しい人生を示されたということではなかった。勿論、神が世を支配しておられ、神の正義が尊ばれなければならないという前提で考えていたのであるが、この転機は彼の考えであった。自分がイスラエル人だということ、神の約束のもとにある民だということは知っていたが、その意識が盛んになった。自分には使命があるということも考えていた。多くの学問を学んだ人であるから、自分で多くのことを考えまた実行することは出来た。しかし、自分が思い立った使命感が如何にヒ弱なものであるかを知らされる。
 「ところが、その一人が虐められているのを見て、これを庇い、虐待されているその人のために、相手のエジプト人を撃って仕返しをした。彼は、自分の手によって神が兄弟たちを救って下さることを、みんなが悟るものと思っていたが、実際はそれを悟らなかったのである。翌日モーセは、彼らが争い合っているところに現われ、仲裁しようとして言った『待て、君たちは兄弟同士ではないか。どうして互いに傷つけ合っているのか』。すると、仲間を虐めていた者が、モーセを突き飛ばして言った、『誰が君を我々の支配者や裁判人にしたのか。君は昨日エジプト人を殺したように、私も殺そうと思っているのか』。モーセはこの言葉を聞いて逃げ、ミデアンの地に身を寄せ、そこで男の子二人を儲けた」。
 モーセが何を考えたかについて的確な指摘は出来ないかも知れないが、彼が正しいと考えて実行したことは簡単に破綻した。自分では正しいことをしている積もりでも、人は必ずしもそう受け取ってはくれない、という問題がある。
 また、正義のために行なう、と自分では考えていたが、昨日エジプト人を殺したことを誰も見ていないと思っていたのに、それを知っている人がいると知って恐れ、そのようなことで恐れる自分が、正義のために何かをすることが出来ると思っていたその軽率さが恥ずかしくなった。パロに追求されることを恐れて逃げたという面もあるが、恥ずかしくなって逃げた、身の程知らずに、何かが出来ると思った自分自身から逃れたというのが最も適切であろう。
 40歳になったモーセは目を開いたのだが、神によって目を開かれたのではなく、見えて来たものは自分自身の行き詰まりでしかなかった。ここで彼は逃げる。逃げても何かが始まる訳ではなかった。解決までなお40年待たなければならなかった。その解決は30節以下で見ることである。燃える火との出会いがあって、彼自身もその火で焼かれるという体験をした。
 40歳になったモーセは、自分の内から盛り上がって来る力を感じて、何かが出来そうだと思ったのであるが、何も出来ないことが分かった。それから40年して、彼は神と出会って砕かれた。自分に何かが出来るという期待はもうなくなっていた。その者に対して、神は使命を授けたもう。彼は自分が何物でもないことを知っているから、神に逆らえず、ただただ服従する他なかった。こうして、彼の目は本当の意味で開かれたのである。

 


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