2006.01.08.

 

使徒行伝講解説教 第43

 

――7:1-8によって――

 

 

 使徒行伝7章全体にわたって繰り広げられているステパノの説教は、使徒行伝の中で最も長い引用文である。その長い引用文が、よく纏まっていることも魅力的であるが、内容的にも極めて高い質のものである。使徒行伝の中に収録されている説教の中で、最も分かり易いとともに、神学的にずば抜けて優れていると思われる。――ただし、ステパノの説教は、語り終わらないうちに人々が暴行を加えて彼を殺したから、彼が語るつもりであった一番大事な項目は語られていない。
 すなわち、イエス・キリストの来臨とその御業、そして苦難と復活について、語る直前に暴力が爆発した。ステパノの説教の中には、キリストについて一ことも語られていないではないか、と異議申し立てをする人はいないと思う。52節の後半が彼の続いて語ろうとすることが何であったかを伝えている。そのように、切り取られたことが分かるので、それを補うことは我々にも出来る。
 使徒の教会においてなされた説教の実例として、我々は2章14節以下のペテロの五旬節説教と、3章12節以下のペテロによる、ソロモンの廊における説教を読んでいる。この後には、ペテロの説教、パウロの説教を読む機会があるが、それらと比べて、ステパノの説教はよく整っていて、頭に入りやすい。そのようにステパノの説教が分かり易くなっているのは、誰かが読みやすいように手を入れたからであろうか。そうではない。筆を入れる人よりはステパノの方が優れた文章家であった。ステパノの口から出た時、すでに明晰な文章のである。
 初期の教会でこれだけの説教がなされたことは、我々を圧倒し、このような説教を行なわせるための備えをしておられた主の計画に、ただただ感嘆して、讃美を帰するほかない。しかし、主によって準備されていたステパノという器について、我々はこの前にも後にも、彼を理解する手がかりになる資料を持たない。
 それは、ステパノがあたかも天使のように、神秘的に、忽然と現れて、短期間活動し、地上を去って行ったということではない。我々が彼のことを知らないだけである。彼には親たちがいたし、彼に道を伝えた教師がいたであろう。また、彼の長い説教をこの直後に始まった厳しい迫害の中で正確に伝承した弟子がいたに違いない。しかし、それ以上のことは全く分からない。
 分からないことがあれば、人間の想像力は刺激されて、軽率な人に知識の空白部分を埋める数々の作り話をこしらえさせる。このような作り話しは、救いに関して何の益にもならないから、我々は真似しないでおこう。また、分からないことがあれば、人々の探求心を刺激し、証明されていないが、「仮説」というものを立てて、事実をもっと深く理解するための試みをする努力が促されることもある。こうして、単に語り伝えられるだけのお話し、励まし、勧め以上の深いものとして学ぶことが出来るようになる場合もある。ただし、その努力が道を踏み外して、聖書の権威を破壊してしまう場合もあるので、注意しなければならない。ステパノに関してはこれまで知られた以上の事実が分かることは多分ないと思う。しかし、彼についての理解を深めることは今後も多少は期待出来る。
 ステパノの説教が神学的に優れていると言ったのは、彼の教理がすでに明快に整っており、単に分かり易いだけでなく、体系を構成しているということである。すなわち、アブラハムに始まる救いの契約の歴史が、そのまま救いの教えとなって語り伝えられて行くという体系である。これはキリストが約束に基づいて来て、御業を成し遂げたもうたことを頂点とする神の救いの働きは歴史であり、恵みのもとに歩む民の信仰の歩みも歴史であって、これは世の終わりまで続くのである。信ずべき教えは項目として継ぎ足されるのでなく、歴史として語られるから一貫性のあるものとして受け入れられ、連続的に受け継がれて行く。
 キリスト教会においては、救いを契約の歴史として捉えることは珍しくはないが誰もがしているわけではない。我々の改革主義の教会は契約の歴史を重んじる特色を持っている。このことについて、今回はこれ以上論じることを控えて、聖書本文の学びに入って行くようにしよう。
 第1節2節、「大祭司は『その通りか』と尋ねた。そこでステパノが言った、「兄弟たち、父たちよ、お聞き下さい」。
 これは、6章11節から14節に書かれたことを受けている。裁判長である大祭司は言う。あなたに対してこういう訴えがある。その通りなのか。答えて見よ。弁明の機会を与える、という意味である。
 相手方はステパノがモーセと、神と、聖所を冒涜する言葉を吐いた、と偽証を捏造して、彼を貶めようとした。そのような理解が如何に間違っているかを、明快に説明しようとした。それも、逐語的に答えて行くのでなく、彼自身の信じている信仰を体系的に説明しようとする。
 今日は、7章のステパノの言葉を初めから「説教」と呼んで来たが、内容的に説教であるだけで、名義上は被告人の弁明である。イエス・キリストは議会でも、ピラトの法廷でも弁明を一切なさらなかったが、彼に随う者もそうでなければならないという訳ではない。キリストの沈黙は例外的なことであって、我々には真実を語って応答することは、むしろ必要なのである。主イエス御自身、マルコ13章9節で、「あなた方は私のため、衆議所に引き渡され、会堂で打たれ、長官たちや王たちの前に立たされ、彼らに対して証しをさせられるであろう。こうして、福音は先ず全ての民に宣べ伝えられねばならない」と言われた。
 「兄弟たち、父たち」と呼び掛けたのは、知った顔を見掛けたからか、そうでなく普通の敬語であるか、どちらとも取れるし、どちらであっても大差はない。23章で、パウロが議会に立ったとき、何人かの知り合いの顔を見て「兄弟よ」と言った。ステパノが秀才であることは確かだから、知人が議員の中にいておかしくない。しかし、確かではないから、これ以上論じても意味はない。
 本論に入る。「私たちの父祖アブラハムが、カランに住む前、まだメソポタミヤにいたとき、栄光の神が彼に現れて、仰せになった、『あなたの土地と親族から離れて、あなたに指し示す地に行きなさい』。そこで、アブラハムはカルデヤ人の地を出て、カランに住んだ」。
 旧約聖書にハランと書かれているところが、ギリシャ讀みでカランとなっているが、読み方の違いは取り上げなくて良い。通常、我々の間では、アブラハムのことを読むのは、創世記12章の初めからとされ、アブラハムの出発はハランからとされることが多いが、ステパノはその前にメソポタミヤからアブラハムの歴史を始めている。その方が詳しいのは言うまでもない。11章31節にこう書かれている。「テラはその子アブラムと、ハランの子である孫ロトと、子アブラムの妻である嫁サライとを連れて、カナンの地に行こうとカルデヤのウルを出たが、ハランに着いてそこに住んだ。テラの年は205歳であった。テラはハランで死んだ」。
 かつては父テラと子アブラハムが御言葉に従って故郷を脱出し、父の死後、子アブラハムはハランから再出発する。いわば、二段ロケットのように、二世代に亘って脱出、出郷を重ね、神の御旨にいよいよ近づこうとした。ステパノは父祖アブラハムをそのような信仰者の模範と見ているようである。
 もっとも、創世記11章31-32節は、使徒行伝7章2節にステパノが引用した文章と同じものではない。テラの名もない。ウルという名も出てこない。アブラハムについて、ステパノが一般に流布したのと別の伝承を受け継いでいたと主張することは要らないと思う。ただ、アブラハムの生き方に深い関心をもっていたと見ることは出来る。
 ステパノは反対派に対して、自分たちの信仰はあなた方と異なっていると主張しようとは考えておらず、むしろ、あなた方の信仰の本筋がシャンとしておればこうなのだと確認させ、その確認の線を貫けば、我々の信仰なのだと言おうとしているからである。しかし、ステパノの言い方はアレキサンデリヤを中心としたユダヤ人グループが重要視した70人訳ギリシャ語旧約の言い方には近いと思われる。
 このほか、ステパノによって引用された本文と、普通に流布されていた本文、また別の文書のこの部分と比較・検討することは、それほどの困難なしに出来るが、聞く人にとっては煩瑣になるので省略する。
 4節5節に入る。「そこでアブラハムはカルデヤ人の地を出て、カランに住んだ。そして、彼の父が死んだ後、神は彼をそこから、今あなた方の住んでいるこの地に移住させたが、そこでは、遺産となるものは何一つ、一歩の幅の土地すらも、与えられなかった。ただ、その地を所領として授けようとの約束を、彼と、そして彼にはまだ子がなかったのに、その子孫とに与えられたのである」。――ここにもステパノの見た信仰の典型としてのアブラハムがよく捉えられている。
 ヘブル書11章が、信仰の証し人の筆頭としてではないが、最も顕著な証し人として、アブラハム、イサク、ヤコブを上げている。信仰とは、まだ見ていないことの確認だと言ったのは、ユダヤ人に通用したかどうか疑問であるが、ユダヤ人の父祖たちが約束されたものをまだ見ていなくても、神の約束なるが故に少しも疑わずに信じたのは正しいというのに同意したことは当然である。
 イエス・キリストの教えにもユダヤ人の信仰が現世的であることを審判しておられる箇所は多いが、これによってユダヤ教とキリスト教との違いを説きたもうたのではなく、聖書の教えに立ち返るべきことを説いておられるのであって、その説き方はこれまで知られていなかった新しいものであったとしても、聖書に示された神の御旨に立ち返ることについては異論はなかったはずである。
 5節までの所で、信仰の最も基本的な柱が立てられた。すなわち、神への信頼と服従、神の前での徹底的な遜り、神の約束の確かさの確認、神から授けられた希望にあくまで立ち抜くことである。見なくても、見る以上に確かであるから疑わずについて行けるのである。しかも、そのような信仰の原型が与えられている。
 神がアブラハムとその子に約束を与えたもうた時、アブラハムの子はいなかった。受け取る相手がなければ、約束が与えられても無意味ではないか、と不信仰の世界では考えられる。しかし、信仰の世界では、約束は信仰をもって受け取られるのであるから、信仰のあるところに約束された現実は確固として立ち、約束を受ける者がやがて立ち上げられる。約束が現実をリードすると言えば良いであろうか。
 信仰者の間で「信仰の継承」ということが言われるのは、信仰の世継ぎになるべき子が生まれたから、それに辻褄を合わせるようにして、信仰継承の型に則って行くということではなく、代々受け継がれるべき約束が先にあるから、子々孫々その約束の中に入って行くということなのである。
 第二の柱としてステパノが捉えたのは、約束には「徴し」が結び付いて打ち立てられるという点である。その徴しは「割礼」であった。約束はそれ自体としては確かなのだが、まだ実現化していない場合が多いから、目で見て確認することは困難である。困難であっても、疑わずに信ずべきだと言われる。それはその通りである。しかし、人間にとっては厳し過ぎる試練になる場合が多い。そこで、神は見えないけれども確かであることを信じさせるために、証しを与えたもう。その証しの確かなものは、旧約の時代から与えられていた聖霊である。証しとしての聖霊が与えられていたならば、約束の実現までなお待たねばならないとしても、すでに得たとの手応えを持つことが出来る。
 証しとしての御霊が、信ずる者に与えられることが確定的に教えられるようになったのは、イエス・キリストにおいてであるが、以前からそのほかに、神はもう一つ、徴しを、約束を信じる信仰を固くするための補助策として与えておられる。これは8節で言われる。「そして、神はアブラハムに、割礼の契約をお与えになった。こうして、彼はイサクの父となり、これに8日目に割礼を施し、それからイサクはヤコブの父となり、ヤコブは12人の族長たちの父となった」。割礼は徴しであった。
 アブラハムに割礼を行うべきことが定められた時、これは創世記17章が記す通り、彼は99歳であった。その時、奴隷女ハガルの生んだ子イシマエルは13歳になっていたが、神はイシマエルを嫡出子とすることを認めたまわず、約束の子イサクが生まれるのを待たせたもうた。そして、その子の生まれる前に割礼が定められたのである。約束は徴しに先立つ。イサクの誕生について言えば、子孫一般についての約束が与えられ、約束の徴しが与えられ、また当然、約束を信じる信仰が与えられ、その後、約束の子の誕生があったのである。
 神は土地を与える約束の成就の前に長い苦難があることをアブラハムに予告したもうた。6節に記されたことであるが、「彼の子孫は他国に身を寄せるであろう。そして400年の間、奴隷にされて虐待受けるであろう」。7節、それからさらに仰せになった、「彼らを奴隷にする国民を、私は裁くであろう。その後、彼らはそこから逃れ出て、この場所で私を礼拝するであろう」。
 土地を与えるという約束にはエジプトで400年間奴隷となることの予告が結びついていた。これは創世記15章13節の言葉である。「時に主はアブラハムに言われた、「あなたはよく心に留めて置きなさい。あなたの子孫は他の国の旅人となって、その人々に仕え、その人々は彼らを400年の間悩ますでしょう。しかし、私は彼らが仕えたその国民を裁きます。その後彼らは多くの財産を携えて出て来るでしょう」。
 「この場所で私を礼拝するであろう」という言葉は、創世記のアブラハムの物語りにはなく、モーセがミデアンで燃える柴のなかにいます主なる神と出会った時、出エジプト記3章12節で聞いた言葉である。「あなたが民をエジプトから導き出した時、あなた方はこの山で神に仕えるであろう」。
 言葉が違い過ぎるではないかと思う人があるので説明するが、出エジプトの本来の意味は神礼拝のためである。イスラエルの民を去らせよと神が繰り返しパロに命じたまい、ついにパロはそれに従うのであるが、出エジプト記8章から9章にかけてモーセは繰り返しパロに語る。「主はこう仰せられる。私の民を去らせて、私に仕えさせよ」。すなわち、エジプトを出ること、自由になることは神に仕えるためであって、エジプトを去ってホレブの山に行ってこそ神に仕えることだというのではない。
 これらのことが全部綜合されて、信仰の父としてのアブラハム像が描き上げられる。それは追求すべき理想像というふうに取ってはならない。むしろ信仰者の原型である。だから、その子たちは父のように歩き続けるのである。

 


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