2005.12.18.

 

使徒行伝講解説教 第41

 

――6:8-10によって――

 

 

 6章8節から7章60節まで、ステパノに関する記事が続く。ステパノについては、信仰と聖霊に満ちた7人の人の筆頭として聞いている。7人とも傑出していたらしいが、その中でもステパノは優れていた。貧しい寡婦の食事の面倒を見る仕え人として立てられた人である。
 そのステパノの活動の期間は短かったと見られるが、その働きは言い伝えとして残り、説教のほぼ全文、そしてその処刑、すなわち殉教について、使徒行伝は紙面を割くことを惜しまなかった。あるいは、こう言っても良いだろう。使徒行伝の記者ルカはこの書物を書くとき、ステパノに関する資料を編集し直すことなく、ソックリそのまま採り入れた。ステパノの印象が強かったのである。
 そういう事情があるので、6章5節のステパノと、8節のステパノは勿論同一人物であるが、彼について言い伝えた伝承は、6章8節以下と6章の初めと二つしかない。その他にもあったかも知れないが、彼の裁判と処刑をキッカケにキリスト教迫害が本格化したため、言い伝えは失なわれた。とにかくこの二つは別々の系列のものである。したがって、先に描かれた寡婦の世話をするステパノ像と、6章8節以下のステパノ像が連続しているようには見えにくい。それにしても、彼の記録がどう扱われたかについて、立ち入った議論に時間を掛けることはしないでおく。意味のある議論にならないからである。我々は単純に「ステパノ殉教記」を学ぶようにしたい。
 ステパノがキリスト教における殉教者第一号であることは昔からズッと記憶され、注目されて来た。そして、教会の中では殉教者が覚えられる時、それに先立って主イエスが十字架を負って行きたもうたということが確認されている。と言うよりは、我々の主イエス御自身が多くの箇所においてそのことに触れておられる。
 「私のために人々があなた方を罵り、また迫害し、あなた方に対し偽って様々の悪口を言う時には、あなた方は幸いである。喜び、悦べ。天においてあなた方の受ける報いは大きい。あなた方より前の預言者たちも、同じように迫害されたのである」。山上の説教の一節である。
 ヨハネ伝15章18節でも言われた、「もし、この世があなた方を憎むならば、あなた方よりも先に私を憎んだことを知っておくが良い」。
 キリスト者は主イエスの恩恵に与るだけでなく、彼の後に続かねばならない。後に続くとは、愛、奉仕、聖潔、遜りと貧しさにおいて彼の模範に倣って生きること、などだけでなく、苦難をも共にするのである。5章41節で、「使徒たちは、御名のために恥を加えられるに足る者とされたことを喜びながら議会から出て来た」という記事を読んだ。使徒たちは信ずる人が増えて行くことで喜んだではあろうが、それよりも主のために、主と共に、恥を忍ぶようにされたことを喜びとしたのである。このようにしてキリストと共に苦難を受けることを通じて、キリストの後に続いて勝利と喜びと歓喜に入ることの確認が出来たのである。
 使徒たちは議会で鞭打ちの刑を受けたことを喜んだが、ステパノはさらに進んで、石で打ち殺される刑に処せられた。彼が罪なくして殺されるとき、主と同じ扱いを受けることとして喜んだとは書かれていないが、或る意味では喜びであったと我々は確信をもって読み取る。これは教会にとって、合戦における敗北ではなく、むしろ勝利であった。そういうことをこのステパノ殉教記で学ぶのである。
 しかし、その学びに入る前に、もう一つのことをシッカリ見て置かねばならない。このことが捉えられていないならば、殉教の時代に、熱心には熱心であり、純粋さや献身の点で見事と言うほかないことが行なわれ、人々に衝撃的感化を与えたとしても、それが本当に信仰の証しあったと呼べるかどうか、という問題が起こる。殉教を高く持ち上げすぎると、キリストの恵みが曖昧になって行く恐れがある。
 ここで、信仰者なら誰でも知っている物語り、アブラハムがイサクを燔祭として捧げようとした物語りを思い起こしておきたい。神はアブラハムの信仰を試そうとして、彼の最も愛するものであるイサクをベエルシバからモリヤの山まで出向いて捧げることを求めたもうた。アブラハムにとっては、自分が死ぬよりも辛いことであるが、神に従わざるを得なかった。彼は神の求めたもうことをその通り実行した。しかし、彼の刀がイサクの心臓に突き刺さる寸前に、神の使いの手がイサクを守った。
 そして、アブラハムは山に登る途中、イサクから、「火はある、薪もある。だが生け贄の小羊はどこにあるのか」と問われ、「主がそれを備えて下さる」と答えたのであるが、神は実際、そこに小羊を備えておられた。
 これは神がアブラハムを試みようとしてなされたことであると創世記は書いているが、神がいわば芝居を打って、あるいは、いわば賭けをして、僕アブラハムの信仰を試み、結果として一段昇格させたもうたというふうに解釈してはならない。
 ここには我々の知恵を遥かに越えた神の意志があり、真理があるので、人間の目には全く非合理としか見えないかも知れない。けれども、結論として言うならば、神のなしたもうたことこそ真理であった。
 すなわち、神はここで何が捧げ物であるかを示したもうた。捧げる側にとって、出血の多いほど真実な捧げ物ではあるまいか、という考えが真面目に考える人にはあるであろう。真面目であることは確かかも知れない。だが、それが真の捧げ物であるかどうかは別問題である。それは人間がそうだと決めただけである。カナンの地に実際にあったことであるが、モロクという神を拝む宗教では、子供を生け贄として焼いて捧げよと命じ、人々はそれに従っていた。
 アブラハムが自分の命を犠牲にして献げたならば、人はそれを最高の犠牲と言うかも知れない。実情は、百歳を越えたアブラハムにとって、親しかった人たちの後を追ってこの世を去ることは、ごく平静に受け入れられることであって、イサクを犠牲にする方が自分の死よりも余程辛かったのである。それだけに、価値の高い捧げ物であった。そして、それを神は却けたもうたのである。結論として我々が知るのは二つのことである。一つは、人間自身の犠牲の大きさが捧げ物の価値の尺度ではなく、むしろ、神御自身こそが全き犠牲を備えて、捧げさせたもうのである。つまり、人の捧げ得る最大の犠牲が最善なのでなく、神が御子において最高の犠牲を我々のために備え、その犠牲を受け入れて和解したもうたことこそが尊いということなのだ。殉教というものをこういう観点から捉えなければならない。
 死が最高の犠牲であるという考えがいろいろな宗教、また社会の中にある。例えば、イスラムの或る宗派の若者が爆弾を体に巻き付けて人混みの中で自爆して多くの無関係な人までを殺す。これを純粋で崇高な宗教的行事だと評価する人がいるから、自爆テロはなくならない。似たことは我々の身辺でも起こっていた。かつては国を守るための特攻隊という手段が考え出され、考えた人は生き延びたが、踊らされた若者たちは大量に死んだ。そして国家のために死んだ者は国家によって神として祭られ、その道徳的責任は不問に付された。さらに、国家の道義的責任も神になった者のしたことであるから責任を問うてはならないことになる。結局、敗けたことについての賠償は戦勝国に対して払うが、それ以外の国の国民の被害については全く考えない国民を作り上げてしまう。他国から非難されても、言われている意味が分からない。
 キリスト教の中に根強い殉教者崇拝も、キリスト教を活性化するためにはなかなか有効であるが、イエス・キリストの十字架の死によって罪が贖われているという根本的真理をしばしば曇らせてしまう。殉教者が崇められるために、キリストがその中の一人になってしまい、彼が私に代わって罪の償いをつけて下さったことの決定的な意味が見えなくなる。また、殉教することを罪の償いのための功績であると思ってしまう。
 キリスト教の殉教者は加害者でなかったから、殉教礼賛の感化によって神の名による他者への攻撃を助長するという弊害は少ないかも知れない。しかし、受難した人が受難の故に尊ばれることは、受難者を作り出す悪が、受難者の崇拝を利用して、次々国家のための受難者を生み出して行くのを止めることが出来ない。殉教についてはキチンとした姿勢で対処しなければならない。
 もう一つアブラハムのイサク奉献から学ぶべき点は、ヘブル書11章19節が教えるように、「彼は、神が死人の中から人を甦らせる力がある、と信じていたのである。だから、彼はいわばイサクを生き返して渡されたのである」。ヘブル書の解釈はアブラハムの奉献が神に捧げ尽くすというよりは、神から復活の命の保証を頂くことであったというものである。
 殉教は、最高の犠牲である自分の死を、神に捧げる服従の行為のように見えるとしても、もっと大きい命の始まりである。7章の終わりで「彼は眠りについた」と読む。それは死とは区別された眠りと呼ばれる。言い方を換えても死の同義語であると言うなら、それはそうかも知れないが、死の呪いも毒も抜き取られた死であって、約束された祝福の目覚めの時を待つ態勢に入ったという意味である。
 以上は今日の学びの本論に入るための前置きであった。要するに殉教を重視し過ぎてはならない。殉教の意義を強調しなければキリスト教が世俗化すると言う人はいるだろうが、殉教の強調自体が世俗思想なのだ。
 8節に入って行こう。「さて、ステパノは恵みと力とに満ちて、民衆の中で目覚ましい奇跡と徴しを行なっていた」。
 この文章は先に7人の名が上がったことに続いている記録ではない。もう一人のピリポのことも後で8章5節以降に語られるが、それはステパノの記事の続きとして読むのではない。後5人の業績はどこにも出て来ない。したがって、少なくともこういうことは言える。7人が選ばれた記事に続いて、その人々の働きを書こうとしてルカがここを書き始めたのではない。
 ステパノが恵みと力に満ちていたことは、先の節の「信仰と聖霊とに満ちた人ステパノ」という記事と言葉としては同じでないとしても、言葉の内容としては十分繋がっている。先の「信仰と聖霊に満ちた」というのはステパノについてだけ言ったものではなく、7人全部に通用する。そして、その前の方で3節には「御霊と知恵とに満ちた、評判の良い人7人」と言っているから、別の捉え方をしたとは言えない。
 恵みと力に満ちたというのは、霊の賜物が豊かにあって、それで大いなる業をなしたという意味である。知恵も霊の賜物としての知恵である。
 8節にあるステパノの働きは、彼が他の6人と共に使徒によって按手を受けてからであったか、すでに顕著な働きをしていたから、7人の筆頭として選び出せたのかどうか。それは分からない。奇跡と徴しを行なったというのは、病の癒しとか悪霊払いのようなことをしたことだと思うが、ここで読む限りは、彼の働きの主たるものはギリシャ語を用いるユダヤ人の間での議論で、全ての反対論を議論によってねじ伏せたことである。
 議論によってキリストの真理を明らかにすることが、かつては重んじられていたが、今日では議論しない穏和さによって、キリスト教が受け入れられる方が本当ではないかという考えが強いらしい。これは教会が流れに流されて自分を失う、いや、キリストを失なうことに連なるのではないか。誤謬と戦ってそれを消滅させ、真理を貫くだけの議論の能力を至急取り戻さなければならない。
 9節10節にこう書かれている。「すると、いわゆる『リベルテン』の会堂に属する人々、クレネ人、アレキサンドリヤ人、キリキヤやアジヤから来た人々などが立って、ステパノと議論したが、彼は知恵と御霊とで語っていたので、それに対抗出来なかった」。
 先ず、ステパノが対論した相手であるが、初めに出て来るのは、いわゆる「リベルテン」の会堂に属する人々。「いわゆる」というのは正式の名称でなく通称であるから、よく分からないのであるが、「リベルテン」というのは「解放奴隷」というラテン語をギリシャ風に綴ったものである。解放奴隷とは、奴隷であったが自分で自分を解放するだけの身代金を払ったか、または人に払って貰って自由人になったか、とにかくそのような人である。解放奴隷たちの集会する会堂があったのか、解放奴隷の会堂ではないが、会堂がそう呼ばれただけなのか、分からない。
 すでに触れたことであるが、ユダヤ人は、エルサレムにおいても、どの町でも、国外でも、定住する場合は、所属する会堂を決めて、その共同体の中にいたようである。そして、会堂ごとに思想傾向が違うという場合があった。学派という呼び方が適当かも知れない。今書かれているのは、そういう考えの違う人の間にキリスト教に対する反対の機運が特に強かったことを表しているのではないかと思う。
 さらに、9節に関しては、重要なことではないが別の読み方が出来る。新共同訳では「キレネとアレクサンドリヤの出身者で、いわゆる「解放された奴隷の会堂」に属する人々、またキリキア州とアジア州出身の人々などの或る者」と二つのグループに纏められるように書いている。この方が正しい讀みだと思うが、それによって何か分かったことがある訳でもない。
 ステパノの神学思想、その聖書解釈については、7章の説教で骨格を知ることが出来るが、旧約聖書のシッカリした解釈をしている。私自身まだ学びが足りなくて、キチンと説明することは難しいが、救いの歴史を物語ることによって救いの確かさを捉えさせるように論じる論法を取っている。これだけの説教が出来たということは、どこかの学派に属し、聖書の高度な勉強をしていたということであろう。だが、どの学派と関係が深いかについては私には知識が不足していて判断が出来ない。
 比較に上げられるのは、キリキヤで生まれ、そこでギリシャの哲学を学んで、長じてエルサレムに上って、パリサイ派のラビ・ガマリエルについて学んだパウロである。ステパノにはパウロと幾らか似た経歴があったと想像され、その思想傾向は同じではない。ステパノも外国育ちであったのではないか、相当に高度な神学教育を受けたのではないかと考えられる節がある。8章1節には「サウロはステパノを殺すことに賛成していた」という、気になる言葉がある。パウロがステパノと論争した相手の一人であったことは当然だと思う。しかし、どういう論争であったのかは想像がつかない。
 ステパノが論争して負けなかったのは、ここに書かれているように聖霊の力によるのであるが、彼の知力、学力も卓越していた。10節にある「知恵」はそのような意味の知恵であろう。神から受けた知恵であって、遺伝子や環境によるものではないが、使命の故に賜物が加えられ、その賜物としての知恵が磨かれてお役に立ったのである。
 彼が論争した人たちの属した会堂の名、あるいは出身地の名を見ると、キリスト教の初期の信者を生み出した地方である。クレネの名は主の十字架を担いだシモンを思い起こさせる。アレキサンデリヤの名は伝道者アポロを思い起こさせる。キリキヤはパウロを思い起こさせる。それぞれの地にキリスト者と反キリスト者が出たのである。その結末がどうなったかまでを我々は今問わなくても良い。教会の初めの時、主は奇しき業を行なって、教会を根付かせたもうたのである。その御業として奇跡もあったが、議論に勝つ知恵があったことも忘れてはならない。

 


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