2005.12.11.

 

使徒行伝講解説教 第40

 

――6:7によって――

 

 

 使徒行伝を讀み進んで来たが、福音の宣教が息をつぐ暇なく展開して行くのに、辛うじてついて行くという感じがあった。大いなることが起こっている。それは予告されていたことであるから、当然のことである。謂わば、せき止められていた水が一挙に押し寄せて来るような、我々の貧弱な理性では捉えきれない、ただただ驚いているほかない出来事であった。

 今日は6章7節だけを読む。ここまでの所に書かれていたのは、眼前に起こっている事実の記述であった。しかしここでは、目に見える出来事が示されるという形ではない。もしろ、目を閉じた時、今起こっているのはこういうことだったのだと悟られ、整理がつく、そういうことが書かれている。

 先ず、「こうして、神の言葉は、ますます広まった」と書かれる。

いろいろな人々が驚くべき大いなる出来事に参画していた。「使徒行伝」という名がついたように、使徒たちが働いていた。しかし、使徒たちの働いているこの現場には何千人もの参加者がいた。もし、こういう場面を映画に再現しようとすれば、何千人もの人を動員し、その一人一人の役を割り当て、建物のセットを作らなければならない。それはそれで意味のある仕事かも知れない。しかし、我々は、「神の言葉がますます広まった」ということだけを学ぶ。

「神の言葉がますます広まる」。――それは何千人もの人を雇い入れて起こす事業よりズッと簡単であると思う人がいるかも知れない。が、事柄の重大さは、何千人もの人を集め、一人一人の役割を決めて、始める仕事よりは大きい。

しかも、神の言葉が広まって行った事実を思い見るためには、大袈裟な仕掛けは必要ではない。我々は聖書一冊を開くだけである。例えば、何千人もの人に集まって貰って、彼らに手を繋いで貰って、あるいは彼らに一斉に讃美の声を発して貰って、かつてのエルサレム教会の人々が感じていた連帯感を再現しなければならないというようなことは要らない。一人だけでも、聖書を読み、その内容に肉迫することは出来る。だから、そのように聖書を読み取る訓練こそ重要である。

神の言葉がますます広まって行くという現実は、あの当時、目に見えた通りを今思い見ればよいということではない。目に見えたことだけでないものがある。それ以外のことにも思いめぐらさなければならない。

すなわち、第一に、神の言葉がますます広まるとは、山火事が広がったり、洪水が広がったりする出来事と同じではなく、語る人々がいて、語るべき言葉を語るに相応しく、大胆に、憚るところなく語って、その言葉が聞かれて、語る人と聞く人との連帯の輪がますます拡がって行ったということ、教会の群れが大きくなって行ったということである。

このことの理解のためには、第二に、その時まで神の言葉は地上にあってどうであったかを捉えなければならない。神の言葉がこの時代において、忽然と働きを始めたわけでないということが分かっていなければならない。神の言葉は歴史を作って来た。

第三に、神の言葉の進展が、この後、世の終わりに至るまで、如何に継続するかについて、我々はすでに幾らかのことを学んでいるのであるから、それをここで思い起こし、捉え直さなければならない。今日学ぶのは、エルサレムにおける弟子の数が増えたことだけであるが、地の果てまで伸びて行くことも目に見えて来るのである。

第四に、神の言葉がエルサレムから始まって、地の果てまで拡がったことを私が驚嘆して眺めているのでなく、御言葉が私の魂の内にまで達し、私も輪の内に加わっていることを忘れる訳には行かない。

使徒行伝を読んでいて、これまでは、人の動きに目を取られたかも知れないが、今、我々が思いを集中しなければならないのは、人の動きでなく神の言葉である。

さて、この「ますます広まる」と訳されている動詞は、広く用いられる言葉ではないが、使徒行伝には3度、同じ言い方で出て来る。すなわち、ここ以外に12章24節では、「こうして主の言葉はますます盛んに広まって行った」と言う。19章20節には「このようにして、主の言葉はますます盛んに広まり。また力を増して行った」と書かれている。ルカが好んで使った特徴ある言葉である。いずれも、「御言葉」を主語としている。

人が語ったのだから、誰が、どのように語ったかを言うべきではないかと思われるであろうが、語る人の顔は見えない。勿論、顔はある。誰が語ったかは分かる。しかし、ここでは誰がそれであるかは、問題にならなくなっている。実際、我々が己れ自身の救いを捉えようとする時、誰を通じて御言葉を聞いたかは問題にならなくなる。御言葉がまさに御言葉であることは不可欠であるが、御言葉に救いの力があるのであって、語った人の力で救いが実現するのではない。もし、語ってくれた人にこだわっているならば、救いは消えてしまうであろう。

簡単に経過を述べるならば、御言葉の宣教の行なわれる所に、教会が建ち、教会が救いの業を公布する。そこに人々が集まって来るのだが、このことを結果によって示すのではなく、御言葉そのものの成長、増大と書くのである。神は世界とその中にある全てのものを御言葉によって創造された。神が「光りあれ]と言われると光りがあった、と創世記1章3節は言う。ヨハネ伝も、「初めに言葉があって、それによって全てのものが出来た。言葉に依らないでは何も出来なかった」と言っている。

教会も御言葉によって創造されたと受け取って良いであろう。言葉のない所には教会は出来ない。しかし、御言葉が語られることによって全ての物は出来たのであるが、そのことを造られた全ての物体が自覚している訳ではない。「海よ、お前は御言葉によって造られたことを知っているのか」と問うても何の反応もない。しかし、教会は御言葉によって出来ていることを知っている。それを知らなければ、教会でない何か別のものである。

ということは、教会は神の言葉を聞くことが出来、御言葉に対して応答できるものであったから、御言葉のもとに結集できたということであろうか。そうではない。御言葉が語られても、またそこに人がいても、何も応答がない場合もあるではないか。聞くことの出来る人がすでに備えられていなければならなかった。創造という御業と別に、その前に、またそれと別の次元のことがあったからである。

さらにこのことと関連して考えねばならないのは、神の定めて置かれた「時」が来なければ、御言葉があっても、また、そこに神の選びを受けた人がいても、応答は始まらなかった、ということである。その「時」は定められていたと、我々は確信をもって言うことが出来るのであるが、結果についてそう言えるだけで、その時が来ないうちは我々にもそれが何時来るか分かっていなかった。

時について今なお我々には十分分かっていないことがある。だから、「主よ、この苦しみはいつまでですか」と問わねばならない場合、あるいはそのような問いをどう発するかも分からない場合がある。しかし、我々は大まかに言うならば、「時を知る者」とされている。すなわち、今は救いの日であり、恵みの時であることを知っている。終わりの日がいつ来るかは分かっていないが、すでに始まった救いの御業の完成する日は必ず来るのであると確信している。

次のテキスト、「エルサレムにおける弟子の数が非常に増えて行った」。

「弟子」というのは、信仰者、信者、あるいは教会員というのと同じであることを我々は良く知っている。「使徒」とは別の人と見て良いであろう。しかし、使徒が働き手であって、弟子はその働きの実、対象、客体、お客であったと取ることは止めなければならない。使徒だけが働き手でなかったことを我々はすでに知っている。昨日までお客であった人が今日は働き手になっているという現実がある。

確かに、ここで語られているのは、エルサレムの中だけのことである。エルサレムの外まで福音の宣教は広がっていなかった。ガリラヤでは主イエスがすでに伝道を始めておられたし、或る意味での弟子にすでになっていた人は前からおり、祭りでエルサレムに来て、そのままここに残った人もいたに違いない。また、使徒たちもガリラヤ出身であって、ガリラヤとの繋がりなしにエルサレムの伝道が進んでいたと言えないのではないかと思う。それでも、まだこの時点では使徒が復活の主に派遣されて行くことはなかった。使徒とは派遣された者という意味であるから、使徒はまだ本格的な使徒と呼べないのではないかと考える人もいるであろう。それでも、使徒たちはエルサレムの中だけであっても、遣わされて御言葉を語っていたのである。

追随者を弟子ということは一般にあったようである。ナザレのイエスが未だ世に現われておられなかった時、バプテスマのヨハネがヨルダンに現われて、罪の赦しを得させる悔い改めを宣べ伝えていたが、彼も弟子の一団を引き連れていた。先生と弟子の関係は一様ではなかったと思うが、イエス・キリストの弟子の場合、主が「私についてきなさい」と言われる者が正式の弟子で、それは主のあとに従い、寝食を共にする集団を作る人たちであった。それよりはゆるい関係の弟子も、弟子として受け入れられていたが、弟子は群衆とは区別されていた。

教えを受ける時だけ「弟子」と呼ばれ、教えの時間が終われば何でもない人になるのではなく、弟子になるということは、生活の変革であった。2章44節に、「信者たちは皆一緒にいて、一切の物を共有にし……」と書かれていたが、この信者は弟子というのと同じであった。一同が同居する生活をしていたと考える必要はないとしても、そのうちのかなりの部分は共同生活をしていた。

弟子のことを「クリスチャン」と呼ぶのはアンテオケで始まったということを、11章26節で教えられているが、我々は今日「弟子」という呼び方はせず、キリスト者と言っている。しかし、教会でときどき会っているというのでは弟子同士の関係ではない。常時一緒というのでなくても、共通の目的に向かって生きていることが必要である。

この弟子の「数が増えて行った」と言われる。

数が増えるのを意味のないことと見るべきだとは思わない。時として弟子の数が減ることもある。ヨハネ伝6章の初めでは男の数で五千人が集まって主のなさるパン割きに与った。彼らはカペナウムまで随いて行くが、翌日には12人の弟子だけが残って、他は皆離れて行った。それは無意味な時、失意の時と見るべきではない。

預言者イザヤの弟子も少数であった。しかし、むしろ少数の者がイスラエルに対し徴しとなるのだということが示された。だから、少数であることを恐れる必要はない。少数者の方が真実な奉仕が出来る場合は多い。しかし、イザヤ書8章で読んだように、少数者であることにつねに勝利があると見ることも正しくない。イザヤが言ったように、主が御顔を隠したもう時、証しとして立つのは少数者である。今この6章の場合はそれと別だ。主は早急に地上に教会を建て上げようとしておられる。教会はエルサレムにだけしか建っていない。

この次には8章に書かれていることであるが、ステパノの殉教があり、エルサレムに大迫害があり、使徒以外の者は悉く散らされてしまった。しかし、それで教会が散り失せたのではなく、散った人たちは散った先、散った先で宣教活動を行い、結果としてキリスト教の大躍進になる。それは、これまでに増えていたから、散っても散り失せなかったのであろう。

9章31節には、「こうして教会は、ユダヤ、ガリラヤ、サマリヤ全地にわたって平安を保ち、基礎が固まり、主を恐れ、聖霊に励まされつつ歩み、次第に信徒の数を増やして行った」と書かれている。これは教会の発展を描いた文章の一つの段落であって、6章7節とはかなり違ったものになった。

エルサレム教会だけでなく、エルサレムを中心としたユダヤ教会が建った。カペナウムを中心としたのであろうか、ガリラヤ教会も、スカルが中心になったと思われるがサマリヤ教会もその頃には出来ていた。そして、この三つの地域教会が出来、それはまだ三つの中会というほどの制度も機能も整えてはいないが、やがて三つの中会が一つの大会を作るようになって行く。そうなるまでは急いで教会を作ることは必要であった。

教会が健全にまた強力になることは望ましいことであるが、教会が大きくなることがそのまま健全また強力になるということではない。むしろ、教会が大きくなって行くことによって、霊的に疲弊して行くという実例を見ることが多くなっている。しかも、教会を数量的に判定して、教会は大きくならなければウソであるという思い込みが広まった。

「祭司たちも多数、信仰を受け入れるようになった」と次に言われる。

これは興味深い記事である。ユダヤ教の伝統の中核部をなすのは、一方ではパリサイ派の律法学者で、このパリサイ派の中からある程度の数の人がキリスト教会に改宗したことはこの後にも何度か見るであろう。それと反対側に祭司たちがいた。彼らの神学、あるいは聖書解釈原理はサドカイ主義であった。サドカイ主義は死人の復活を認めないから、キリストの復活を信じることは難しいのではなかったかと思われるが、サドカイ派でなくても、イエスをキリストと告白することは難しいのであるから、祭司には無理であったろうと推測しても意味がない。

異邦人からの改宗者も含めて、生き方を抜本的に変える人が出た時代だということを考えよう。それはまさしく真の精神革命の時期であった。その時期に祭司が家代々の務めを抛棄することが起こったのである。

祭司たちの入信の実状がどうであったかについて、殆ど分かっていない。「多数」とはどれほどの人数であったか、想像もつかないのである。ただ、少なくとも、祭司というような階級は、古い宗教の形式を守るだけで、生命は失われていた人たちだ、というふうに固定的に考えない方が良い。今日のキリスト教にもいろいろあるが、昔のユダヤ教のほうがもっとまともであったかも知れない。

新約聖書の中のヘブル人への手紙、これはキリスト者になったヘブル人に宛てられた手紙であることは言うまでもなく確かである。これがキリスト教の教理を述べる質の高い理論書であることも議論の必要のない確かなことである。その人たちが以前は祭司でなかったかと思われる節はいろいろある。すなわち、祭司職についての神学的理解は新約の諸書の中では最も詳しい。この書の著者は祭司職についての理解は特別に深かったから、この著者は祭司であったであろう。

これ以上、もと祭司だった人について想像をめぐらせ、議論をしても殆ど益がないから、ここに書かれていることを受け入れるほかない。祭司がクリスチャンになる時、何かを捨てたのか。確かに、祭司の司るもろもろの儀式がキリストの死によって破棄されたことを認めなければならなかった。儀式への執着があったかも知れないが、彼らはそれを捨てることは出来た。祭司が祭司職を捨てたということは、祭司職がキリストの十字架の死によって全うされたから、もう祭司は要らなくなったということの証しであった。こうして、元祭司であった人たちはキリストの死とその死によって全うされた全き犠牲、そして贖いの完成を証ししたのである。


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