2005.01.09

 

使徒行伝講解説教 第4

 

――1:9-11によって――

 

 「こう言い終わると、イエスは彼らの見ている前で天に上げられ、雲に迎えられて、その姿が見えなくなった」。
 この場面を、目の前に見るように思い描こうと試みた人がいるかも知れない。その試みは全て失敗した。ほかの場面、例えば、主イエスが十字架を負って道を行きたもう場合、この情景を描こうとすれば、美術の心得のない者には至難であるけれども、とにかく描くことは不可能ではない。主はそのような姿を人々の中でとっておられたから、これを描くなと禁じるのは無理である。
 しかし、キリストの昇天を描くこと、これは出来ない。むしろ、してはならない。神は第二戒において、ご自身の姿を偶像に刻むことを禁じたもうた。――刻んではいけないが、描くことなら宜しいのだと解釈する教会があるが、出鱈目な解釈である。見えない神を見える物として模写してはならないのである。栄光の神を人間の手で模写することが禁じられたのである。主イエスが天に昇りたもうたとは、模写することが人間に禁じられている領域に移りたもうたという意味である。
 地に足をつけておられた限り、主の姿を地上的な形として捉えることは出来たし、それは当然、絵にもなる。ただし、絵にすることが勧められるかどうかは別の問題である。ところが、主の足が地を離れた時以来、去って行かれたお方を、もはや絵に描くべきでない。どんなに崇敬の気持ちを込めて描こうとしても、それは遊びと同じ次元の作品にしかならない。だから、絵に描いた方が分かりやすいと思ってはならない。言葉でなら問題なしに伝達されることであるが、絵にしたために品の落ちたイメージになる場合があるが、ここではむしろ、そうしてはならない、と弁えなければならない。目を上げても見えないお方である。心を上げるほかない。
 肉体をとって世に降り、人々の間に住みたもうた限りにおいては、それを描くことが出来たと言えよう。しかし、考えてもらいたい、人に見られたもうたままに、使徒時代の初期からキリスト像が描かれ、その姿が連綿と正確に伝えられて来たか。そうではない。キリスト教会がキリスト像を描くようになったのは、何百年も経って後である。伝えられ受け継がれて来た御姿があったのなら兎も角、何百年もの後になって、全くの空想画として描かれはじめた。描いた人は心を籠めて描いたかも知れないが、そこには聖書が教えるのとは違った信仰が始まっている。そのような絵画は人となりたもうた御子をありのままに伝えたものではなく、実際に見られたものとは関わりなく、人間の願望の投影にほかならない。したがって、教育的成果を上げることは出来ない。教育に役立つという口実は虚偽である。
 天に昇って行かれたから、見えなくなった、と使徒行伝1章には記されているが、追い掛けて行くことの出来ない、遠い所に行かれたと取っては正しくない。必ずしも遠くに行かれたのではないのである。「私は世の終わりまで、常にあなた方と共にいる」と約束された通りである。誰よりも近くにいて、助けて下さるのである。「天」というのは、人間の表現能力をもって考え得る最高のところではあったが、人間の知恵の貧しさ故に、そのように書くほかなかったということなのである。だから、意味を取り違えるおそれが常にあることを弁えなければならない。
 「天」という時、二つの意味があると考えるべきである。一つは父のみもとという意味である。「天に昇り、全能の父なる神の右に座し」と古代教会の信条は表明したが、父の栄光、父の権能、父なる神の本質、摂理、全能の支配、神のみの有したもう力の一切を、父のそばで、父とともに持ちたもうということである。礼拝の対象となりたもうたことがここで明らかにされる。彼が礼拝されたもうお方であることは我々にはすでに分かっていたし、彼が礼拝された実例はここまででも決して稀ではない。しかし、この時から、彼は父とともに礼拝されるお方である。
 福音書においては彼が僕の形を取りたもうたその状態のことが語られる機会が断然多かった。しかし、今はそれとは違うのである。低くなりたもうた形をここに混入してはならない。
 「いつも、あなた方と共にいる」と約束されたことを、天にはいないで、どこか地上の、あなた方の知らないところから見ている、というふうに解釈してはならない。それではまるで守り神信仰と同じである。
 もう一つは、主イエスが人間の表現能力、模写能力、把握能力を完全に越えてしまわれたという意味がある。人間の表現能力を完全に越えたもの、それを我々は「栄光」という言葉で表す。これは讃美するほかないのである。だから、見て信ずるのではなく、見ないで信ずるのである。すなわち復活の証人である使徒たちの証言を聞くことによって、信じ、また知る。それだけで満足するのである。
 つまり、もはや目で見ることは出来ないのである。だから、御言葉と御霊によらなければ、彼を知ることは出来ないし、彼との交わりは持ち得ないことになった。「あなた方と、いつも、共にいる」と言われたことは、見て信ずるのでなく、御言葉と御霊によって確認することになった。そういう大々的な切り替えが行なわれたのである。
 さて、与えられたテキストに戻って学んで行こう。「こう言い終わると、彼らの見ている前で天に上げられた」。
 天に上げられた人として我々の知るのは、先ず、エノクのケースであるが、彼に関して、創世記5章24節には「神が彼を取られたのでいなくなった」という記述がなされている。そこに述べられている系図では、一人一人について「そして彼は死んだ」と繰り返されるのであるが、エノクについてだけは「死んだ」と言われない。死なないで、生きたまま天に取り上げられて、そちらで生き続けるという意味である。これは死を克服することがあった一つの例であって、我々がそれに続くと考える必要はないが、死が全能でないことは知り得る。
 次に、申命記の終わりで、モーセの死が語られるが、この場合はハッキリ「死んだ」と書かれている。ただ、主が彼を葬られたのであって、今日までその墓を知る人はいないと付け加えられる。そこで、モーセは地上で死んで葬られたのでなく、天に上げられたのだという物語りが作られるようになった。だが、聖書の正典の中にはそういうことは書かれていない。
 列王紀下2章11節に、預言者エリヤの最期が記されている。エリヤが後継者エリシャと語りながら歩いている時、火の車と火の馬が現われて二人を隔て、エリヤはつむじ風に乗って天に昇ったという。これを作り話であると思う必要はない。だが、極めて重要な教えが含められていると見る必要もないであろう。そう我々は判断する。エリヤが生きたまま天に上げられたのだから、また天から降って来るのではないか。それがメシヤの来臨の先駆けになるのではないか、と考えた人は少なくない。この話しは主イエスも触れておられるが、今日の学びと関係のないことだからこれ以上は触れない。
 それらの人々の昇天は、みな救いの歴史の本筋でなく、挿話として語られた。それとは違って、イエス・キリストの昇天に関しては、信仰の要点となるべき所が十分ハッキリ書かれている。ハッキリ書かれているというのは、絵に描くことが出来るほど詳しく描写されているという意味ではない。我々のキリスト理解を明確なものとするに必要なことは、全部教えられているという意味である。
 先ず、主イエスが「語り終えられた」のである。エリヤの場合のように、話しているさ中に、いきなり取り去られたのではなかった。思い起こされるのは、ヨハネ伝の十字架のくだりで、主が「全ては終わった」と宣言して、死にたもうた、と言っているところである。これは福音書の伝える重要な事実だと思う。全てをなし終えて、主は息を引き取りたもうた。それと同じように、今日学ぶ所でも、主は語るべきことは全部語り終えてから天に上げられたもうた。「待って下さい」と言って追いすがる必要はもうなかった。地上における彼の務めは全部済んでいる。
 彼がみんなの「見ている前で」去って行かれた点も確認しておくべき重要点である。いつか気付かない間におられなくなってしまったというのではない。一つの段階が完結し、終了したということが我々にも確認出来るのである。終了以前にまでフィルムを逆に廻して、もう一度映し出して、主の御姿を見直すことは要らない。
 「雲に迎えられた」という雲、これは、一つは、旧約の時以来、雲が荒野においても、神殿においても、神の栄光の臨在を示していたのと同じである。そして第二に、雲が隠すので、去って行かれる主を、いつまでも目で追って行くことは出来なかったという含みがある。芝居をもっと見ていたいと思っても、幕が引かれてしまうように、キリストのお姿を見ることはなくなった。もう一度幕を開けて芝居が続くとか、主役の姿がもう一目見られるということもない。
 弟子たちとともにおられた状態から別のものになって、あるいは変容して、別の形、あるいは別の実体に変わって、天に昇られたということではない。復活の主が「私の脇腹に手を突っ込んで触ってみよ」と言われたこと、また食べる物を持って来させて、彼らの見ている前でそれを食したもうたこと、これは復活の前と後とが同一の体であったことを示すためになさった行為である。それと同様に、昇天は、復活のままの肉体をもっての昇天であった。人々の間に行き来されたその同じ肉体が、変化を加えられることなしに天に昇ったのである。
 変化があって、一段上位の存在になられたというなら、余り不思議がらなくても済むことかも知れない。しかし、そうではない。大事な点は、我々と同じ肉体を備えたもうたお方が、我々と同じ体を持ったまま、我々の先に、天に、我々のために居場所を用意しに行かれたということである。そして、彼が同一の体を持ちたもうたという点が、我々の肉体の甦りの先駆となった。
 次の節に進む。「イエスの上って行かれる時、彼らが天を見詰めていると、見よ、白い衣を着た二人の人が、彼らのそばに立っていて、言った」。
 二人の白い衣を着た人が現われたのは、復活の朝、主の墓において二人の御使いが現われて、主の復活を宣言したのとまるで同じ意味である。御使いは神から遣わされるのであるが、神よりは低く、人間よりは高いという面があると言えなくない。が、それとともに、神の民を助ける仕え人という面も持つ。後者の方がここでは重要である。御使いの語り掛けは我々の信仰の助けになる。
 弟子のうちの誰かが、「主は天に行きたもうたのだ。我々は悲しんではならない。『私が去って行くことは、あなた方の益になるのだ』と言われた主の言葉に励まされて生きようではないか」と呼び掛けても良かった所かも知れない。しかし、この呼び掛けを人間にさせず、御使いに行なわせたもうたということに心を留めよう。今日、一つの段階が終わったということを学んでいるのであるが、そのことをハッキリした宣言として聞くことが出来るように、御使いが遣わされた。
 これは、主の去って行かれた天を見詰め続けていても、信仰的な意味がないという警告でもある。主が去って行かれた場所がどこで、方向がどれかということは分かっているが、では、主が去って行かれたオリブ山へ行って、上って行かれた方向、すなわち天を見続けるのが、主を慕いまつる敬虔な道であると言うべきか。他の宗教ではそういうことをする人を特別に信心深い修行者として尊敬するかも知れない。しかし、聖書ではそのようなことは教えないのだ。
 天を見詰めていても、御言葉は聞こえて来るわけではない。雲によって隔てられる彼方を思い見ても、空想であって何の進歩もないであろう。主を慕いまつる思いが深くなるわけでもない。弟子たちはこの後、特別急いだのではないが、オリブ山の上で長居する必要はないと心得て、エルサレムに帰って行った。そこでする事の方が有益であった。彼らは二階の間で聖書研究をしたのだと我々は先に推定したのだが、天を眺めて立っているよりは、聖書研究をする方がためになったのである。
 聖書研究だけではない、主が天に行きたもうたことを知るキリスト者は、天を眺めるよりも地上において働きをするほうが有意義であるということを知っている。ここにキリスト者の生き方が示唆されている。
 「ガリラヤの人たちよ、なぜ天を仰いで立っているのか。あなた方を離れて天に上げられたこのイエスは、天に上げられたのをあなた方が見たのと同じ有様で、またおいでになるであろう」。
 「ガリラヤの人たちよ」という呼び掛けに特にどういう意味があったかは良く分からない。確かに、主イエスの弟子たちはガリラヤ人であった。12人のうちイスカリオテのユダがユダ人であったらしいが、彼の死んだ後、まさしくガリラヤ人の集団であった。そういう意味があるのかどうか、分からない。
 「なぜ天を仰いで立っているのか」。――たしかに、天を仰いで立っていることの意味はないではないか、という忠告、あるいは叱責である。天を仰いで嘆息したり、追憶に耽ったりすることには何の意味もない。
 では、何が意味を持つのか。「あなた方を離れて天に上げられたこのイエスは、天に昇って行かれるのを、あなた方が見たのと同じ有様で、またおいでになるであろう」。彼は再び来たりたもう。彼に関しては、我々には、過去を振り返って、慕ったり、懐かしんだりでなく、来たらんとする彼を待つことこそが重要なのだ。未来志向という言い方では軽薄になるが、過去を踏まえて将来を望み見るという姿勢がここで決まるのである。
 どういうふうに彼は再臨されるのか。その点については重要なことが一点だけであるが教えられた。「天に昇って行かれるのを、あなた方が見たのと同じ有様で、またおいでになる」と教えられる。今見たそのままなのである。見たこともない、意外な、奇怪な、あなた方を恐れさせるような姿で来られることはないのだ。勿論、「あなた方が見たのと同じ」とは、何よりも、受肉したお方として、という意味である。肉を採りたもうたのは、肉において犯された罪の償いをするためであったと我々は教えられている。では、十字架の贖いをなしとげた後、もう肉体を帯びておられる必要はなくなったのではないか。そう考えている人が少なからずいる。
 しかし、御使いは最終段階においても、我々の贖い主の姿は変わらないと教えている。このことには考えるならば、多くのことが含まれている。だが、今回はその理由を詮索するよりも、教えられたところに留まるのが重要であろう。再臨の主を待つ姿勢は全く安定したものであることを確認しよう。

 


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