2005.12.04.

 

使徒行伝講解説教 第39

 

――6:5-6によって――

 

 

 教会は初めて選挙をした。そして、教会としては初めて任職式をした。そのことが5-6節に書かれている。
 12使徒の欠員を補充する儀式が初めに行なわれたことを、我々は1章15-26節で知っているが、これは籤であった。人間の選択は入り込む余地がなかった。籤で決めたとは、人間の選択権を放棄したことであるが、正確に言うならば、神のみが選択権を行使したもうたという意味である。こういうことは教会の初めの時、あるいは準備の段階ではあったが、それ以後はない。教会の働き人は教会が選ぶようになった。それが教会の主の御意志である。
 選挙という方式は民衆の意思の表明であると見られることが多い。しかし、それはこの世の政治に関しての理解である。神の民の秩序を論じる時、この世の秩序の考えが入り込むことについて、余程注意しなくてはならない。教会の選挙はこの世の政治における選挙と、形の上で似ている点はあるが、意味は全く違う。教会の選挙は選挙権という権利の行使ではなく、この制度を通じて御自身の教会を保つことを宜しとしたもう主に対する服従の業である。
 さらに、選挙には教会における「務め」というものが結び付いていることに留意したい。この世では人気投票というフザケたものがある。著しい弊害がない限りはそれも人々の楽しみの一つとして許されるであろう。しかし、「人気」というものは、無内容で、移り行くものであって、務めとは無関係である。これは現今世俗の政治における選挙にも影響を与えていることが明白であるが、まして教会においては一層明白に腐敗を及ぼしている。
 したがって、務めに任ぜられた者は一つの地位に座っておれば良いというのではなく、負わせられた務めを果たすための修練をたゆまず行なわなければならないし、務めのための賜物が与えられるように絶えず祈るのである。
 視点を換えて論じるならば、教会においては、務めに相応しい人を選び出すことも務めなのだ。務めは自然発生的に生じた機能ではなく、選び出す務めによって選ばれた担い手が担うのである。教会においては、この選び出す務めを持たない人はいない。ただ、小児会員だけは特例である。彼らは救いの約束に入れられているが、地上において自治的行動をする団体には入っていない。というのは、教会とは首なる主に仕える一つなる体だからである。では、選び出す力はどのようにして持つのか。それは、体の肢に接がれることによって授けられるのである。このことについて今日はこれ以上は論じないで置く。
 「この提案は会衆一同の賛成するところとなった」。
 会衆というのは信者というのと同じ意味であろう。市民社会における民衆である。民主政治では民衆が集められ、理事者から提案が行われ、賛成を得て実施された。だから、この時、教会は民主政治と似た形を取ったと見ることは出来る。しかし、そのように見て、得るところは特にない。会衆はそこに神の御心があることを理解し、その御心に進んで従おうとした。
 7人の働き人を選び出すことは使徒たちからの提案であった。会衆の中から提案が出ても良かったのではないかと思う。しかし、教会の初めの時期である。使徒たちは主イエスの訓練を3年に亘って受けているが、大部分の会衆には訓練がなかった。どういう選び方をすれば良いのか分からない。だから使徒が選ぶ基準を教えたのは、適切なことであると思われる。
 使徒たちが挙げられるべき人を指名して、会衆が承認した時に決まるという決め方もある。これは会衆が承認しなければ決まらないという意味でもあって、会衆が選んだとは言えないとしても、会衆の信任がないと教会の務めは確定しないのである。務めにおいて決定的な意味を持つのは主の選びと召命である。それ故、主がこの人を選んで召したもうたのだという確認が会衆の側にもなければならない。
 結果として選ばれたのは、信仰と聖霊に満ちた人ステパノ、それからピリポ、プロコロ、ニカノル、テモン、パルメナ、及びアンテオケの改宗者ニコラオであった。
 この7人を捜し出すためにいかほどの時間が掛かったかについては何も分からない。短時間で選び出せたと見ることは出来る。しかし、何日も掛かったということは十分あり得る。というのは、そもそもの発端は、ヘブル語を語るユダヤ人と、ギリシャ語を語るユダヤ人の二つのグループの間の不公平が問題になって、それを是正しなければならなかった事情であったと考えられるからである。みんなで知恵を絞って、長時間かけて検討しなければならなかったであろう。
 選び出された人がどういう顔ぶれであったか全部分かったならば、選び出されるまでの経過は或る程度想像がつく。しかし、この7人については、名前だけしか分からぬ人が多く、その名前からでは所属グループを判定できない。
 この人たちは、ギリシャ語を語るユダヤ人とヘブル語を語るユダヤ人と、ほぼ半々からなっていたと考える人もいるが、証拠はない。むしろ、改宗者以外は全部がギリシャ語を語るユダヤ人であったと見る人が多い。ユダヤ風の名前がないと感じる人は多いであろう。確かに、これらの名前を旧約聖書その他のユダヤ文書から見つけ出すことは、ニカノル以外は難しい。ニカノルはマカベア書に名を記されるシリヤの将軍で、ユダヤに対して苛酷な迫害をした。だが、結局、7人の名前について確実なことは殆ど言えない。
 なるほど、使徒は二つのグループのどちらにも偏らないようにせよとは言わなかったし、そういう示唆を与えたとも思われないのである。「御霊と知恵とに満ちた評判の良い人を選び出すこと」だけが要求されたのであって、出身がどうであったかというような世俗次元のことは考慮されなかったと見る方が正しいと思われる。
 当時のユダヤ人の中にギリシャ風の名を持っていた人がいたことは確かである。主イエスの弟子12人の中でも、1章13節にアンデレ、ピリポ、バルトロマイ(このバルトロマイという名はトルマイの子というアラム語であるが綴りとしてはギリシャ風である)の3人の名は明らかにギリシャ風であるから、ギリシャ語を用いるユダヤ人であったと思われる。
 ステパノとピリポについてはかなり詳しく業績が記録されている。この2人は使徒と並ぶ重要人物である。だが、それ以外の人については働きは全く記されておらず、名前だけしか分からない。しかも、ステパノとピリポの場合、彼らに本来託せられた貧しい寡婦の食卓のための奉仕の仕事については何も分からない。この2人は伝道者として働いている。
 この7名の職名については「執事」ディアコノスであったという解釈が伝統的であるが、今読む箇所にはその名称は記されていない。だから、少し後の教会が持っていた「長老」という職であったのではないかという説がある。しかし、寡婦の食卓に仕える手が足りなかったことからこういうことになったという事情を考えれば、食卓に仕える務めは確かにディアコノスであった。けれども、その当時はまだ名称がなかったということであろうか。
 また、務めの内容は本来或る程度自由で、当意即妙に実行され、特に初期には教会にとって必要なことを務めに任ぜられた者は、その場その場に居合わせた人が何でも実行していたということであろう。
 先ずステパノであるが、「信仰と聖霊に満ちた人ステパノ」と言われる。彼以外の人が信仰と聖霊に満ちていないという意味でないことは註釈の必要もないであろう。おそらく、使徒から「御霊と知恵とに満ちた人を」と言われた時、会衆はすでに或る程度「信仰と聖霊に満ちた人ステパノ」という評判を口にしており、直ちにステパノの名が挙がったということであろう。信仰と聖霊に満ちた人と呼ばれる実状は8節以下の記事に明らかであるから今は述べない。
 聖霊に満ちたという言葉は使徒の側から挙げられた第一の項目で、ステパノ以外の6人にもこれは当てはまった。聖霊に満ちたという言い方は、聖霊の器であって、その器に実際に聖霊が満ちており、その聖霊が活発な働きをしていることが分かる、という意味であろう。その御霊の働きとして様々の御業を挙げることが出来るのであるが、ステパノの場合は8節にある「目覚ましい奇跡と徴し」、また10節にある「知恵と御霊とで語っていたので、それに対抗できなかった」が表している力ある言葉である。
 「信仰に満ちている」というのは、信仰の確信が強く、惑い、躊躇いを乗り越える実行力を持っていたという意味である。彼の信仰は7章の終わりに記される死の場面で鮮やかに示された。すなわち、死をもって信仰を打ち負かそうとしても果たせず、信仰をもって死に打ち勝ったのである。彼の信仰の勝利を示すのはその最後の言葉であった。「主よ、どうぞ、この罪を彼らに負わせないで下さい」。
 ピリポの働きについては8章5節から始まる。先ずサマリヤ伝道である。サマリヤ伝道が初期段階を終わって教会の基礎が確立すると、ピリポは御霊の示しを受けて南方に行き、エルサレムからエチオピヤに帰る途中のエチオピヤの女王の宦官に伝道して、彼に洗礼を授ける。これがエチオピヤ伝道の初穂である。この経緯は8章26節から章の終わりに亘って記される。それからピリポはその少し北のアザト、昔のアシドドに現われ、さらに北に行ってカイザリヤに落ち着き、そこに定住する。パウロがコリントからエルサレムに行く道で、ピリポの家に泊まっている。ピリポがカイザリヤ教会の代表者であったようである。
 21章8節にはパウロがピリポの家に宿ることが記されているが、「かの7人の1人である伝道者ピリポ」と書かれている。ピリポはここで結婚し、娘4人を儲けその娘たちは預言者として教会に仕えた。
 次のプロコロ、ニカノル、テモン、パルメナについては、歴史は何も語っていない。
 アンテオケの改宗者ニコラオについては新約聖書の中で何一つ触れていない。黙示録2章にエペソとペルガモの教会に「ニコライ宗」という異端のグループがいたことが記されている。そして、ニコライ宗は7人の一人であるニコラオによって始まったのだという説もある。しかし、その根拠は薄弱である。ニコラオについては使徒行伝6章に書かれていること以外何も分からない。
 分かることは彼がアンテオケの改宗者で、エルサレム教会の7人の指導者の一人であったということだけである。「改宗者」というから彼はユダヤ人ではない。当時、異邦人でユダヤ教に改宗する人が出始めていた。ユダヤ教が世界宗教としての目覚めを始めており、ユダヤ人自身も旧約聖書をギリシャ語で読むようになり、それをギリシャ人に読ませることを熱心に行なった。
 そこで、異邦人でユダヤ教に改宗する人が出て来た。我々は2章11節に「ユダヤ人と改宗者」という言葉を読んでいる。そこでも触れたように、五旬節の朝、物音に驚いて駆け寄って来た人の中には、五旬節の祭りのために地方から上京した人、海外から帰国したユダヤ人、また海外でユダヤ人から宗教を学んで、すでにユダヤ教に改宗していた異邦人がいた。
 キリスト教の世界伝道が始まった時には、異邦人は先ず改宗者となり、割礼を受け、エルサレムに上って犠牲を捧げ、一旦ユダヤ教徒になり、それから洗礼を受けてキリスト者になった。
 ニコラオはその経過を経てキリスト者になった。彼がユダヤ教の感化を受けたのはシリヤのアンテオケであり、彼はアンテオケでは珍しい人ではなかったであろう。ニコラオは旧約聖書を学ぶだけでは満足せず、割礼を受けて神の民に加えられるためにエルサレムに上った。そこにいる間にキリストの名による洗礼を受け、自分の持ち物を自分の物とは言わない生き方をするように変わった。こうして、教会の中の7人の一人に選ばれるようになった。
 エルサレム教会には、アンテオケのニコラオ以外にも異邦人の改宗者がいたと思われる。多数いたか、少数であったかは分からない。11章19-21節に、「ステパノのことで起こった迫害のために散らされた人々は、ピニケ、クプロ、アンテオケまでも進んで行ったが、ユダヤ人以外の者には、誰にも御言葉を語っていなかった。ところが、その中に数人のクプロ人とクレネ人がいて、アンテオケに行ってからギリシャ人にも呼び掛け、主イエスを宣べ伝えていた。そして、主の御手が彼らと共にあったため、信じて主に帰依する者の数が多かった」と書かれている。
 迫害によって散らされたことが福音の進展になったというのであるが、アンテオケの町が伝道の拠点になった。この町がそのような働きをすることが出来たのは、全て神の摂理であるが、神の摂理の中にはニコラオの改宗も含まれるのである。
 「使徒たちの前に立たせた。すると、使徒たちは祈って手を彼らの上に置いた」
 任職式である。何という職のための任職かは分からないのであるが、主イエス・キリストから任職されたことはハッキリしていた。彼らはこの務めに生き甲斐を感じて、務めをやり抜くことを誓った、というふうに理解しては正しくない。誓約ではなく任職である。キリストが務めを与えたもう。それゆえに、キリストは務めを果たす能力に欠けている者に、務めを遂行するに必要な力を約束したもう。
 任職式の中味は祈りと按手であった。祈りは必要な賜物を与えて頂くための祈りである。
 手を置く、按手という儀式は古くからのものである。父祖たちは子たち孫たちを祝福するたねに頭に手を置いた。またモーセは後継者ヨシュアの上に手を置いて務めに任じた。民数記27章18節は言う、「主はモーセに言われた、『神の霊の宿っているヌンの子ヨシュアを選び、あなたの手をその上に置き、彼を祭司エレアザルと全会衆の前に立たせ、彼らの前で職に任じなさい』」。
 按手によって奇跡的に聖霊が降って務めを遂行する力が与えられるというのではない。任職式の前から力が約束されており、その力はすでに満ちている。しかし、手を置く必要はないと見るべきではない。ヨシュアが会衆の前でモーセから按手を受けることが必要であったように、7人の者は全会衆の前で使徒によって按手を受ける必要があった。すでに霊に満たされていた7人であったが、この儀式で公けの職務が始まったのである。


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