2005.11.20.

 

使徒行伝講解説教 第38

 

――6:2-4によって――

 

 

 キリスト教会が大きくなって行く時、ギリシャ語を使うユダヤ人と、ヘブル語を使うユダヤ人の間に、確執が起こったという事情を1節で見た。そういうことの問題性を取り上げたがる人は少なくない。教会も世のいろいろな団体と同じであって、大きくなることによって抱える問題も多くなる。――そういう見方がある。だが、我々にとっては問題でない、ということを前回、1節で学んだ。
 ギリシャ語を使うユダヤ人と、ヘブル語を使うユダヤ人とを、どのようにして一致させて行くか、というような方策は、使徒的教会において問題にならなかった。それは、キリストにあって一つであるという事実がすでに確認されていたからである。一つにならなければならない、というのではない。すでに一つである。
 ということは、何も問題がなかったということではない。問題はある。が、どういう問題を問題とするかが大事な点である。ギリシャ語を使うユダヤ人のグループに属する寡婦の中に、日々の配給で疎かにされる人がいたということは、何でもないことではなかった。貧しい人々に仕えなければならない務めが十分機能していなかったという問題があった。使徒たちはその点を見逃さなかった。そこから、御言葉に仕える務めはどうか、という検討に進んだ。
 我々も教会の「務め」ということに目を向けなければならない。したがって、何が務めなのか、その務めが正しく立てられているか、そして正しく機能しているかを検討していなければならない。その群れが大きいか小さいかが第一の関心事に成り勝ちであるが、それは無意味なことなのだ。一つの体が図体としては大きいが、体の各部の担っている機能が十全に果たされていないとすれば、その体は決して健全ではない。人数は多くても、務めが正しく行なわれていなければ、決して健全な教会ではない。
 さて、今日学ぶのは、教会の務めについてである。
 前回に続いて、こう述べられる。「そこで、12使徒は弟子全体を呼び集めて言った、『私たちが神の言葉を差し置いて、食卓のことに携わるのは面白くない。そこで、兄弟たちよ、あなた方の中から、御霊と知恵とに満ちた、評判の良い人たち7人を捜し出して欲しい。その人たちにこの仕事を任せ、私たちは専ら祈りと御言葉の御用に当たることにしよう』」。
 今読み上げた2節から4節まで、ここには、拾い上げ、読み取らなければならない言葉また事柄が沢山ある。我々の愚かさのゆえに十分拾い上げられない重要事項があるかも知れないから、教会を建てて行くために必要なことを読み落とさない知恵を賜るよう祈り求めつつ学んで行こう。
 我々が日本語聖書で読んで行く語句の順序が、取り上げる順序として最も適切であるかどうか、考えて見る余地はあると思うが、知恵が乏しいのであるから、平易な道を辿ることが許されると思う。
 先ず、「12使徒」という言葉に注目させられる。この言葉については説明は要らない。しかし、文脈の中でどういう意味を持っているかについては考えて見て良いであろう。「12使徒」というのと殆ど同じものとして、「使徒たち」という言い方がなされるのが通例であった。むしろ、「12使徒」という言い方はここしか出ていない。だから、改まった呼び方であることに留意させられる。
 12人がチャンと揃っていなければならないということに注意を促される機会が、これまで2度あった。一つはイスカリオテのユダの破滅の後、欠員の補充選挙をしたことである。もう一つは五旬節の朝、聖霊が降ったことについて、ペテロは11人とともに立ち上がって宣言した。つまり、12人が一体となって宣言した。
 12人がいつもいつも連れだって行動したと考える必要はない。ペテロとヨハネだけが出掛けた場合もある。12使徒と書かれず、ただ「使徒たち」と言うだけのこともあった。それは誰かがいなかったという意味に取るべきではない。我々は12人が一致していたということを当然の自明のこととして承知している。
 ここで「12使徒」という改まった言い方をしたのは、12人が揃って一箇所にいること、信徒が全員集まったのに対応して使徒も全員いたこと、そしてこれからしようとするのが教会政治に関する決定だということを表わす。つまり、弟子全体を呼び集めたとは、教会総会を開いたという意味である。こういう機会は、先にも少し触れたが、欠員を補充して12人の定数を揃えるために120人ばかりの全信徒が召集された時以来初めてであった。今では遥かに人数が増えていた。
 教会が一つでなければならないことは既に明らかである。しかし、その「一つ」というのは、一箇所に集まることと必ずしも同じでなかった。実際、エルサレムの教会は、かなりの数の会堂に分かれて礼拝し、しかも一つなるエルサレム教会であることを確認していた。一つということは必ずしも場所が一つでなくて良いのであって、一つであることは御霊と御言葉によって現実化している事実である。
 しかし、教会政治に関することでは、見た目においても一つに集まっていなければならない。使徒時代の教会が総会を開いた時、どういう形で会議を進めたかを問うても、詳しいことは分からない。しかし、細かい点ではともかく、我々が今日守っているのと本質的には同じ方式で、教会秩序を維持したことを我々は疑わない。
 例えば、賛否を確定しなければならない時には、数を数えて、多い方に決める。不幸にして、正しい方が少数で、間違った方が多数である場合も少なからずある。その場合、少ない方が正しいと主張するためには、「少ないから正しい」というような言い方をするわけには行かない。奇跡が起こるからこちらが勝利するというようなことも、言ってはならない。この世で通用する道理を尽くして同意を取るほかない。
 総会が開かれた時、出席できなかった教会員が、自分は欠席したけれども、本当は欠席ではない、神がそれを認めて下さるであろう、と主張することは出来ない。体は場所を異にしていても心はそこにある、ということはあり得る。しかし、教会政治の場でそれを主張することは無謀である。
 だからといって、これを世俗的なこと、人間的判断だとして却けるべきではない。ここには神のみこころにかなった秩序がある。この秩序を守らなければならない。そのような教会政治を立てなければならない局面がある。
 また、この時は、12使徒の側から提案がなされ、会衆の賛成を得て確定されたのであるが、前もって使徒たち内部で案を練っていたように思われる。それ以外のやり方があったであろう。預言者の時代には神に問うということもあった。今でもあり得ると思う。ただし、神に問うと言っていても、自分で答えを出して、自分の答えであるにも拘わらず、神の答えであるかのように偽って言う場合はある。
 銘々が考え、自分の意見を述べ合って一つの具体案に絞り込むということもあるであろう。この場合、延々と議論しなければならないし、纏まらないかも知れない。また、間違った方向に纏まって行く危険もあり得る。それでも、主が直接の手段を用いて教会を統治したもうのではなく、人間という器を用いたもうのが通例であるから、いろいろな方法があると言うことは出来る。
 そういうわけで、主の御旨が12人を通じて一同に下問され、弟子一同が慎んでそれに賛同する形式だけが正しいと考えなくても良いであろう。主の霊は自由を創造したもう。
 使徒は言う、「私たちが神の言葉を差し置いて、食卓のことに携わるのは面白くない」。
 御言葉に仕える務めと、貧しい寡婦の食卓に仕える務めの二つが取り上げられている。神の言葉に仕えることこそ第一の使命であるのに、それが疎かにされたのではないかと厳粛に反省したのである。「面白くない」というのは極めて人間臭い言い方で、適切でないのでないかと思う。大変な間違いを犯してしまった、との恐れがある。また、神にとって宜しくないことと言っているように思われる。
 御言葉に仕える務めに支障が生じたと誰かから指摘されたわけではなかった。しかし、使徒たちはその危険に気付いた。これは使徒たちが自ら務めのために与えられている自己検討の機能を用いて検討したということである。
 キッカケは寡婦の配給について、疎漏があったことによる不平、それが指摘されたことであった。ギリシャ語を語るユダヤ人の誰かから、ヘブル語を使うユダヤ人グループに対する苦情である。使徒たちが非難されたわけではなかった。この苦情が耳に入った時、使徒たちは教会の中を如何に丸く治めるかという発想ではなく、主の教会を牧する務めに欠けは生じていなかったかを考えて見た。そして、問題に気付いた。
 4章の終わりで見たように、人々は自分の財産を自発的に処分してその金を持って来て使徒の足元に置いた。誰からも命令されなかったが、人々はそのようにした。すると、その金を管理し配分することは使徒の職務になった。当時、使徒以外には職務を託されている人はいなかったので、あらゆる務めが使徒たちに集中した。彼らは荷が重過ぎるという苦痛を訴えることなく、主から負わせられた重荷は受けなければならないと考えた。だから、貧しい寡婦の日々の食事のことまで手掛けた。
 自分たちにとって、こういう仕事は本来の務めではないではないか、というような声は使徒たちのうちから起こらなかった。パウロは「キリストのために私は何でもする」と言ったが、してならないこと以外は何でもする、というのがキリストのための労である。何でもしなければならない、と思っては誤解である。あらゆることに手を出して、何一つ仕上げることの出来ない軽薄な人間になってはならない。しかし、必要なことがあるならば、他に人がいない場合は私がするのである。その準備がなければならない。
 思い起こすが、エリコへの道の傍らに倒れている人がいた時、祭司は、この人を助けるのは大事なことではあるが、私の務めではない、と判断して通り過ぎて行った。イエス・キリストはそういうことをなさらない。我々もまたキリストの民である。
 キリストの使徒は、貧しい寡婦が教会に集まって来た時、教会には自分の財産を整理した人たちの持って来た金銭があったので、「金銀は我になし」と言わず、それを使って彼女たちを助けた。それはそれで良かった。しかし、この仕事が忙しくなる。ギリシャ語を語るユダヤ人寡婦にもヘブル語を語るユダヤ人寡婦にも、平等に奉仕をしているつもりであったが、平等に行き渡らないことが起きた。
 その時、使徒は「御言葉に仕える務めが正しく行なわれているか」と自ら顧みた。手抜きがあったのではないか。御言葉に仕える務めは、馴れて来ると、ドンドン手抜きされる。聞く人たちは熱心に聞いてくれるから、チャンと語られているのだと語る人自身が思ってしまう。つまり、祈りの時間を減らしても、説教は出来るからである。忙しい中で祈りが乏しくなっても、説教の務めは果たすことが出来た。しかし、長い時期に亘って祈りが乏しくなったなら、貧しい説教になるのではないか。
 使徒たちがそういうことに気付いたのだが、それはどうしてなのか。それは、彼らが主イエスの模範を見ていて、それに照らして己れを顧みたからであろう。説教者は説教の準備のために祈りの時を十分確保しなければならないのである。
 「そこで、兄弟たちよ、あなた方の中から、御霊と知恵とに満ちた、評判の良い人たち7人を捜し出して欲しい。その人たちにこの仕事を任せ、私たちは専ら祈りと御言葉の御用に当たることにしたい」。
 7人の人が選ばれる実際については次回に詳しく見ることにして、今日は具体的な手続きには立ち入らないことにする。これまでは、教会の働き手は12人で、12人で何もかもした。これに7人を加えることによって、使徒は御言葉と祈りの御用に専心励むことが出来、新しく選ばれた7人は貧しい人たちに仕えること、及びこの種の奉仕に携わるようになる。これは教会では伝統的に「執事」の選びであったと見られている。しかし、執事ではなく長老であったという説もある。今はこれ以上は論じないで置く。
 これは、人数を増やした上で、務めを多様化するようになったと一応言うことが出来よう。しかし、専門職という説明は必ずしも間違いではないと思うが、一つのことしかしない人を作り出すことではなかった。
 例えば、ステパノは7人の一人として選び出された人であるが、8節では目覚ましい徴しと奇跡を行ない、同じギリシャ語を語るユダヤ人の、キリスト教に反対する学者たちと大討論をしている。彼は議会に引き出されて裁判を受けるが、その時の説教は実に格調の高い説教であった。
 8章5節以下では、7人の一人ピリポの盛んな伝道活動が描かれている。そのように、この7人が貧しい人々を援助するためだけに働いたのでないことはハッキリしている。要するに、キリストのためには何でもしたのだ。仕える務めは自分にはこれしか出来ないと言い張るのでなく、主が必要とされるなら何でもしますという姿勢を持たなければならない。だから、ステパノは必要とされた時、説教もした。
 ヴォランティアならば 私にはこれが出来ますという自己宣伝がある。自己宣伝を必ずしも悪いと取る必要はない。しかし、キリストの働き人は、私にはこれが出来るとか、これしか出来ないという主張はしない。自分の仕える主、あるいは自分の仕える小さき隣り人の、必要なことを行なうのである。
 さて、選ばれた7人はどのようにして選出されたのであろうか。イエス・キリストが12人を選びたもうた時、祈って決めたもうたということを我々は思い起こす。また、主イエスの昇天の後、12弟子の欠員1人を補充する時、120人ばかりいた一団の人々は、人間的な思いが入らないように籤を引いて決めた。
 今回はそれとは違う。ここでは教会が7人を選び出した。ということは、人間が人間を選び出したという意味なのか。一つの面ではそうである。12使徒は自分の意に叶う人を選び出すのではない。弟子一同の判断力に信用して、「捜し出せ」と言う。神の民が単なる集団でなく、主の民の群れとして判断力を持っていることは教会を理解するに当たっての重要な点である。勿論、教会には間違いがないと思ってはならない、しかし、人間のすることだから全て間違っているというのも正しくない。
 7人を選び出すことは教会に命じられたのである。「あなた方の中から捜し出しなさい」と命じられた。教会の働き人を選び出すことはキリストが聖霊を送りたもうた時以来教会の務めになっている。この使命を負わせられたことは教会の光栄であるが、その委託に答えるための教会の励みが必要である。
 選ばれるべき人間は、「御霊と知恵とに満ちていて、評判の良い人でなければならない」。先ず、御霊に満ちていることが仕える者にとって必要である。彼は御霊の器だからである。能力のある人を選び出せと言われたのではない。だが御霊に満ちているかどうか、それが分かるのか。分かるのである。信者は御霊を受けているからである。
 知恵に満ちているという点も重要である。神に用いられるのは賢い人でなく愚かな人ではないのかと問う人がいるかも知れない。しかし、本当の意味で知恵ある人は主の教会に必要である。知恵は主の賜物である。
 評判が良いという言葉は今日必ずしも重んじられていない。評判の悪い人が代表に選ばれるという狂気の時代だからである。しかし、主は今でも教会に仕える働き人が教会の品位を落とすことがないよう求めたもう。これらのことは逆に言うならば、我々が自らを修練して行くときの目標がどうでなければならないかを示している。御霊に満たされることはもとより第一に大切であるが、知恵も教会と隣人への奉仕のためには不可欠である。評判も奉仕のためには有用である。


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