33節に、「これを聞いた者たちは、激しい怒りの余り使徒たちを殺そうと思った」と記される。
議会における使徒の答弁を聞いた議員たちは、語られた言葉に対する反動を起こすのである。怒ったのである。ただし、「殺そうと思った」とは、その場で使徒たちに向かって殺到し、撃ち殺そうとしたという意味ではない。彼らは群衆ではないし、死刑執行吏でもない。彼らは合議による裁判を開いている議員である。使徒たちをどう処分するかの判定を委ねられている公人である。
だから、「殺そうと思った」とは、死刑が相応しいと考えたという意味である。議員たちは各々その判断を語ったのである。騒然たる場面を考えては間違いであろう。どういう形式でなされたかは分からないが、それなりの議事法を守って、意見を述べ合ったというのが真相である。
死刑が相応しいと発言した人が多かったと取って良いであろう。しかし、死刑には反対だという意見の人もいた。反対意見を述べた人の一人にガマリエルがいる。死刑に反対だと言った人は、あるいはガマリエル一人であったかもしれない。しかし、議会の多数者はガマリエルと結局同一意見であったことが40節で分かるのである。みんなが死刑を要求しているのに、ガマリエル一人が正論を吐いたと考えるのは大衆受けする物語りであるが、実際はそういうことではなかったはずである。
「ところが、国民全体に尊敬されていた律法学者ガマリエルというパリサイ人が、議会で立って、使徒たちをしばらくの間外に出すように要求してから、一同に向かって言った」と34節に言う。
今、ガマリエルという名に我々が注目するのは当然である。ただし、議会の多くの人が間違った判断をしたのに、ガマリエルが正しい主張をして、使徒たちの命を助けたと理解するのは正しくない。彼がこの時の判決をリードしたと見てよいが、その判決は無罪判決ではなかった。死刑ではないけれども、鞭打ち刑であった。後で見たいと思うが、宗教に関わる問題、神冒涜の犯罪として見るべきものでなく、社会を騒がせた罪は免れないと考えているのである。
議会におけるガマリエルの発言から、思い起こされるのは、もう一人のパリサイ派の律法学者で、ユダヤ人の指導者、つまり議会の議員であった人物のことである。ヨハネ伝で、3章、7章、19章に登場するニコデモである。今、ニコデモについて、その登場する三つの箇所に亘って語っていては、今日学ぶ時間がなくなるから、かつてヨハネ伝で学んだところを各自思い起こしてもらいたい。
特に思い起こしたいのはヨハネ伝7章50節-51節である。「彼らの一人で、以前にイエスに会いに来たことのあるニコデモが彼らに言った、『私たちの律法によれば、先ずその人の言い分を聞き、その人のしたことを知った上でなければ、裁くことをしないではないか』」。
このニコデモがガマリエルと同一人物であると解釈する人は、昔から少なくない。私自身もそうではないかという意見を持っている。ただし、決め手になる証拠はないから、ガマリエルがニコデモであったと言い張るのは控えておく。また、ニコデモのあの時の発言とガマリエルの今回の発言が同質のものだと言い切ることもかなり難しい。ただ、この二人が別人であったとしても、そのような傾向のパリサイ派の議員が複数いたということは確かである。
大事なことは、ニコデモが「私たちの律法によれば」と言っている点である。律法に従わねばならない。律法を守っている限りは、正しい裁きを行ない、その人の言うことをよく聞き、その人のしたことを調べた上でなければ裁いてはならない。同じように、ガマリエルは、神に逆らうことになるかも知れない判断をするなと警告した。これも律法を守ったから、律法の限界に留まったということである。
律法の限界を越え出なかったということには小さからぬ意味がある。しかし、もう一つ、彼らが律法の目的を真に悟らなかったため、律法の限界を越えられなくて、それ故律法がイエス・キリストの福音を証ししているものであるにも拘わらず、キリストに達し得なかったという点はもっと重要であった。
またニコデモのことを思い起こすのであるが、ヨハネ伝3章によれば、ニコデモは或る晩、一人で、主イエスを訪ねて来た。イスラエルにこれ以上の教師はいないという判断をもって、その教師の教えを受けるために、秘かに訪ねて来たのである。しかし、結局、人は新しく生まれなければ神の国を見ることは出来ないと申し渡されて、去って行った。
さらに話しが飛ぶようであるが、使徒パウロの経歴を思い起こすのである。パウロは議会で裁きに掛けられた時、それは22章3節であるが、ガマリエルと自分との関係を語っている。「私はキリキヤのタルソで生まれたユダヤ人であるが、この都で育てられ、ガマリエルの膝元で先祖伝来の律法について厳しい薫陶を受け、今日の皆さんと同じく神に対して熱心なものであった。そして、この道を迫害し、男であれ女であれ、縛り上げて獄に投じ、彼らを死に至らせた」。
パウロがこう語った時、これは遅い時期であるから、ガマリエルは世を去って、議会にはもう議席を持っていなかったと思われる。
パウロのこの言葉から引き出すことが出来る一つのことは、パウロ自身、ガマリエルのもとでの学びを通じて、キリストに導かれたという点である。律法への忠誠という点では律法学者の中で傑出していると当時認められていたパリサイ派のガマリエルのもとで訓練を受けた。これは或る面では誇りである。ピリピ書3章5節で言う、「私は8日目に割礼を受けた者、イスラエルの民族に属する者、ベニヤミン族の出身、ヘブル人の中のヘブル人、律法の上ではパリサイ人、熱心の点では教会の迫害者、律法の義については落ち度のない者である。しかし、私にとって益であったこれらのものを、キリストの故に損と思うようになった」。――ピリピ書ではこれに続いてさらに重要なことを言うのであるが、その部分については今日は省略して置く。
ユダヤ教の神学の学びとしては最高水準を修得したのであるが、かつては誇りであった学びが、塵芥のようになったのである。すなわち、キリストを知ることの卓越性の前では、律法について最高の学びをした価値は逆転した。
これは誇りが邪魔になったというような単純な道徳問題ではなく、律法の目標への到達を、律法それ自体が妨げているということが明らかになったというのである。
このことがガマリエルについて今回の箇所の中にある発言を理解する鍵になっていることを捉えて置きたい。ガマリエルの弟子パウロは或る意味で、その先生の行き止まったところより先に進み出ることが許されたのであるが、今日見る限りでは、ガマリエルは律法をその目的、その目指すものから理解することを知らないために、律法に忠実であろうとしているが、そこで止まってしまった。
それなら、ガマリエルが到達出来なかったところに、その弟子パウロは、先生の遺志を受け継いで昇って行ったのか。………そう言える面と、そう言ってはならない面とがある。二つともシッカリ見て置こう。先ず、第一の面である。
使徒行伝23章6節でパウロは議会に立たせられてこう言った、「『兄弟たちよ、私はパリサイ人であり、パリサイ人の子である。私は死人の復活の望みを抱いていることで、裁判を受けているのである』。彼がこう言ったところ、パリサイ人とサドカイ人との間に争論が生じ、会衆が相分かれた」。
この後に9節で我々はこう読むのである。「パリサイ派のある律法学者たちが立って、強く主張して言った、『我々はこの人には何も悪いことがないと思う。あるいは霊か天使かが彼に告げたのかも知れない』」。――パウロの述べたことに賛成するパリサイ派の議員がいたのである。その人たちが「あるいは霊か天使かが彼に告げたのかも知れない」と言ったのは、こういう主旨であると理解しよう。自分たちは書かれた御言葉と、先祖以来言い伝えられた聖書解釈としか知らないが、このパウロは我々の知らない教えを天使によって、あるいは霊によって告げられたということはあるかも知れないから、無視は出来ない、という意味である。
パリサイ派の律法学者が全部そうであったというのではない。しかし、複数の賛成者がいた。それはパウロと同じガマリエル門下の律法学者であったのではないかと推測される。サドカイ派の大祭司が主イエスを殺し、使徒を迫害する急先鋒であったのに対し、パリサイ派はより穏やかであった。
大まかな捉え方であって、纏めにはなっていないのであるが、パウロがここで言おうとしたのは、父祖以来のイスラエルの信仰の真髄は「死人の復活」であって、「私はこのことをパリサイ派の最高水準の律法解釈から示唆を受けたのである。それだのに、今私はその信仰故に裁かれている」と言う。つまり、パリサイ派の律法解釈で一番肝心のところがパリサイ派自身にも却って分からなくされていた、ましてサドカイ派は遥かに遠いところにいると批判する。
我々にはまだまだ分からない点は多く残っているが、ガマリエルが議会で発言した背景はかなり良く分かった。その発言を聞こう。
「イスラエルの諸君、あの人たちをどう扱うか、よく気を付けるが良い。先頃、チゥダが起こって、自分を何か偉い者のように言い触らしたため、彼に従った男の数が四百人ほどもあったが、結局、彼は殺されてしまい、従った者も皆四散して、全く跡形もなくなっている、その後、人口調査の時にガリラヤのユダが民衆を率いて叛乱を起こしたが、この人も滅び、従った者も皆散らされてしまった。そこで、この際、諸君に申し上げる。ある人たちから手を引いて、その為すままにして置きなさい。その企てや仕業が人間から出たものなら、自滅するだろう。しかし、もし神から出たものなら、あの人たちを滅ぼすことは出来まい。まかり間違えば、諸君は神を敵にまわすことになるかも知れない」。
チゥダという人については、ヨセフスのユダヤ古代史に記載されているテウダスという自称預言者のことであると考えられる。使徒行伝には、彼について行く者が400人と書いてあるが、もっと多くの人を連れてヨルダンに行ったようである。チゥダが自分を「何か偉い者」のように言ったとは、恐らくキリスト、あるいはユダヤ人の王だと名乗ったという意味であろう。近年のことで人々は覚えている。こういう人はユダヤでは言い伝えにもならないほど次々出た。
「ガリラヤ人ユダ」についてはチゥダの後と書かれている。「人口調査」についてもどの人口調査を指しているのか、特定が難しい。イエス・キリストの誕生の記事に出てきたクレニオがシリヤの総督であった時に行われた人口調査であったかも知れない。だとすれば、チゥダのほうが後になる。
人口調査は税金を課する資料の作成のためであるから、人民はそれを知っていて抵抗したという事情であろう。チゥダの一揆は宗教的な性格が強いらしく、ガリラヤのユダの場合はより政治的要素が強かったと思う。
とにかく、一揆が始まった時、一時は新しい時代の始まりではないかと期待した人もいたのであるが、敢えなき結末であった。ガマリエル自身それらの一揆が起こった時のことを印象深く覚えていたと思われる。彼自身は一揆が起こるという事件に血を躍らせるほどの人ではないと思うが、議会の議員という地位にある者としては新しい時代に対する感覚を持っていて、それだけにチゥダとユダの事件を鮮明に記憶していたのではないかと思われる。
そのような経験を踏まえて、ガマリエルは、神のなしたもうことに先んじて人間が判断を下してはならないという見識を持った。
議会はガマリエルの言うことは正しいと判断して、イエスの弟子たちの起こした新しい動きをしばらく見守る他ないと取り決めた。しかし、先にイエスの名によって語ることを禁じ、その禁を犯す時には有罪になるとの判決を下した。その決定を覆すことは彼らには考えられなかった。
「そこで彼らはその勧告にしたがい、使徒たちを呼び入れて、鞭打った後、今後イエスの名によって語ることは相成らぬと言い渡して許してやった」。
この判決を先に4章16節-18節に記されたところと比較して見ると、何も変わっていないことが分かる。こう書かれていた。「あの人たちを、どうしたら良かろうか。彼らによって著しい徴しが行なわれていることは、エルサレムの住民全体に知れ渡っているので、否定しようもない。ただ、これ以上このことが民衆の間に弘まらないように、今後はこの名によって一切誰にも語ってはいけないと、脅してやろうではないか」そこで二人を呼び入れて、イエスの名によって語ることも説くこともいっさい相成らぬと言い渡した」。
使徒たちは先に申し渡された通り、鞭打ちの刑に処せられ、それで釈放された。彼らはイエスの名による宣教をますます盛んにしたのであるが、鞭打ちのことはこの後には書かれていない。ということは、これ限り鞭打たれるようなことをすることはなくなったのか。そうではないであろう。使徒たちが説教を止めなかったことは42節で読む通りである。刑罰の効き目がないので、議会が鞭打ち刑の実行をしばらく見合わせたということはあるかも知れない。そして、この後は鞭打ちでなく、死刑執行のことが書かれるようになる。それは次の章に入ってから学ぶことになる。迫害はいよいよ本格化したのである。
41節以下を最後に読んで置く。「使徒たちは、御名のために恥を加えられるに足る者とされたことを喜びながら、議会から出て来た。そして毎日、宮や家で、イエスがキリストであることを、引き続き教えたり宣べ伝えたりした」。
鞭打ち刑は40回以上行なってはならないと申命記25章で規定されている。懲らしめて改善させるのが目的であるが、度を過ごすと人間が賜っている尊厳性の冒涜になるという意味であろうか。奴隷や家畜には無制限に鞭を当てるが、市民権を持つ人間には名誉や尊厳があるから鞭打ちは制限されねばならない。
人の見ているところで鞭打たれることは、普通の人間にとっては恥辱である。人の見ていないところで鞭打たれるならば、忍ぶことが出来るが、恥辱を受けることは忍び難い。それでは、使徒たちは釈放されて、顔赤らめて帰って来たかというとそうではなく、喜びながら帰って来た。
恥辱を受けたという思いはなかった。むしろ、その逆であった。何故なら、主イエスがそのような屈辱を受けたもうたからである。すなわち、それだけ近く主のそばにいることを許されたと感じたからである。
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