2005.10.16.

 

使徒行伝講解説教 第34

 

――5:17-21aによって――

 

 

 使徒たちの宣教に対する迫害が始まっていたことは、4章の初めで読んだ通りである。それがさらに進展した。5章17節以下では、二通りの迫害があったように読み取ることが出来る。すなわち、一方では、迫害者は17節で見られるように、大祭司とその仲間であるサドカイ派。彼らは使徒たちを捕らえて、公共の留置場に入れた。しかし、夜のうちに使徒たちは留置場を出てしまう。この迫害は「嫉妬」によると書かれているが、かなり個人的な恨みを籠めた仕返しのように読み取られる。
 もう一方、翌朝、議会が開かれ、使徒たちを鞭打って、改めてイエスの名によって語ることを禁止し、放免する。これも迫害には違いないが、この時開かれた議会にはサドカイ派だけでなく、パリサイ派もいた。パリサイ派の律法学者ガマリエルの意見がそこでは受け入れられている。先のサドカイ派だけによる迫害とは別の動きである。4章5節から22節まで、ペテロとヨハネに対する裁判が記録されているが、そのところでは、今後イエスの名を宣べ伝えてはならない、と宣告して帰らせた。その時禁じられたのに、またもイエスの名を宣べ伝えたから、鞭打ち刑が執行された。それでも、これは法に基づいた裁判と刑罰であると思われる。この二種類の動きについては、これからもっと明らかになって行くのであるが、先ず第一の動きを見ることにしたい。
 17-18節から見て行く。「そこで、大祭司とその仲間の者、すなわち、サドカイ派の人たちが、みな嫉妬の念に満たされて立ち上がり、使徒たちに手を掛けて捕らえ、公共の留置場に入れた」。
 4章の初めで見られたのも、サドカイ人による実力行使に始まった事件であるように思われる。あの時でも、大祭司がサドカイ派による行動と気脈を通じているらしい様子が窺える。あの時のことは5章17節以下の場合と似ているから、一つの事実が二つの言い伝えになったのではないかと考える人が出て来て、この意見が広く受け入れられた時代がかつてあった。しかし、我々は記された通りに読んで行くことで何ら不自然であるとは思わない。
 エルサレムの70人議会は、祭司長、律法学者、そして民の長老からなっていた。律法学者として議会にいるのは、パリサイ派とサドカイ派であるが、サドカイ派に属する者は祭司であったと思われる。そして、17-18節で見ると、大祭司とサドカイ派の祭司であって議員である者、またそれ以外のサドカイ派も加わっていたらしいが、彼らは議会全体の同意を取り付けることなく、単独行動を取って、使徒たちを捕らえ、留置場に入れた。先に既成事実を作ってしまおうとしたと思われる。
 ちょうど、主イエスが大祭司を中心とする一部の者によって誰も知らない夜のうちにゲツセマネで捕らえられ、急いで裁判に掛けられ、偽証を立てる人たちを集めて裁判を進めて宣告をした場合と似て、策略による行動である。主イエスの逮捕の時は、パリサイ派も一緒ではなかったかと思われるが、今回はハッキリ、サドカイ派の行動だと書かれている。
 前回見たように、5章12節に「一同が心を一つにして、ソロモンの廊に集まっていた」と書かれていたから、使徒たちが逮捕されたのはソロモンの廊においてであったと思われる。4章にあった事件で逮捕されたのは、ペテロとヨハネの二人だけであったが、今回は使徒全員であったのではなかろうかと思われる。
 「サドカイ派の人たちが、みな嫉妬の念に満たされて立ち上がり……」と言うが、彼らの動機は嫉妬であった。すなわち、使徒たちに対する民衆の人気が断然高いので、嫉みを起こしたということであろう。エルサレムの宮に集まる民衆は、神礼拝を忘れてソロモンの廊に集まったわけではない。ペテロたちは神殿に礼拝に通っていた。だから、キリストの教えを聞くことによって礼拝が疎かになるということにはならなかった。むしろ、ますます充実した礼拝を喜ぶ。
 民衆は使徒の説くキリストの教えに従って神を礼拝し、捧げ物を捧げ、教えに基づいて律法とその教えを守り行なった。エルサレムの宮の一方には聖所があり、祭壇があり、昔ながらの礼拝が行なわれる。その礼拝の精神はもう一方のソロモンの廊で行なわれる説教によって支えられている。それをイスラエルの伝統宗教の危機であると祭司たちは考えたのである。
 「嫉妬の念」と言われるのを聞いて、思い起こすのは、マタイ伝27章18節に「彼らがイエスを引き渡したのは嫉みのためであることがピラトには良く分かっていたからである」と書かれていたことである。この「嫉妬」と「嫉み」は聖書の原語では全然別の言葉で、意味も違うが、まともな理由による対決でないという点では共通している。
 大祭司たちの対抗意識には権威や秩序についての敵対感情のほかに、教理上の対決があった。先祖に対する神の約束を信じ、継承し、それに従うという点では一貫しているのであるが、その約束の焦点になるキリストの来臨、これがナザレのイエスにおいて成就したと使徒たちは信じている。しかし、大祭司たち、そしてサドカイ派も、パリサイ派も、キリストはまだ来ていない。したがってナザレのイエスはキリストではないと主張する。
 もう一つ、大祭司たちが非常に気にしていたのは、28節の彼の言葉に示されているように、「あなた方は確かに、あの人の血の責任を私たちに負わせようと企んでいる」という点である。大祭司たちはナザレのイエスを早く殺してしまわなければ危険だと考え、急いで殺した。裁判の手続きが合法的であったと言えないのではないかという懸念があったのではないかと思われる。罪なき人の血を流すことはイスラエルにおいては大きい罪である。ピラトでさえもナザレのイエスには罪がないと認めた。民衆の中にもナザレのイエスの信奉者は少なくない。
 それに加えて、イエスは甦りたもうたという信仰が広がり始めた。それは「あなた方が殺した方を神は甦らせたもうた」という言い方として大祭司たちを脅かす。大祭司たちは自己防衛のために躍起になる。
 さらに、聖書の解釈をめぐる対立が始まっている。ソロモンの廊で行われている集会で教えられている教えは、聖書の説き明かしであった。それは聖書の新しい解釈であって、聞き慣れていない教えであったことは確かであるが、間違っていると指摘する人はいなかった。だから、排除する根拠はないはずであるが、嫉妬の念から、排除せずにおられないという気持ちに駆られていた。
 そういうわけで、放っておくと説教をするかも知れない者は、全員留置して身柄を拘束して置かねば危険であると彼らは考えた。「公共の留置場」という言葉があるが、場所がどこであるかは分からない。牢獄と取っても良いと思う。これはユダヤ人の自治政府あるいは70人議会が管理している留置場、あるいは監獄であった。ヘロデの管理下にある牢獄、また駐留軍の兵営の中にあった牢獄とは別のものである。すなわち、使徒行伝12章4節に「ヘロデはペテロを捕らえて獄に投じた」というその獄とは別であろう。また、21章34節、23章10節に、駐留軍の千卒長がパウロを兵営に連れて行くように命じたというその兵営は、兵営の中にある牢獄のことであるが、それとは別なものであった。それが「公共の」という理由ではないか。
 19-20節に進む、「ところが夜、主の使いが獄の戸を開き、彼らを連れ出して言った。『さあ行きなさい。そして、宮の庭に立ち、この命の言葉を洩れなく、人々に語りなさい』」。
 今ふれた12章には、ペテロがヘロデの牢獄に入れられ、引き出されて切り殺されようとしていたその夜、主の使いが訪れ、外に導き出したことが記されている。
 また16章25節では、ピリピにおける出来事であるが、パウロとシラスが牢に入れられて、讃美しかつ祈っていた時、真夜中頃、地震があって解放されたという事件が記されている。
 牢獄に囚われた使徒を、夜、御使いが解放に訪れるという奇跡的な事件が、使徒行伝には幾つか出て来る。そういう事件が多く記されるとは、その頃には多く起こったということであり、多く起こらねばならなかったのは、主がそれを必要としておられたという意味である。新約聖書の他の書にはない記述である。
 これは福音の種が地上に急遽播かれねばならない教会の伝道の最初の時期であった。この時期に、サタンが福音の種を一網打尽に取り去って行くことは比較的容易であったと思われる。それだけに、神の特別な庇護が必要な時期であったと我々は理解する。
 伝道者たちが獄に入れられ、そのまま殺されたケースも少なくはない。そうなったのは奇跡によって助けられるに価しない人間の場合であったと解釈してはならない。イエス・キリスト御自身すらも、十字架につかなくて良いように助けられることはなかったのである。
 主イエスも死なれ、使徒たちも次々殉教して行った。このことは、彼らが使命ある生涯を全うして死んで行ったよりもさらに大きい出来事であった。しかし、福音を伝える者が局地で根絶やしになることは神の御旨ではなかった。すなわち、神はここに「残りの者」を残したもうた。
 それは幸運による命拾いと言うべきものではない。神を知らない人々はキリスト教を幸運な宗教と見るかも知れないが、そうでないことを知るために神は御手を差し伸べて働きたもうたのである。
 このことは、福音の伝道が地上において続けられるのは、ひとえに神のみこころに依るということを我々に示すものである。多くの宗教が作られては消えて行った中に、キリスト教は消えずに存続した。幸運の偶然の積み重ねではなく、消滅するほかない弾圧の中で、神は「残りの者」を残したもう。我々はここで「残りの者」に関心を向けるべきである。
 このように、教会の宣教は神の恵みによって保護されて続いて来たのであるから、福音の宣教の務めにある者が、この業は必ず前進し、成長する、と確信することは決して間違いではない。だが、絶対に不運に見舞われない保証が与えられているかのように思ってはならない。
 キリスト教が今日まで進展を続けて来たということは、だいたいにおいて正しいと言えるかも知れない。しかし、無造作にそう考えている人は、現代においてキリスト教が多くの国において大幅の衰退を示している数字を見るならば、意気阻喪するほかないであろう。
 信仰がチャンとしているならば、一時的に教勢が低下しても、また盛り返して前進するのだということがこれまでは言えた。今でも、教勢が衰えているのは信仰がチャンとしていないからだと言うことは一応出来ると思う。しかし、信仰がシッカリしていても、いやシッカリしているからこそ、教勢が低下する、ということが言える時代が来る。これまでもあった。そういう時代が始まっていると言うべきであろう。神が残りの者だけしか残されない時が来るのである。それは神の力の衰えではない。むしろ、神が生きておられる故に、残りの者でない者が交じったまま膨張や現状維持して行くことはないのである。
 ここで、もう一歩高みに昇って、見渡さなければならないことがある。IIテモテ2章9節で使徒パウロはこう言う、「この福音のために私は悪者のように苦しめられ、ついに鎖に繋がれるに至った。しかし、神の言葉は繋がれてはいない」。
 こう言ったしばらく後、4章6節でパウロは「私はすでに自身を犠牲として献げている。私が世を去るべき時は来た」と言う。鎖に繋がれ、間もなく世を去ろうとしている。私による福音の前進はもうない。それでも、神の言葉は繋がれていない。神の言葉が息を止めることはない。
 「主の使いが獄の戸を開き、彼らを連れ出して言った」。――主の使いの輝かしい姿が描かれているわけではない。光りが射したとも書かれていない。地震が起こって戸が開かれたのでもなさそうである。主御自身が使徒たちを連れ出されたとも、主の使いが彼らを連れ出されたとも取れる。その場面を描こうとしても非常に難しい。
 ただ、御使いの言葉はハッキリしている。「さあ、行きなさい。そして、宮の庭に立ち、この命の言葉を漏れなく、人々に語りなさい」。
 彼らはこれを聞いた、と次の21節に書かれているが、これは主の与えて下さった指示である。だから、彼らはこの指示に従って行動した。
 主は先ず「行け」と言われた。歩みを停滞させる妨害が始まったのである。使徒たちがここで歩みを留めることはなかったであろうが、妨害が重なると歩みが鈍る。そこで前進の勇気を奮い起こさせるのはなにか。主が、行け、行け、と励まして下さることであろうか。そうではない。主は一番初めの時、弟子たちに何と言われたかを思い起こそう。「私に随いて来なさい」と言われたのである。
 「行け」という言葉は、「私に随いて来なさい」との御言葉と重ねなければならない。彼が行きたもうから私も行くのである。ただ、行け、行け、と聞いているだけではそのうちに息が切れる。
 「宮の庭に立て」と言われた。主が宮の庭に立ちたもうた日のことを思い起こそう。それは受難週にエルサレムに入城し、「私の家はもろもろの国びとの祈りの家と称えられる、と言われた時である。
 「この命の言葉を漏れなく人々に語れ」と言われた。主は御自身の言葉を命の言葉と呼ばれた。命の言葉とはそれを聞くことによって聞く人が生きる、そのような言葉である。言い方を換えれば、この言葉が聞こえて来なければ、そこには命がない、そのような言葉である。人々に語るのは彼らを生かすためである。彼らは聞き始めただけで、まだ命は内に漲っていない。
 「彼らはこれを聞き、夜明け頃宮に入って教え始めた」。夜明けとともに教え始めた。これは彼らの勤勉を示す。宮は夜明けとともに門を開き、生け贄が捧げられるが、その時に遅れず説教が始まったのである。

 


目次へ