2005.10.09.

 

使徒行伝講解説教 第33

 

――5:12-16によって――

 

 

 「その頃、多くの徴しと奇跡が、次々に使徒たちの手により、人々の中で行われた。そして、一同は心を一つにして、ソロモンの廊に集まっていた」。
 「その頃」という言い方は、ある時期の教会の様子を総括的に述べる場合に用いられたものである。これは前回見たアナニヤとサッピラの事件のように、ある特定出来る日に起こったことではない。また総括的とは言ったが、教会の毎日の生活がここに全て纏められているとは言えない。病を癒す奇跡がどう行なわれたかについては一応分かる。しかし、説教がどうであったかについては、ここには何も記されていない。説教が軽んじられているということでは勿論ない。我々が知っているように、説教については詳しい記録がある。また、4章29節で読んだように「僕たちに、思い切って大胆に御言葉を語らせて下さい」という祈りがあり、その祈りに応えて、一同は大胆に神の言葉を語り出したことが記されるのである。
 つまり、奇跡があったことは、2章43節に短く記されただけであり、3章には美しの門における奇跡の一つの実例が描かれ、4章30節には奇跡を行なうことが出来るようにとの一同の祈りが記されたが、「多くの徴しと奇跡が次々行なわれた」という記録がここに纏められたのである。
 今日学ぶ聖句の中では、第一に、奇跡についての記述がある。その時、集中的に癒しの奇跡が行なわれたというのではなく、記録が集中したのである。奇跡は徴しであって、大いなる出来事そのものではなく、大いなる出来事が起こっていることに人々の注意を喚起するための、誰にも分かる手段であった。
 奇跡は「力ある業」とも呼ばれるが、大いなる力のない所では起こらない。奇跡を見て集まって来た人が、そこから福音の道に入って行くという実例はあるが、全ての場合、奇跡から信仰へと進むのではない。
 そのように真の信仰に達しない場合が数多くあるので、奇跡について冷淡になる人もいる。しかし、力ある業を忘れることは、信仰を観念化することになる恐れがある。だから、奇跡を見て信ずるのでなく、御言葉を聞いて信ずるのではあるが、抽象的・観念的信仰に陥らないように、警戒しなければならない。大いなる力の現われに触れることは必要なのである。
 卑俗な譬えであるが、店を開くとき、開店記念の奇抜な宣伝をする。キリスト教会も初期には名を知られていなかったから、大々的な宣伝が必要であったのだと了解し、今でも少なくとも初めには盛んな宣伝がなされているではないかと見ている人が多い。そう見られて無理もないような宣伝活動が盛んに行われていることがあるのは否定出来ない。しかし、原点に帰って考えて見るに、イエス・キリストが病める者を癒したもうたのは人寄せの手段であったのだろうか。明らかにそうではなかった。ちょうど、道路脇に倒れている旅人を、通りがかったサマリヤ人が助けずにおられなかったように、キリストは病人に手を差し伸べたもうた。
 使徒たちが癒しを行なった最初の例である美しの門の奇跡の場合も、人集めの宣伝ではなかった。「金銀は私にはない。私にある物をあげる」とペテロは言った。これは隣人に対する愛の業である。金銀よりもっと良い物を上げる、と言っても間違いではなかったのだが、良いことをして上げるという触れ込み、前宣伝をイエス・キリストはなさらない。キリストの使徒もそういう宣伝はしない。
 すでに何度か触れていて、6章で本格的に取り上げなければならないと予告している貧しい寡婦たちへの施し、これは人集めの手段ではなかったし、キリスト教に入信した者同士の相互扶助でもなかった。また、主から豊かな報いが来ることを期待して行なう善行でもない。自分を愛するのと同じように隣り人を愛さなければならないから、「私にある物を上げる」という単純な、計算なしの業であった。初代教会の癒しもそのようなものとして理解しなければならない。
 施しや給食の場合は「私にある物を上げる」という単純に見える行為であって、癒しの場合は特別なカリスマを必要とするという違いがあると言われるかも知れない。しかし、ペテロの行なった業に明らかであったように、「私にある物をあなたに上げる」こと、それだけであった。
 そこから考えさせられるのは、癒しは医療制度の進んだ今日、この時代の教会には無縁のこととなったのか、という問題である。医療制度は整ったとしても、人間は癒されていないし、ますます深く病んでおり、制度でカヴァーし切れないところにはまりこんでいる人も増えている。今はこれ以上議論をしないが、考える課題があることは確かであろう。
 「徴しと奇跡が使徒たちによって行なわれた」というのは、使徒以外の者にはそれだけのカリスマがなかったということであろうか。少し後には、使徒以外の、7人の執事の1人であるピリポも、サマリヤ伝道に行って奇跡を行なっている。徴しも、施しも、出会った相手が必要としているところで始まるのであって、こちらの資格とは無関係である。
 次に、「一同は心を一つにして、ソロモンの廊に集まっていた」というくだりを見る。みんなの集まりの場所が書かれているのはこれが最初ではないかと思う。初期に使徒たちはどこにいたのか。それは主の昇天をオリブ山で見送った彼らが市内に帰って、その泊まっていた屋上の間に上がった、と1章13節で言われた屋上の間であった。だが、それがどこであるかは分からない。最後の晩餐の行なわれた二階座敷がこの屋上の間ではないかとも言われる。また、その家は12章12節に「その時ペテロはこうと分かってから、マルコと呼ばれているヨハネの母マリヤの家に行った。その家には大勢の人が集まって祈っていた」と書かれている。これがエルサレムで使徒たちの集まっていた家かも知れないという推測もある。しかし、初めの日に3000人も仲間に入ったというのであるから、マルコの母の家では入りきれない。
 その他に、ソロモンの廊が集会の場所、活動の拠点ではなかったかという説がある。ソロモンの廊は宮の中の柱廊であり、柱廊の二階に部屋があった。その部屋が主イエスの在世中から集会に用いられたことが知られている。寝泊まりも出来たようである。使徒たちの泊まっていた屋上の間はこれかも知れないと考える人もいる。
 3章11節には、これは美しの門の事件の続きであるが、「彼がなおもペテロとヨハネとに付き纏っている時、人々は皆驚いてソロモンの廊と呼ばれる柱廊にいた彼らのところに駆け集まって来た」と書かれている。キリストの弟子たちがソロモンの廊にいることを人々はもう知っていたかのような書き方である。このことを記す文章はかなり分かり難いから、文章が破損したのではないかと考えられもするが、どういうふうに壊れたのかは分からない。
 一同が集まっていたソロモンの廊、これが初期の教会の集まる場であったのであろうか。それは言えないのではないか。五旬節に仲間に加わった者が3000人いたと2章41節にあったし、4章4節では信じる者の数が男で5000人というから、その数の人たちがソロモンの廊に集まることは、全く不可能ではないとしても無理であろう。このことについては結局良く分からない。集まる場所は何カ所かあったと見るほかないのではないかと思われる。ソロモンの廊はそのうちの一つである。
 13節に、「ほかの者たちは誰一人、その交わりに入ろうとはしなかったが、民衆は彼らを尊敬していた」とあり、次の14節に、「しかし、主を信じて仲間に加わる者が、男女とも、ますます多くなって来た」とあるのも続きが良く分からない。誰も加わらなかったという文脈と、仲間に加わる者がますます多くなったという文脈はもとは別々だったのではないかと思われる。そのように取れば、問題はない。
 キリスト者の群れが、他の集団と対立していたとは言えぬまでも、ある面では孤立していたのではないか。宗教的に混乱した時期である。パリサイ派とサドカイ派の対立は良く知られているとおりである。それ以外にもユダヤ教の中でさまざまの対立があった。一時的だったかもしれないが、バプテスマのヨハネの弟子の一群はかなりの勢力を持っていたはずである。また、死海のほとりのクムランという地に共同生活を営む集団もあった。また、旧約聖書をヘブル語でしか読まないグループと、旧約聖書をギリシャ語で読んでも差し支えはないというグループが対立していたことも知られている。そういう状況の中で、新しく出現したキリスト者の群れが孤立した形になったことは十分考えられる。
 しかし、その全面的孤立は一時的なものであった。6章の7節には、「こうして神の言葉はますます広まり、エルサレムにおける弟子の数が非常に増えて行き、祭司たちも多数、信仰を受け入れるようになった」と書かれている。この頃には祭司も入って来るようになった。ただし、今読んだ記事に続いてステパノの殉教、エルサレムにおける大迫害の記事があるから、伝道が順調に進んだ訳ではない。
 ここは難しい箇所であって、「ほかの人」とは使徒以外のキリスト者だと取る解釈もある。使徒以外は使徒団に加わることを敢えてしなかったという意味だとされる。それにしても、この節のほかの部分は解釈しにくい。
 「ほかの者たちは、誰一人その交わりに入ろうとしなかったが、民衆は彼らを尊敬していた」という文章の前半は良く分からぬところがあるが、後半は比較的簡単である。民衆は彼らを尊敬した。しかし、民衆から尊敬された彼らというのは、使徒なのか、キリスト者全体なのか。使徒が人々から尊敬されたのは、特に15節の記事から見ても当然ではあるが、それをわざわざ言う意味が分からない。自分の物を自分の物と言い張らない自己抛棄の生活に入った人を、民衆が尊敬したということは、意味のある記録ではないか。
 こうして、「主を信じて仲間に加わる者が、男女とも、ますます多くなって来た」。4章4節では、「男の数が5000人ほどになった」と書かれていた。男子だけを数えるのがユダヤの慣例であったから、福音書もこう書いた。しかし、変化が起きている。女性をないもののように扱うのでなく、男女を見るようになったのは教会が始めたものであろう。男女ともますます多くなって行く、という記述の仕方は、女性の増え方が大きいということではないか。
 そして、男子の場合は特に言うことはないが、女性の信者が増えて行くのは、6章に出て来る寡婦と繋がりがあるのではないかと考えられる。食べる物がなくて教会に身を寄せる人ばかりではなかったであろうが、そういう人もいたのである。そういう人も受け入れられたのである。
 15-16節を見よう、「ついには病人を大通りに運び出し、寝台や寝床の上に置いて、ペテロが通る時、彼の影なりと、そのうちの誰かに掛かるようにした程であった。また、エルサレム付近の町々からも、大勢の人が病人や汚れた霊に苦しめられている人たちを引き連れて、集まって来たが、その全部の者が一人残らず癒された」。
 ペテロが使徒のうちの最年長であり、説教も主に彼がしているので、特別に神通力のある人と見られていたようである。しかしながら、人物崇拝は危険ではないか。その影が掛かるだけでも癒されると信じるのは迷信にほかならないではないか。たしかにそうである。しかし、ペテロはそういう人を忌避することもせず、みんな受け入れ、全部癒した。
 ペテロを特別に崇めるのは間違っている。使徒行伝14章にある一つの事件を思い起こすのである。パウロがバルナバとともにルステラに伝道に行った時、説教を聞いている人の中に生まれながら足が立たない人がいて、しかしその人のうちに信仰があるのを見抜いて、「自分の足で真っ直ぐに立ちなさい」と命じたところ、直ちに立ち上がった。すると群衆は「神々が人間の姿を取って我々のところに降られた」と叫び、二人に犠牲を捧げようとした。二人は上着を引き裂いて群衆の中に飛び込み、私たちはあなた方と同じ人間であると叫んで、企てをやめさせた。
 ペテロの場合は癒しを求めた人々はみなユダヤ人であるから、ルステラのギリシャ人とは非常に違ったであろう。ペテロが神であると考えるような人は流石にいなかった。ペテロがここで自分を崇め過ぎるユダヤ人に警告しなかったのは、多忙であったからであろうか。
 癒しを頼まれて、忌避する場合があったとしても、それはそれで良いと言うべきであろう。「それは自分の務めではない」とペテロが言うことは出来たであろう。すなわち、自分に課せられた務めを抛棄してまで、病人を助けなければならないとは言えないのである。しかし、自分の務めに支障がないのに、本務以外のことを断るのは偽りであろう。己れの如く汝の隣りを愛すべし、と言われている戒めに抵触しないようにしなければならない。
 簡単に言えば、イエス・キリストならばどうされたか。これを基準にすれば良いのである。キリストは安息日に病人と出会われ、病人が癒しを願った時、今日は安息日だから、明日にしようではないかとは決して言われなかったのである。癒しが一日遅れたところで何ともない場合は多いが、一日待つことも出来ない緊急の場合はあるのだ。癒されることを願う人は概ねそういう人なのである。自分を愛するのと同じように隣り人を愛するならば、待たせるのが酷であることが分かる。実際、主イエスはその場合、待たさずに癒したもうた。
 エルサレム市内からだけでなく、付近の町々から癒しと悪霊祓いを求めて来る人々が多くいたという。主イエスのもとにガリラヤの町々から病める者が連れて来られたように、エルサレムの付近の町々から癒しを求める人たちが自分で、あるいは人に連れられて、ペテロのもとに来た。
 また悪霊に憑かれた人が連れて来られ、悪霊を追い出すことが求められることもあった。これもイエス・キリストの時と同じであった。今日の人は悪霊祓いと病気の癒しを同じ物に見るが当時の人々は別の種類のことと考えていた。悪霊祓いはかなり長い時代に亘って教会に求められた役割であった。使徒行伝の中にも悪霊祓いが実施された記録が幾つも収められている。
 悪霊が荒れ狂う時、人はなす術を知らない。悪霊祓いの術を掛けることしか考えられなかった。それは昔のことで、今では悪霊はいないではないか。………いや、或る意味で今日は昔以上に悪霊が跋扈している時期である。その問題を教会の課題から外して良いか、ということを考えねばならない時が来た。
 


目次へ