2005.01.02.

 

使徒行伝講解説教 第3

 

――1:8によって――

 

「今がイスラエルの王国を回復なさる時なのですか」と弟子たちが問うた時、「時について、あなた方は知るべきでなく、知ることも出来ないのだ」と主イエスは答えられた。そして、今が王国の再建の時であるともないとも言われなかった。
 弟子たちが考えていた、そして自分たちはそれに参画するのだと抱負を持っていた王国建設は、主の計画にあるのとはかなり違ったものであった。分かり易く言うならば、彼らが王国を考えた時、この世の王国をモデルにしていた。しかし、イエス・キリストが今や打ち建てようとしておられる王国は、ふつう王国とは呼ばれない。我々の使い慣れた別の言葉で言えば、これは「教会」であった。「我は教会を信ず」というその教会である。
 このことについては、我々がしばしば引くマルコ伝10章42節以下を思い起こすことが有益である。すなわち、「あなた方の知っている通り、異邦人の支配者と見られている人々は、その民を治め、また偉い人たちは、その民の上に権力を振るっている。しかし、あなた方の間では、そうであってはならない。かえって、あなた方の間で偉くなりたいと思う者は、仕える人となり、あなた方の間で首になりたいと思う者は、全ての人の僕とならねばならない。人の子が来たのも、仕えられるためではなく、仕えるためであり、また多くの人の贖いとして自分の命を与えるためである」。
 これが「王国」についての教えであると言ったのは、これを語りたもうたのが、弟子の間で、王国の実現の際、誰が上の座につくかで言い争っていた時だという事情を知るからである。彼らの抱くメシヤ王国への憧れは熾烈なものであったが、支配欲の一種に他ならない。
 王国は実現する。ただし。この世の王国をモデルとして、それよりさらに立派なもの、というふうに理解してはいけない。むしろ、この世の王国の原理を真反対にしたのがキリストの王国の原理である。そこでは、上に立つ者が僕となるという、この世の王国から考えれば、まるで逆立ちした原理、我々の間で馴染みのある用語を使うなら、「ディアコニア」の原理に立つ王国である。
 ディアコニアの王国は、人々の持つ王国の観念をレヴェルアップしたものではない。根本的に違うのである。そして、聖霊の力によってこそ成り立つ。ディアコニアの原理は思想として素晴らしい、と言う人がいるかも知れない。その通りかも知れない。しかし、それは絵に描いたディアコニア王国ではあっても、現実にある交わり、僕に成りきって、十字架を負って、主と隣人に尽くすディアコニアの集団ではない。御霊の力がなければ、それは青写真ではあっても、キリストの体、さらに正確に言うなら、首がキリストである体としての教会ではない。
 すなわち、「仕える」ことは我々の決意と努力によって達成されるのではなく、徹底して僕となりたもうたキリストから、御霊を通して頂いた賜物として持つのでなければ、「仕える」ということは、せいぜい追求目標としての理想、絵に描いた餅、ただの観念に過ぎないからである。それも、キリストを模範として見習っておればだんだん近づいて来る、というようなものではないのである。御霊が一人一人に降って、一人一人が新しい人間に作り替えられ、そこで一挙に仕上げられる。
 だから、主は「エルサレムを離れないで、約束の聖霊が降るのを待て」と命じられたのである。「待て」というお言葉は、8節にはなくて、前回学んだ4節にある。その言葉の意味と力が、8節を読む時にも続いていることは、十分わかるはずである。時を知ることはあなた方に出来ない、と先に言われたことと、8節の「ただ、聖霊があなた方に降る時、あなた方は力を受けて、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、さらに地の果てまで、私の証人となるであろう」と言われたこととが、必ずしもうまく結び付いていないではないか、と感じる人がいるかも知れない。それなら、今言ったようにディアコニアという要素を読み込んで取れば、スッキリ分かるであろう。
 聖霊が降ることと、地の果てまでキリストの証し人となることとを直結させておられるため、聖霊の賜物は御言葉を語る賜物、あるいは地の果てまで伝道を拡大させるための賜物というふうに取られることが多いであろう。必ずしも間違いだとは思わないが、霊の賜物を、狭く福音の宣教にだけ結び付けて、霊の力で人を増やすという受け取り方になるのはよくない。
 御霊を理解するに際して、先に我々は、仕えることが出来るようにする賜物を、聖霊によって頂くという点に重きを置いた。仕えられる者になるための、つまり人の上に立つようになるための賜物ではないのである。多くの人はこの点をキチンと見なかったために、伝道、伝道と言って、狭い意味の伝道者だけを立て、しかも、その伝道を、人数を増やすという意味にしか取らない間違いが起きた例が多い。奉仕を或る程度は強調した場合も、それが人集めの手段にしかなされなかった不幸な実例が多い。
 聖霊の賜物は、「仕える」というところに中心を置いてこそ捉えられるということに目を開きたい。仕える賜物を頂いた者のうち、或る人は御言葉に仕えることに重点を置く。或る人は貧しい人に、或る人は住む家のない人に、或る人は地上の命を終えようとする人に人間としての品位を保たせるために、主に仕えるようにしたのである。仕えることが良く分かっていない説教者は、御言葉に仕えることをないがしろにして、神の言葉を自分に仕えさせるような説教をする。そういう所ではキリスト教の人数は増えても、神の言葉の力は広がらず、救いは広がらない。
 キリスト教が他の宗教に抜きんじて、地の果てにまで広がったのは、伝道者が、地の果てにまでキリスト教の領域拡張のために遣わされたということによるだけではなかった。地の果てまで、隣人に仕えることが出来る賜物を頂いた人が、立てられたということなのだ。
 「聖霊があなた方に降る時、あなた方は力を受ける」。すなわち、聖霊によらなくては受けることが出来ない力があり、それをあなた方は受けるのである、と言われる。力といっても、人が生来持っている能力があるが、それと全然別な力である。生まれつき良い素質を持つ人がいる。その良い素質が良いことに役立てられることはある。だから、良いことのために役立つ素質について非難する必要はない。また、自分で鋭意修練を積んで素質を磨くことも決して恥ずべきことではない。しかし、そういう種類の物はキリストの証しとしては役に立たない。
 みんなの人から誉められるような良い素質を持っておれば、さすがクリスチャンは偉いと言われ、それは立派にキリストの証しになるではないかと思われるかも知れない。だが、キリストの証しとはそういうものではない。
 「エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、さらに地の果てまで」と主は言われた。ここに先ず名前の上がる地については、「回復」というテーマがあることを考えてよいであろう。エルサレムの回復については、預言者の語る機会がしばしばあったことを我々は知っている。勿論、象徴的な意味において回復が語られているのである。例えば、イザヤ書62章の初め、「シオンの義が朝日の輝きのように現われいで、エルサレムの救いが燃える松明のようになるまで、私はシオンのために黙せず、エルサレムのために休まない」。
 しかし、神の約束の成就が地上のエルサレムを中心としてなされたわけではないではないか、と言う人もあろう。そうではない。キリストの苦難の死と十字架、またキリストの復活はエルサレム以外の地では行なわれない。エルサレムに住む人がそれを受け入れて信じるということはなかったが、神の約束に関してはエルサレムで成就した。
 次のユダとサマリヤ、これはどうか。これは、昔のユダとエフライム、すなわち、ソロモンの死後分裂したダビデ王国の再統合を示している。こじつけではなく、実際ユダとサマリヤには多くのキリスト教会が建てられた。ヨハネ伝4章で主イエスはサマリヤ伝道をされた。キリストが天に去って行かれた後、盛んなサマリヤ伝道がなされた。これは使徒行伝8章14節以下で改めて学ぶことである。この地域が初代キリスト教会の中心であったことは、知られる通りである。
 そして「地の果てまで」と主は言われる。これは、「エルサレム、ユダとサマリヤの全土」と先に言われたのとは別の主旨である。ユダとサマリヤなら、それは失なわれた北王国を含めて、イスラエルに嗣業の地として与えられた領域の回復である。かつて主イエスはカナンの女から、悪霊に憑かれた娘の救いを請い求められた時、「私はイスラエルの家の失なわれた羊以外の者には遣わされていない」と答えたもうたと、マタイ伝15章24節に記している。その時、結論的には、その娘の悪霊を追い出したもうたのであるが、主イエスがご自分の働きの境域を設けておられたことは確かに読み取れる。けれども、今やそういう境界線はなくなった。イエス・キリストはユダヤ人のための救い主ではなく、万国、万民の救い主であることを明らかにしたもうたのである。
 キリスト教が最も伝道熱心な宗教であり、地上の全域を覆っていることは人々の認める通りである。マタイ伝では、「全ての国民を弟子とせよ」と言われ、マルコ伝では「全ての造られた者に宣べ伝えよ」と命じられた。
 しかし、単なる伝道熱心というだけでは、キリストの御心から外れて行くこともある。ハッキリ言って、キリスト教はこの点でかなり重大な誤りを犯したことを知らなければならない。今は詳しく論じることは出来ないが、キリスト教が世俗権力の側に立った宗教になり、そういう立場に立つようになってしまった自分自身を検討する力を失なったのちに、「地の果てまで」というスローガンが歪んで強調されるようになったと言えば或る程度、本質を捉えて貰えると思う。
 キリスト教国と言われる国の多くは植民地を経営する国となり、キリスト者たち自身は支配者でなかったかも知れないが、支配者の側に立つ者の目でものを見るようになった。そして、その見方から抜けきれないままで聖書を読んで来た。かなり聖書の精神を歪めたところがあるのではないかと思う。今般始まった使徒行伝の学びでは、御言葉によってこちらの目の歪みを正されるようになりたいと願っている。
 さて、「地の果てまで」ということを主が語られた時、征服欲に膨れ上がった人が、地の果てまで版図を拡げようと思って見るその目とは違う目で、世界を見ていなければならない。キリスト教が世界伝道に熱心になった時期は、キリスト教国が植民地獲得や、外国貿易で利益を上げることに熱心であった時期と重なる。
 海外伝道が利益追求と結び付いていたと言うならば、言い過ぎかも知れない。もっと純粋な愛と熱意で福音未到達地域の人々のことを考えた宣教師は確かにいた。しかし、そうでない宣教師がいたことは事実であり、そうである宣教師とそうでない宣教師との間に厳しい対立や戦いがあったわけでないということも事実である。
 「地の果て」という言葉を主イエスが言おうとしておられた意味で使ったかどうかを検証しなければならない。主は、「私は天においても、地においても、一切の権を与えられた」と宣言されたが、そのことと地の果てということは同じ意味なのである。一つの国が地の果てを見、一つの商社が地の果てを見るのと同じ次元で、教会が地の果てを見ていてはならない。国家の見る目と全く違った目で教会は地の果てを見ていなければならない。国家の利害という観点が全く入らない見方が出来るようにならねばならない。それは使徒行伝の時代の教会人には容易に出来た。今は不可能ではないがかなり難しい。つまり、今は国家というものが国民の意識を操作している。教会と国家をキチンと分離する考え方の訓練を積んでいないと、教会人も国家の代弁人になってしまう。
 今日は、この問題だけにかかずらっているわけには行かないから、議論はここで止めて置くが、キリストが全地の主で在ますという観点から、地の果てを望み見るようにしなければならない。
 あなた方は「私の証人となる」と主キリストは言われる。ルカ伝においても復活の主は「あなた方はこれらのことの証人である」と24章48節で強調される。この証しについて、ヨハネ伝の中で重要なことを教えられた。最初に証人について学んだのは、福音書がバプテスマのヨハネについて語るところであった。「この人は証しのために来た。光りについて証しをし、彼によって全ての人が信じるためである」。キリストの証しはキリストの出現以前から立てられていた。
 キリスト以前と言えば、もっと前からキリストの証し人はいる。アブラハムはキリストの日を遥かに望み見て喜びをもって語っていた、と主は8章56節に言われる。モーセも荒野でパンを食べさせることによって、まことのパンである御子を証しした、と6章で言われる。
 以前からの証しよりも遥かに大いなる証しについて主は語りたもう。5章35節では「私にはヨハネの証しよりも、もっと力ある証しがある」と言われる。それは何かと言うと、私のしている業がそれであり、また「私を遣わされた父も、ご自分で私について証しをされた」と言われた。
 15章26節-27節では、「私が父のみもとからあなた方に遣わそうとしている助け主。すなわち、父のみもとから来る真理の御霊が降る時、それは私について証しをするであろう。あなた方も初めから私と一緒にいたのであるから、証しをするのである」と言われる。ここに、証しについて最も重要なことが出尽くした。父が証しし、御霊が証しし、キリスト以前の証し人が証しし、そして、あなた方も証しする、と言われる。
 弟子たち、さらに枠を広げて信仰者たち全てが証し人という使命を持つ点は非常に重要である。これは繰り返し強調しなければならない。しかし、信仰者が立てる証しが最も重要であると取ってはならない。「あなた方も証しする」と言われたのは、付け足しと言っては正しくないが、序列から言えば最後である。御霊の証しの時代はもう終わって、キリスト者が証しを立てる時代になったと思うならば、証人たる者の自信過剰である。その証しは主観的なものに陥り勝ちである。主観的な証しを却けて、むしろ御霊と水と血の証しということがヨハネの書簡で言われる。これは洗礼の持つ証しとしての確かさを言ったものであるが、御霊の証しはこの後も最も重要である。
 使徒ヨハネは第一の手紙の5章6節で、「このイエス・キリストは水と血とを通って来られた方である。水によるよるだけではなく、水と血とによって来られたのである。その証しをする者は御霊である。御霊は真理だからである」。
 あなた方は私の証し人になる。その証しとしては、証し人である人間の立てるものが飛び抜けて重要であると思ってはならない。御霊に証しの第一の座を委ねなければならない。
 


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