エルサレムの議会は、尋問が済んだところで、ペテロとヨハネを退場させて、判決を纏める作業に入った。判決が定まった段階で二人はまた呼び入れられ、判決が申し渡されるのである。これが使徒行伝4章の15節に記されている事情である。「そこで、二人に議会から退場するように命じてから、互いに協議を続けて、言った……」。
議会は一応冷静に問題を処理していたが、内心大きい心配事を抱えていた。これまでの経過を言うと、彼らは先に、ナザレのイエスの言動は神を汚すもので、死に当たると判決したが、ローマの支配下で許されていたユダヤの自治権には、死刑の権限がなかった。そこで、犯人の身柄を総督ピラトのもとに送って、裁判を開いてもらおうとした。ところが、ピラトはこのような罪状では、ローマの法律によれば、訴えられた者を死に定めることは出来ない、と言う。
ユダヤ人の指導者はこのままでは引き下がれないので、強引な主張をして、とにかくナザレのイエスの十字架刑を執行させた。彼らはこれで一件落着と見たのであるが、間もなく、エルサレムでは、ナザレのイエスは復活したらしいという噂が静かに広がる。墓が空になっていることは隠しようもなかった。このことだけでは大きい動揺にはならなかったが、「ナザレのイエスの名によって歩め」とペテロが呼び掛けると、これまで足が立たなかった人が立ち上がり、歩き出すという出来事が起こった。
それが多くの人の見ているところで起こったのだから、イエスの名には人を立ち上がらせ、また癒す力があることが知れ渡る。またこの奇跡によって、キリスト自身の復活も間接的に証明されたと受け取らなければならない。ユダヤの指導者が十字架につけて殺したイエス・キリストを神が甦らせた、とペテロたちは説教し始めた。これは議会にとっては、まさに存亡が問われる事態であった。だから、議会が自分の権威と名誉を守るために集まったようである。
今般の議会の開催は、サドカイ派が言い出したことらしいと我々は4章1節の記事から推測した。サドカイ派の利害が最も大きく関わると思われるのである。すなわち、今起こっていることは、「死人の甦りはない」と言い切っていたサドカイ派にとっては甚大な打撃である。彼らの教理を建て直さなければならないかも知れない。サドカイ派の信用は落ちるのである。しかし、サドカイ派だけでなく、いろいろなグループがいろいろに困惑していた。
主イエスの死刑を定めた議会の決議に参加した人たちは、その判断の誤りを民衆から追求されることになったのに気付いている。議員たちはあれこれ考えて、最も無難な解決を求めたのである。「あの人たちを、どうしたら良かろうか、彼らによって著しい徴しが行なわれたことは、エルサレムの住民全体に知れ渡っているので、否定しようもない」。――これだけ知れ渡ったことは、打ち消すわけに行かない。それなら、そのまま触らずにそっとしておく他ない。
しかし、このことがこれ以上民衆の間に広まって行くとすれば、民衆の議会に対する不信感は爆発する。そうならないためには、どうすれば良いか。民衆がイエスの弟子たちに、癒しの奇跡を求めるということはあるだろう。それを禁じても抑えきれないであろう。だから、力ある業をすることは黙認するほかない。けれども、「今後はイエスの名を語ってはならない」ということにしよう。
イエスの名によって語ってはならない理由は何か。それは述べられていないが、刑死人であるのに神が甦らせたもうたということになると、天地が覆る大騒動になるに違いないから、それを回避したいのである。
議員たちは「おどかしてやろうではないか」と相談したと書かれているが、「脅かしてやろう」というふうに解釈したのでは、まるで無法者の相談事である。議会の決定としてはおかしい。これは、「今回は見逃す。しかし、次回からは、もしこういうことを止めないなら、有罪として扱う。鞭打ちの刑に処す」という判決なのだ。実際、5章40節で見るように、彼らが禁止を破って、イエスの名によって語った時、鞭打ちの刑に処せられた。
「この名によって語る」という言い方について、さらに見て行きたいと思う。「名によって」という言い方は、聖書では聞き慣れているから、我々は混乱なしに聞いているが、日常生活の中では余り聞かない言葉である。そもそも名という言葉を聞く機会も普段の生活ではまれである。名前を出す必要がないほど知り合っている場合か、名前を出し合って相互に義務づけられることを疎んじる社会であるかであるから、名前はなくて良い。
しかし、改まった席になると、名前はずっと大きい意味を持って来る。それは聖書の世界だけのことではない。人は真面目になればなるほど、名というものについて考えなければならなくなる。つまり、私が私であることは、名前によって表されているのである。現代の人が見れば別世界の笑い話しのようであるが、昔、ある時代、人は戦争で先ず名を名乗り合って、それから斬り合いを始めた。そういう悠長なことはしておられないという風潮から、このしきたりはなくなって、相手の名を知らないうちに殺されるのが通例になったのだが、ホントウは自分が自分であることの最も真剣に問われる場であるから、名を言い表わすことが必要であった。
これは名というものの持つ意味の重さに関する一般的な考察であるが、「イエスの名」
という時にも、この一般論は通用する。イエスという名を唱えるだけで、救いが実現するほどである。
「名」ということについて、さらに掘り下げたいが、今日の聖書の学びとしては、余り時間を費やすことは出来ないので、あとは各自で考えるとして、「名によって」という言葉について考えることにする。イエスの名によって洗礼が行なわれるというような、またイエスの名によって祈るというような実例を我々は幾つも知っている。これが名義上というような軽い意味でない決定的な確かさを保証するものであることも分かっている。
「名・によって」という言い方をすればどういう意味になるかを説明することは、議論としてはなかなか難しい。「によって」という言葉「エピ」というギリシャ語は、「の上に」とか「に向かって」とかいう意味なのだが、今ここでは言葉遣いの慣用上こういう意味になるということで呑み込んで置くのが適当であろう。
「何々の名によって」とは、軽く語られることもあるが、真の意味では、そのアクションが、あるいは言葉が、本来だれのものであるかを表明するものである。「イエスの名によって」とは、主イエスがここにいますことは見えないけれども、事実ここに在し、業をなしたもうということである。
「イエスの名によって」と言われたかどうかは書かれていないが、実質的にその意味を良く分からせてくれる実例を思い起こしたい。使徒行伝19章13節にある事件であるが、パウロがエペソで伝道していた時、ユダヤ人のまじない師が、悪霊に憑かれていた者に、「パウロの宣べ伝えているイエスによって命じる。出て行け」と言った。すると、悪霊がこれに対して言ったのである。「イエスなら自分は知っている。パウロも分かっている。だが、お前たちは一体何者だ」。こうして悪霊に憑かれている人がこのまじない師に飛びかかって傷を負わせるということがあった。
イエスの名を信じていないのに、ふざけて、冒涜的に、試しにこの名を使ってみた。すると、この名が有効であった。けれども、その名を用いた人自身にとっては惨憺たる禍いであった。だから、イエスの名によるという言葉の持つ力を信じなければならない。けれども、軽率、不真実にこの名を用いることは出来ないという教訓が得られたのである。
議会がイエスの名ということについてどれほど分かっていたかは掴めないのであるが、とにかく、彼らはこの人の名によって語ることを禁止した。17節では「この名によって」と書かれ、18節では「イエスの名によって」と書かれているが、原文でもこの通りである。イエスという名をなるべく使わないようにしようとしていたらしい。これは彼らにとっては呪わしい名であった。
ところで「イエスの名によって語る」とはどういうことかという問題に入らなければならない。これを禁止した人と、禁止を申し渡された人では捉え方が違うということに我々はすでに気付いている。
「いっさい誰にも語るな」と禁じた人は、この名が広められることを忌まわしく思い、また恐れている。この名が封じ込められ、やがて忘れられて行くのを彼らは期待しているのである。
そのように権威によって禁じられたのに対して、ペテロとヨハネの答えた言葉を学ぶのだが、これはこの時だけでなく、教会の後々の時代まで、繰り返し覚えられる大事な言葉である。これは思い切って大胆に語られる。同じ主旨の言葉が5章29節にも繰り返される。我々はそこでも、この言葉を学ぶ。
「ペテロとヨハネとはこれに対して言った、『神に聞き従うよりも、あなた方に聞き従う方が、神の前に正しいかどうか、判断してもらいたい。私たちとしては、自分の見たこと聞いたことを、語らないわけには行かない』」。
教会の後々の時代と言ったが、権力が教会の信仰を窒息させようとして脅かしをする時、神の民らはつねにここに立ち返るのである。そういうわけで、神の民は神から与えられた抵抗権という宝を持っていることを弁え、子々孫々に伝えて行くのである。
巧妙な罠にはめられて、抵抗の機会を見失って仕舞う場合も稀ではない。日本の教会はこの点で大きい失敗をした。だから、悔い改めなければならない、と多くの人は言っていた。しかし、罪責告白のブームは次第に下火になり、抵抗の声を上げなければならない情勢になっても黙りこくっている。
つまり、日本の教会はキリストの教会が初めの日からもっていた基本姿勢を、聖書に従ってシッカリ学ぶべきであった。ところが、聖書にある古い事には魅力を感じなくなった人たちは、新しい理論を追い求めた。新しい理論を追い求める方がキリストのご意図に添うことが出来るという宣伝が効いて、人々は新しいものに随いて行こうとして、主の民の道を忘れた。そうすると、風向きが変わった時、どうして良いか分からなくなって、沈黙が普及し出した。かつては時代のことを勇ましく論じていた人たちは何も言わなくなった。
しかし、人の咎を追求しても益はない。我々にも悔い改めねばならない点が多々あるのであるから、今、御言葉にシッカリ聞いて、シッカリ考えて行くようにしたい。
人に従うよりも神に従うべきであるとはどういうことか。神は全てのものの造り主であられるから、造られたものは皆、造り主に従わなければならないのは当然である。だから、人に従うよりは神に従うべきであることは言うまでもない真理である。
ペテロとヨハネの答えたのがこういう意味だと受け取っている人がかなり多い。それが甚だしい誤りであるとは言わないが、キリストの光りに照らして、ここはもっとキチンと捉えるべきである。
聖書は「上にある権威に従え」と命じている。これが最も重要な告白条項でないことは確かである。神以外に真の意味の権威はないのだ。だから服従はないのだ、と雑ぜっ返す人もいる。それが正しいと言えそうに思われる場合はあるが、権威を認めないと、無秩序に陥ってしまうし、一方、人々の中には、他の人を支配しようとする本能的欲求があって、自制することを知らない。これでは自滅する他ない。そこで、神は秩序を与え、この秩序を人々に守らせることを宜しとされた。だから、どういう社会にも権威を帯びる人がいて、その人が統治を行なう。権威を帯びている者を尊べと主は言われるが、尊ぶとは崇めるということではない。主の故にこれを立てて、安寧と秩序を重んじるということが大事なのである。
権威というものは、神から来るのだから、神を知らない者は権威を理解することが出来ないではないか、と言う人がいる。それは間違いと言ってよいほどの粗雑な議論である。神を知らない人が神のなしたもうたことを十分に理解出来ないのはその通りであるが、神は人間に被造物としては最高の知恵を与えて、その知恵によって、秩序を守ることの大切さが理解出来るようにしておられる。
同時に、支配する者には、支配する者として弁えるべきことを悟らせようとしておられる。そのことがチャンと捉えられていない場合が多いことは事実である。それでも、支配する者には、徳とか、知恵とか、知識が必要だということは、人類社会においては常識になっている。もっとも、その常識は昨今急激に失われた。
丁度、木が生えているからといって、無闇に伐採していては森林が荒廃してしまうから、自己抑制しながら切って行くのが昔からの知恵である。そのように、支配する者には自己抑制とか、節度とか、次の時代のために残して置くべきものの保護とか、貧しい者への思い遣りとか、知性を磨く修練がなければ、権力は腐敗し、内部崩壊してしまう。そのような内部崩壊の兆しを至る所に示しているのが我々の住んでいる国であるということも、かなり明らかになって来ているではないか。したがって、その歪みを修正する力が働く。
しかし、キリスト者の抵抗とは、社会の中に組み込まれている復元力として理解すべきものではない。キリスト者の抵抗が結果として社会の歪みを正すことは大いにある。けれども、キリスト者はこの世のために権力の誤りに抵抗するのではなく、みこころが天になる如く、地にもなさせたまえ、と祈る民としてそれを行なう。だから、みこころが何であるかを知らなければならない。また抵抗が自己目的化したり、反権力の戦いに深入りしてはならない。
人に従うとは、この場合、イエスの名によって語ることを自制することである。議員らが言うように、世界がガタガタ崩れている時だから、異を唱えず、静かにしていることが良いではないかと考える選択もあったであろう。
しかし、神に従うことを優先しなければならない。神に従うとは信ずる者の数を増やすことであろうか。必ずしもそうではない。神の御旨が行なわれるためには人数を減らす場合もある。ギデオンは全イスラエルから3万2千の兵を集めたが、そのうち2万2千を先ず帰らせ、残った1万人を選別して8百人にした。
つねに少数者でなければならないと主張するなら人間的主張になる。しかし、常に多数を目指しているなら、それは人の世の拡張主義であって、神の支配とは全く逆の方向を向くことになる。
「私たちとしては、自分の見たこと聞いたことを語らないわけには行かない」。今日の我々においても同じである。我々は何を聞いたか。何を見たか。キリストによって新しい世界が来たのを見たではないか。それを、憚ることなく語ろう。
|