2005.08.14.

 

使徒行伝講解説教 第27

 

――4:13-14によって――

 

 

 「人々はペテロとヨハネとの大胆な話し振りを見、また同時に、二人が無学な。ただの人たちであることを知って、不思議に思った。そして彼らがイエスと共にいた者であることを認め、かつ、彼らに癒された者がその傍に立っているのを見ては、全く返す言葉がなかった」。
 ペテロとヨハネは一晩留め置かれ、朝から議会に引き出されて、尋問されたのである。その時、美しの門で癒された人も傍にいたというのはどういうことか。彼も逮捕され、留置されたのか。そうでなくて、多分、この二人を取り調べるための証人として連れて来られた人の一人だったということではないかと思われる。9節でペテロは「私たちが今日、取り調べを受けているのは、病人に対してした良い業についてであり、この人がどうして癒されたかについてであるなら、うんぬん」と言っている。癒しの事実についても、癒された本人を呼んで、証人尋問をして調べたのであろう。ペテロとヨハネの経歴についても証人を呼んで調べたのではないか。ルカによって記されたこの記事は、このほかにも、いろいろの事実を省略したようである。
 省かれたことが沢山あるとしても、書かれている大事なことだけ読んで行けば良いのではないか。さて、先ず注目を促されるのは、「大胆な話し振り」という言葉である。これに驚いたのである。先に学んだ8節には「ペテロが聖霊に満たされて言った」と書かれていた。「聖霊に満たされて語ること」と、「大胆に語ること」とは内容的に合致する。もう一つ、語ったのがペテロ一人ではなく、ヨハネも一緒にいて、同格に扱われたことが分かる。
 ペテロとヨハネは、主から召しを受ける前にすでに一緒だったことがルカ伝5章の記事で分かる。また22章によれば、最後の晩餐である過ぎ越しの用意のために遣わされた。復活節の朝、主イエスの墓が空になっていると聞いて、二人で走って行った。そして、使徒行伝8章14節では、「サマリヤの人々が神の言葉を受け入れたと聞いて、使徒たちはペテロとヨハネをそこに遣わした」と言っている。このように、この二人はしばしば組になって行動したのである。この二人が特別に重要な地位にいたと考える必要はない。二人一組ということを重要視したいならば、十二人一組ということを見なければならない。欠員を補充して、十二という数を揃えたことは、この十二人一組の団結の重要性を示している。
 大事なのは、彼らが聖霊に満たされて語ったという点であるが、使徒だから聖霊を受けたということではない。聖霊は信ずる全ての者に与えられると約束されている。2章4節では、「一同は聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、いろいろの他国の言葉で語り出した」と言われた。4章31節では、「彼らが祈り終えると、その集まっていた場所が揺れ動き、一同は聖霊に満たされて、大胆に神の言葉を語り出した」と言われる。別々の事件であるが、事件の本質は同じである。
 「大胆に語る」あるいは「憚らず語る」、「率直に語る」と訳される言い方が、新約聖書によく用いられる特徴ある言葉であることについて、我々はすでに知っている。御言葉は、口籠った言い方や、何かを憚ったような、オズオズした言い方でなく、ズバリと言い表される。
 これは、語る人の物の言い方、話術として記録されたと取っては十分な理解ではない。むしろ、神の言葉が聞く人の中にスーッと入って行くところを表現した言い方だと受け取った方が分かり易い。御言葉は聞いてもなかなか素直に受け取られないという事実があることを我々は沢山経験している。その事実を無視する者ではないが、御言葉が入って来る本来の入り方は、チビチビと、ケチケチと入って来るのではなく、ズバリと受け入れさせる。謂わば、取引なしの無条件降伏である。この受け入れに対応するのが「大胆に語る」と言われる語り方である。
 この言い方は、使徒行伝にはこれまで一度使われたことがある。それは2章29節で、その時もこの言葉の特質に注意を促された。「兄弟たちよ、族長ダビデについては、私はあなた方に向かって大胆に言うことが出来る。彼は死んで葬られ、現にその墓が今日に至るまで私たちの間に残っている」。「大胆に言う」とペテロが言ったのはダビデの墓があるという当たり前の事実でなく、死人の甦りの福音に拘わるからである。
 これ以後盛んに用いられるのは、ここに転機があったと考える必要はない。言葉としては文書の中に使われていなかったとしても、五旬節の朝の説教にも、ソロモンの柱廊における説教にも、すでにそういう語り方の実態があったと見なければならない。
 さて、「大胆に語る」という言い方が当てはまる場合が二種類あって、第一は説教、公衆の面前で福音が語られる場合である。この場合、言うべき事項を余さず語るという含みがある。大胆という言葉は必ずしも好感を持たれるばかりではなく、気遣いの足りなさ粗野さとして軽蔑されることが多いのである。しかし、人間的な気遣いが優っているところでは、人間の業が自己簡潔してしまう。
 大胆さは人間の個性の一種、積極性や冒険好みと近いもののように考えられ、それで納得していることがあるが、その理解も問題である。大胆な性格が良いことのために用いられることはある。しかし、人間の性格としての大胆さに目が向いてしまうならば。聖霊が語らしめる大胆さは分からなくなる。
 もう一種類、大胆に、憚るところなく、ハッキリと語られなければならないのは、議会とか、王とか、長官とか、この世の権威を前にして語る場合である。この場合、大衆に語るのと全く同じ意味ではないが、重要度においては劣らないということを見なければならない。
 多くの人々に向けて大胆に語ることについて、教会では常日頃教えられる機会が多い。だから今は要らないと言うならば、それは良くない。今日学んでいる聖書箇所でも、民衆に対して宣べ伝える意味を考えなければならない、すなわち、福音は万人に開かれているのであるが、万人が福音に心を開き、また求めているわけではない。むしろ、心を閉ざしている。だから、その心の扉を打ち砕く力を籠めて、福音が心の底まで貫通して行くように、説教されなければならない。それが「大胆に語る」ことである。
 そのように、多くの人を動かすように語り掛けることは重要である。だが、聖書が語っているもう一つの大胆な語り方を今日は学ばなければならない。少し先になるが、この章の29節、「主よ、今、彼らの脅迫に目を留め、僕たちに、思い切って大胆に語らせて下さい」と祈られている。イエスの名によって語ってはならと議会から禁じられているのに、敢えて語るのである。
 この場合、「大胆に語る」は、必ずしも権力者に向かって大胆に語ることではない。この場合は、権力者によって禁止されているにも拘わらず、人々に向かって大胆に語ることである。議会がイエスの名によって語ることを禁じた。その状況のもとで、大胆に語ることが出来るように祈っているのであるから、禁止する者らに対して大胆に抵抗するという意味はあるが、民衆に対して大胆に語るという意味が主であることは明らかである。――ただ、脈絡の通らないのは、27節で、「ヘロデとポンテオ・ピラトとは、異邦人やイスラエルの民と一緒になって……」と言うところで、神に逆らう元凶はヘロデとポンテオ・ピラトだとしているが、イエスの名によって語るのを禁じた権力は、70人議会であった点である。恐らく、議会の上にユダヤではピラトがおり、ガリラヤではヘロデがいる、と捉えているということではないか。
 それでも、権力が禁じたのに、なおイエスの名によって語るとは、禁じた者が聞いているか聞いていないかは別問題として、禁止に大胆に逆らってキッパリ「ノー」と言い切るという意味を含んでいる。
 権力は自分のもとにある領域を、自分の思いのままに支配したい、また支配できると思い込んでいるのであるが、権力が立ち入ってはならない領域があるのをしらない。そのことを知らない時、忘れた時には思い起こさせる務めが「教会」に常時ある。この点で教会が黙ってしまうなら、権力は領域をズンズン拡大する。教会は黙ってはならない領域があることを弁えなければならない。
 この事情を語るのが、エペソ書3章10節であって、「それは今、天上にあるもろもろの支配や権威が、教会を通して、神の多種多様な知恵を知るためである」と書かれている。「天上にあるもろもろの支配や権威」という句は確かに解釈が厄介である。これは、地上の支配や権威とは別の、神話的なものを想像しているのではないかという解釈もある。しかし、地上の権力が地上のものでありながら、それを越えた天上のものであるかのように思い上がっていることを指したと取るのが適切ではないかと私は思う。とにかく、この権力に対して、「教会が知らせる」のだと言われる。教会は権力に対して黙っていてはならない、ということはハッキリしているではないか。
 もし、教会が政治に関することについては沈黙すべきであると主張するなら、それも一つの宗教的見解だと認められるとしても、聖書の教えている道とは違うのではなかろうか。この問題について現今、深く考えなければならないことを我々は知っている。しかし、今日その議論に説教の時間を取りすぎてはならない。
 「教会を通じて知らしめる」とは、神話ではない。「大胆に語る」ことの現実の結果を言うのである。
 今引いたエペソ書の言葉は難解と感じられたかも知れないが、主イエスが語っておられた福音書の言葉はもっと平易であり、また使徒行伝のここに書かれた状況と良く合致する。その主の言葉は、マタイ伝10章17節から19節まで、マルコ伝13章9節から11節まで、ルカ伝21章12節から15節まで、この3箇所に並行して書かれている。
 マルコ伝の記述が主イエスこの言葉の記録としては最もよく保存されていると見られるので、そこを読んで置こう。「あなた方は自分で気を付けていなさい。あなた方は私のために衆議所に引き渡され、会堂で打たれ、長官たちや王たちの前に立たせられ、彼らに対して証しをさせられるであろう。こうして、福音は先ず全ての民に宣べ伝えられねばならない。そして、人々があなた方を連れて行って引き渡す時、何を言おうかと、前もって心配するな。その場合、自分に示されることを語るが良い。語る者はあなた方自身ではなくて、聖霊である」。
 大胆に語るという言い方はここに使われてはいないが、実質は聖霊が語らせるという言い方に含められた。
 ここには「衆議所」という語があるが、使徒行伝で「議会」と訳されたのと同じ語である。ペテロとヨハネが議会に立たせられた場面と符合する。議会に引き行かれたことについては、すでに見たが、議会はイスラエルの民の秩序を守るモーセ以来の機関であって、その為に権威を与えられている。イスラエルの社会では政治と宗教は分離していなかったが、長老たちの会議の機能は主として政治機能であった。この限りでは長官たち、王たちと同列である。原則的には従わなければならない。しかし、主の御旨に反してでも従うということはあってはならない。
 そのような政治的権威の前で証しをさせられることがある。「証し」とはここではどういう意味であるか。いろいろな場合がある。が、イエス・キリストを主と信じているか、と問われて「私はそう信じる」と答えることに帰するのではないか。これが証しの最も簡潔な形式だと言って良いであろう。命を捨てることによって信仰の証しを立てることが正式の証しとされたのかも知れない。ヨハネ黙示録2章13節に主の言葉として、「私の忠実な証人アンテパスがあなた方の所で殺された時」という句がある。アンテパスが殺されたことは確かであるが、殺されたから証人と認められるようになったかどうかは確認できない。しかし、殺されたから証人であると言われるケースはこの後には多いので、アンテパスもそうだったのではないかと推測される。
 マルコ伝13章9節の「証し」もそういう意味、すなわち殉教を指していたと解釈すべきかも知れない。しかし、ここで証しが殉教か、殉教でない証しかということは、是非とも明らかにしなければならないポイントとは言えないであろう。
 「彼らに対して証しされる」と言われる。彼らとは権力者である。その証しによって彼らがキリストを信じる者になる場合はあるが、ならない場合も多いということを我々は知っている。
 証しが受け入れられるとは、証しされた事柄が信じられたという意味になるが、権力者に対して命を賭けて証しし、それで権力者が信仰に入るという実例は少ないと思う。しかし、その証しが空しい証しであったとは言えない。少なくとも、権力が無効になる場合があるということが証明されるからである。
 次に、そこで権力の尋問に対する答えとして語られる言葉が、自分で考え出したものでなく、聖霊によって与えられた言葉であり、したがって証しを立てたのは聖霊であると言われる。この箇所が並行しているルカ伝21章14節では、「だから、どう答弁しようかと、前もって考えて置かないことに心を決めなさい」と先ず言われる。これはマルコ伝と同じであるが、その後に、「あなたの反対者の誰もが抗弁も否定も出来ないような言葉と知恵とを私が授ける」と続く。この部分が使徒行伝4章13節後半の、「二人が無学な、ただの人たちであることを知って、不思議に思った」と言われる所、また14節の終わりの「全く返す言葉がなかった」とあるのとが重なる。
 「無学のただ人」という言葉はクリスチャンの間で人気のある句であるが、馴染みがあるからといって、正しい意味を読み取る熟慮を怠って良いと考えないようにしよう。使徒たちは無学と言われるような経歴であったが、今ルカ伝で読んだような、神からの知恵を受けたのである。14節の「全く、返す言葉がなかった」とは、ものが言えなかったというよりも、言葉を返すことが出来なかったという意味であろう。
 この辺り、記録が簡略化されたらしい旨を先に述べたが、使徒と議員の間に問答が交わされ、議員の中の特に律法学者が答えに行き詰まったと推測できるのである。証人が呼ばれたと考えられることも述べた。ペテロ、ヨハネの身元調べもなされた。
 彼らの説教の内容についての尋問があったのは当然である。聖書の引用と聖書解釈について、専門の学者が素人をたしなめようとして厳しい質問を浴びせたと推測するのはむしろ自然であろう。
 それに対して、使徒たちは明快な答えをしたのである。尋問への答えをするに当たって、ペテロが聖霊に満たされて語ったと述べられたが、聖霊の助けによって、どんな難問にも直ちに当意即妙に答えられたと考えても支障はないが、聖霊の働きを頭の回転の速さの程度のものとして理解しては不十分であり、浅薄な頓知話しになってしまう。使徒たちは聖書の言葉を適切に引用して答えたのであるが、そこに御霊の導きがあったのである。

 


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