2005.07.24.

 

使徒行伝講解説教 第25

 

――4:1-4によって――

 

 

 使徒による説教の二回目のその日に、すでに教会への迫害が始まった。説教者は逮捕され、留置されたのである。しかし驚くことはない。むしろ、第一回の説教の時に妨害が入らなかったことの方が不思議だと言うべきかもしれない。主なるイエス・キリストは十字架に死にたもうたのであるから、彼の後に随いて行く者も、後に随いて行くことが何であるかを承知し、その覚悟が出来ていなければならないのは当然であろう。ただし、そのような苦難を大袈裟に取り上げ、また苦難を功績として誇るようなことがあってはならない。
 一つの運動が始まった時、その運動が良くても悪くても、反動、あるいは弾圧を引き起こすのは通例のことである。この初期弾圧によって簡単に潰れてしまう運動が多い。しかし、指導者がキチンとしていた場合、初期の試練を乗り切ることが出来る。そういうことも、ものを考える人なら十分知っている。そこで、キリスト教会が初期の試練をどのように乗り切ったかに関心を持つ人は少なくない。そういう関心がいけないと言おうとするのでは必ずしもないが、聖書から読み取る重点がそれであると考えるなら、お寒い話しである。
 ここで始まった迫害事件の第一幕の結びと言うべき箇所、それは5章の終わりであるが、その41節にこう書いてある。「使徒たちは、御名のために恥を加えられるに足る者とされたことを喜びながら、議会から出て来た」。――つまり、キリストの御あとに随いて行くに足るものと認められたのを喜んでいるのである。キリストに随いて行くことが、やっと本格化したと言っているかのようである。
 キリストは復活したもうた。主は生きておられる。生ける主に我々は続くのである。そのことは単なる思い込みの信念でなく、経験的に確認できたのを喜んでいる。その経験というのは、主のなしたもうたような奇跡を実行する力があるということもないわけではないが、むしろ、主の苦しみに私も与ることが出来ていると確認する経験であった。これが大事な点である。迫害という大問題に如何に対処すべきか、というようなことは信仰者の念頭にはなかった。主の勝利に続くのだという確認があるところに、彼らの勝利が結果として露になって来るのである。
 本文を読んで行こう。「彼らが人々にこのように語っている間に、祭司たち、宮守がしら、サドカイ人たちが近寄って来て、彼らが人々に教えを説き、イエス自身に起こった死人の復活を宣伝しているのに気を苛立て、彼らに手を掛けて捕らえ、はや日が暮れていたので、朝まで留置して置いた」。
 5000人ほどの人たちが使徒たちの説教を聞いている。その大群衆の目の前で説教者が逮捕され、連行されて行く。それにしては余りにも静粛ではないか。本当らしく思われないではないか、と感じる人は少なくないと思う。しかし、作り話ではない。大混乱が起こるのが当然であると考えて良いのだが、ここには自然に起こる出来事とは違った種類の出来事が起こっていた。
 主は生きておられる。そのことが確認される所では、物事が静粛に運んでも不思議ではないのである。大混乱が起こって、人々が興奮し、その中でこの世ならぬ異常現象が見られるということにはならなかった。使徒たちが群衆に静粛を守るようにと指示したことは書かれていないけれども、確かであったと見て良かろう。しかし、群衆が不穏な成り行きを示したので、使徒たちがこれを静粛にさせたということではない。
 ナザレのイエスが静かに十字架につき、静かに息を引き取りたもうたことを彼らは知っている。それが敗北でなかったことを人々は今聞いた。彼らは静かに、深い感動に入った。
 明らかに、祭司や宮守がしらや、サドカイ人が権力を濫用して使徒たちの宣教活動を鎮圧しているから、群衆が騒ぎ出すのは当然であると言える。彼らがここでおとなしくしていたのは、祭司や宮守がしらの権力を恐れ、悪が跋扈するままに任せたということではない。主の御旨が現われるのを信じて待つためであった。
 さて、「彼らが人々に語っている間」と書かれている。これは使徒たちの説教を言うのである。使徒とも、ペテロとヨハネとも書かれていないから、これは群衆が口々に論じ合っていたのだと取る人もいるようである。だが、そういう説は取り上げなくて良いであろう。
 「彼らが語った」とは、ペテロとヨハネが会衆に向かって語ったということである。3章12節には、ペテロが語り始めた場面が描かれている。その通り、主要な説教者がペテロであったことは疑う余地がない。しかし、第一回の説教で見たように、ペテロとともに12人が一緒に立ち上がった。ペテロは個人としてでなく、12人の代表として語った。そのように、第二回の説教でも、ペテロは個人的見解を披瀝したのではなく、12人の一人として、公人の資格で語った。さらに言って置くが、公人と言ったのは、キリストから御言葉を託されて語る者という意味である。
 ペテロが彼の説教を終わりまで語った後で、それよりは短かかったと思われるが、ヨハネも説教、あるいは証言をした。その内容については、ペテロの説教のように書かれていない。ペテロとヨハネとでは、残された書簡に示されるように、文体も違い、論理も違う。実質的内容の食い違いこそないが、神学はそれぞれ固有である。したがって、ヨハネがこの時どういう説教をしたか、ペテロとどう違っていたかに興味を感じる人はいるであろう。けれども、その興味を満足させるような記録は使徒行伝にはない。つまり、そのような興味はここでは封じて置くべきだということを心得なければならないのである。
 ヨハネの説教が終わって、またペテロが説教したということもあり得る。群衆は熱気に満ちていたから、使徒たちの語る言葉を次々貪るように受け入れたであろう。そして、一人残らずということではなかったが、5000人が信じた。その間に夕暮れになったのである。この時の説教は3時を少し過ぎた頃に始まって、3時間位続いたのであろうと思われる。
 思い起こすのであるが、主イエスはベツサイダの東の荒野で、5000人の人が説教を聞いているうちに夜になった時、彼らをひもじいままで帰らせることはなさらず、5つのパンと2匹の魚をもって全員を養いたもうたということをヨハネ伝6章は伝える。
 あの時のパンの奇跡は、使徒たちに忘れ得ない感銘を刻みつけたものであるが、それに引き続いて、主御自身で群衆を解散させ、ここに留まって感動を味わい続けることを許したまわなかったことを我々は覚えている。あの時は、ここで御業を打ち切りにしたもうた。
 ペテロとヨハネがあの日のことを思い出していたかどうかは分からないが、使徒たちは群衆に対する働きかけをこの日はここで閉じた。勢いに乗って、群衆の熱心を煽り立てることはなかった。
 長い説教の間に、聞く人々の心に信仰の種が播かれ、育ち始めていたが、ここにいた幾らかの人たちは、説教に耳を傾けず、したがって他のことを考えていた。彼らは自分自身の魂に今御言葉が語られていることを無視した。彼らは自分の魂に御言葉が与えられていることには頓着なく、群衆はどうなのか、宮のうちの秩序はどうなのか、というようなことにだけ関心を向けていた。
 「美しの門」の事件から始まって、時間は十分あった。彼らは集まって、相談し、決まったことを実行に移す。この人たちというのは、祭司たち、宮守がしらたち、サドカイ人たちである。
 先ず「祭司」であるが、彼らは神から受けた務めと権能を持っていて、宮がイスラエルの神礼拝の場として、聖なる場所に相応しく、粛然と、かつ清潔に整えられているかどうかに関心を持った。そして自分自身に対する語り掛けは聞かなかった。ペテロの説教は主イエスを十字架に架けた人たちに特に向けられ、祭司や祭司長は特にその言葉の向けられた的であったが、最も聞くべき人が聞かなかった。
 「宮守がしら」について、我々は律法の規定を知らないが、旧約ではレビ人の担った務めを引き継いだものと思われる。これも一種の公職である。礼拝を正しく維持するために、妨害者を取り締まったり、身柄を拘束したりする権限が与えられていた。イスカリオテのユダが主イエスを引き渡す交渉に行った時、その相談に乗った者のうちに宮守がしらがいた。また主イエスをゲツセマネで捕縛して裁判に引いて行ったのは、確かに彼とその下役であった。「知らずにこのことをした」とは、まさしく彼らに当てはまるのであるが、彼らは聞こうとしなかった。
 「サドカイ人」が公けの務めを帯びていたという事については、我々は何も聞いていない。サドカイ派の特権が失われることで、私的な敵対感情を剥き出しにしてこの場に出て来たのかも知れない。パリサイ派と違って、サドカイ派ではレーマンで律法を学ぶ人はいなかったらしいから、この人たちは身分は祭司であったが、この時、神殿の当番でなかったと考えられる。パリサイ人でなく、サドカイ人がここに加わっているのは、後で見るように、死人の甦りという教えに対する甚だしい憎しみがあったからであると思われる。
 宮は人々の集まる場所である。人々はここに来て、祈り、いけにえを献げて帰って行く。だが、通過点と言っては適切でない。人々は宮でいろいろな集まりを持つ。だから、人々が集まってはいけないと言うことはない。集まりを開いていては排除されるということもなかった。信仰的な目的のために会合を持つ人々に場所を提供する便宜が図られていたようである。主イエスも宮の中でよく集会を開いておられた。それが差し止められたことはなかった。今回の説教も合法的なものであったと見られる。
 今回、彼らにとって不愉快であったのは、人が集まり過ぎるのではないか、また、説教者も聴衆も熱が入り過ぎているのではないか、という懸念があったからであろう。そして、それともう一つ、「死人の復活」が堂々と説かれることは、サドカイ派としては我慢のならないことであった。
 「死人の復活」については、パリサイ派が信じており、サドカイ派が拒否している事情を、我々は聖書常識の一部として知っている。これは聖書がどのように読まれ、信じられたかについての基礎的知識である。このような知識が欠けているなら、聖書の深い意味は分からないし、使徒行伝も理解出来ないままに終わる。だから、必要なだけの知識は学び取って置いて貰わなければならない。
 いや、それだけではない。パウロがコリント人への第1の手紙15章で説いているように、「死人の甦り」をキチンと掴んでいないならば、我々はまだ罪のうちに留まっているのである。だから、「死人の復活」という教理が理解出来るようになるだけでなく、これを信じないと、キリストの復活は、信じていたとしても、お話しとして受け入れているというだけのことになってしまう。
 この問題はサドカイ派とパリサイ派との間ではげしく論争されていた。サドカイ派は、聖書には「死人の復活」の教理はないと主張していた。なるほど、そうだ、と思う人がクリスチャンと名乗る人のうちにいるらしい。――これは、一つには、教会の教え方の不手際に基づくものであって、正しく教えられていない信者を責めても始まらないことかも知れない。
 我々が聖なる晩餐の祝われる日に唱える「ニカイア信条」、もっと厳密には、学者の言い方で「ニカイア・コンスタンティノポリス信条」と呼ぶ方が良いが、その信条では、その結びのところで、「我らは、死人の復活と、来たるべき世の命を待ち望む」と告白する。ここでは「死人の甦り」がハッキリ語られるので、我々の心によく沁み通り、固着する。ところが「使徒信条」にはこの言い方がない。ということは、「使徒信条」では死人の甦りを否定しているのかというと、そうではない。「使徒信条」の終わりに出て来る「体の甦り、永遠の生命を信ず」という言葉のうちの「体の甦り」は、ほぼニカイア信条における「死人の甦り」の同義語であると取らなければならない。
 「体の甦り」はキリストの復活のことではなく、彼を信じる我々に約束されている恵みを、信仰をもって受け入れるとの告白である。死ねばそれで全て終わりだというのではない。死に勝利する復活が約束されている。その復活も頭の中で捉えるだけの理念としてあるのではなく、手で掴むことの出来る実際の肉体が、死んで、甦り、死は永遠に滅ぼされ、死に対する最後的勝利が来ると告白することなのである。
 教会の信仰告白に用いる語彙としては「死人の甦り」の方が古くからのものであることは明らかである。その古い言い方を「ニカイア信条」が保持している。この言い方が新約聖書にもある本来の告白用語だからである。
 祭司、宮守がしら、サドカイ人がペテロとヨハネを逮捕し、留置したのは、キリスト教の活動の全体を抑制しようとしたものであるが、死人の甦りの信仰に対する挑戦であったことに留意すべきである。
 すなわち、キリスト教会の教え、さらに遡って言えばイエス・キリストの教えは、全面的に聖書の証言に立っていて、聖書の証言を受け入れない人には、到底受け入れることが出来ないのであるが、サドカイ人たちは、聖書の証言そのものを一部拒否したという事情が読み取れる。サドカイ派がキリスト教に対する最も頑強な反対派であったかどうかは分からない。パリサイ派の方がもっと強硬に反対したのかも知れない。例えば、21章以下に出て来る一群のユダヤ人、それは一応キリスト者になったとはいえ、ユダヤ的律法主義をキリスト教の中に持ち込もうとする人のようであるが、彼らはパウロを殺すまでは食事をしないという誓願を立てたほどの狂信者であった。彼らはパリサイ派の出身であろう。とにかく、そのように反対派が各種いたのである。死人の甦りについての信仰を弱体化する誘いに対して、しっかり戦わなければならない。
 最後に4節を読む。「しかし、彼らの話しを聞いた多くの人たちは信じた。そして、その男の数は5000人ほどであった」。
 第一回の説教を聞いて、バプテスマを受け、仲間に加わった者は3000人であった、と2章41節に書かれていた。さらに、第二回の説教で5000人が入信したと言う。その数は確かであろうかと頭をひねる人があちこちにいるようである。男の数が5000人ほどになったというのは、女性の信者が少なくも同数いたであろうと察せられる。
 「5000人ほどになった」とは、これまでに入信した総計がこの数だということかも知れない。だから、初めの日の3000人もこの数に含まれることになるかも知れない。また信者はエルサレム以外に、例えばガリラヤに相当数いたのではないかとも考えられる。この数では多過ぎるという考えもあるが、少ないのではないかと考えることも出来る。要するに、数に関してはよく分からない。ただし、教会は着々と建設されていたのである。それは少し先になるが、9章31節が総括する通りである。「こうして教会は、ユダヤ、ガリラヤ、サマリヤ全地方に亘って平安を保ち、基礎が固まり、主を恐れ、聖霊に励まされて歩み、次第に信徒の数を増して行った」。

 


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