「モーセは言った、『主なる神は、私をお立てになったように、あなた方の兄弟の中から、一人の預言者をお立てになるであろう。その預言者があなた方に語ることには、ことごとく聞き従いなさい。彼に聞き従わない者は、みな民の中から滅ぼし去られるであろう』」。
今日学ぶペテロの説教の22節以下の部分に、モーセと主イエス・キリストとの関係が初めて出て来る。申命記18章がここに引かれるが、これに関連した言葉は、使徒行伝にはこれまでなかった。だから、この申命記の箇所は、キリスト預言であると新しく読み取られたのではないか。ただし、第1回目の説教の後で、また新しい発見が加わったと取るべきかどうか。すでに分かっていたが、第1回目の説教では、時間が限られていたということもあって、そこまで語り尽くせなかったということかも知れない。詮索しても余り意味はないから触れないで良かろう。
主の復活の後、短期間のうちに、使徒たちの間でキリスト教会の教理が纏められたことは確かである。けれども、使徒たちが考え、あるいは討議して、教理を作り上げて行ったと取ることは、差し控えて置かねばならないであろう。すでにあったものを彼らが纏めただけなのだ。
すでにあったとは、旧約聖書の中に書かれていたというだけの意味ではない。以前に書かれていたことを使徒たちが読み取ったと言って良いのではあるが、使徒たちは自分の力でそれを読み取ることは出来なかった。では、どういうことか。イエス・キリストが弟子たちに教えておられたその教えは、弟子たちの記憶の片隅に残りはしたが、謂わば凍結されていた。
ヨハネ伝14章25-26節で、主はこう言われた。「これらのことは、あなた方と一緒にいた時、すでに語ったことである。しかし、助け主、すなわち、父が私の名によって遣わされる聖霊は。あなた方に全てのことを教え、また私が話して置いたことを悉く思い起こさせるであろう」。――かつてキリストが教えて置かれたことは、謂わば片っ端から凍結された。しかし、聖霊が降った時、その教えは力ある教えとなって立ち上がったのである。聖霊が思い起こさせるとはそういうことである。
「昔の人々に、『殺すな。殺す者は裁判を受けねばならない』と言われていたことは、あなた方の聞いているところである。しかし、私はあなた方に言う。兄弟に対して怒る者は、誰でも裁判を受けねばならない」。これは良く知られている通り、マタイ伝5章21節以下の教えである。この部分が「山上の説教」と呼ばれて、聖書を読む人たちの間で親しまれているが、単に有名であるだけでなく、イエス・キリストの教えの根幹をなす部分であることも知られている。
これは、「モーセはこう教えたが、私はこう教える」、つまり、モーセの教えを更新して、私はそれに代わる新しい掟を制定する、と言われたものではない。こう語られる前に、「私は律法を廃止するために来たのではなく、成就するために来た。天地が過ぎ行かぬうちは、律法の一点一劃も廃止されず、悉く全うされるであろう」と5章17節で言われたことを我々は良く知っている。
マタイ伝5章から7章にかけての山の上での教えは、かつてモーセがシナイの山の上で神の律法を与えたのと対をなすものと理解されねばならない。ただし、それと対決するという含みは全くない。福音は律法を乗り越えたという簡単な理解で納得している人がいるが危険な独り善がりである。
「昔の人々にこうこういうことが語られた」という状況は、角度を変えて見るならば、神の言葉と人間の言い伝えとの食い違いを明らかにしている。与えられた神の言葉を大切に扱わねばならないと人々は考え、その努力をしたと認めねばならないのではあるが、それは人間の言い伝え、人間の解釈を積み重ねることであった。だから、人間の言葉を権威付け、神の言葉に対立し、それ自身を固定化し、生命を失わせる結果になっている。主がそう言われたことは十分ハッキリ読み取ることが出来る。
モーセが神に立てられたこと、彼を通して律法が与えられたことの意義を引き下げることはあるべきではない。しかし、モーセで完結していると見てはならない。キリストが来られなければならないということを読み取らねばならない。そのことを主イエスはしきりに教えておられた。
ユダヤ教とキリスト教と、同じものであるかのように見える多くの面がある。聖書を忠実に読もうと努力している点では似ていると言わねばならないが、今挙げたところが決定的な違いのある点なのだ。
このことは、見方を変えれば、こういうことである。聖書で約束されているメシヤは、すでにナザレのイエスとして来られたと信じるのがキリスト教で、メシヤはまだ来ていないと信じて、未だに待っているのがユダヤ教だと説明することも出来るであろう。ペテロは先に万物更新ということを言ったが、これもそのことなのである。約束されていたキリストは来られて万物を一新された。その新しい世界の中を歩むのがキリスト教であり、旧いままでその日が実現するのを待ち続けるのがユダヤ教である。――もっとも、キリスト教が新しい命に生きているか、と問われていることを無視しては、二つの宗教の比較を論じても、意味はない。
さて旧約の歴史の中に、偉大な人物が少なからず登場する。ヘブル書の著者が信仰の証し人を列挙しているが、彼らの足跡を繋げば、堂々たる歴史である。その後の時代を見ても、バプテスマのヨハネがヨルダン川で洗礼を授け、一世を揺るがした時、人々は「大預言者が現われた」と言った。ナザレのイエスが宣教活動を始められた時も、人々は「大預言者がイスラエルの歴史に現れた」と認めた。しかし、こういうことは今までに何度かあったことなので、その方が約束されていたメシヤであると確信する人は少数しかいなかった。
キリストの使徒たちは、来たりたもうた、また死んで甦りたもうた主イエスこそ、約束されていたキリストであると確信し、その確信を世に宣べ伝え始めた。イエスがキリストであることを論証するため、旧約聖書から預言者たちやダビデの言葉が多く引かれたのは当然である。エリヤもサムエルも、キリストの証人として引かれた。さらに、預言者がキリストの来られることだけでなく、苦難と復活について語っていたことも論じられていた。
それらの証言では足りなかったという必要はないであろう。ここまでに見て来たように、これまでの論証だけでも、すでに何千人かのキリスト者が生み出されていた。しかし、キリスト証言がこれで出尽くしたというわけではない。まだまだあることを知っておく必要はある。
例えば、ユダヤ人にとって、父祖アブラハムは信仰の対象ではないが、最も大事な人として尊敬されていた。このアブラハムについて、主イエスはヨハネ伝8章56節で、「あなた方の父アブラハムは、私のこの日を見ようとして楽しんでいた。そして、それを見て喜んだ」と言われる。これを聞いたユダヤ人の多くは、これに承服せず、大いに怒るのであるが、主イエスの言われたのは、確かにアブラハムが私のための目撃証人であるという主旨であった。
今日はもっと大事な証人がいたことを学ばなければならない。それはモーセである。モーセの証言は、モーセの立つ地位から言っても。その言葉の内容から言っても、最も有力な証言と言って良い。しかし、キリスト証言としてのモーセの言葉の重要性を忘れている人が割合多くいるようである。
またヨハネ伝を引くが、5章45節以下で主イエスはこう言われた。「私があなた方のことを父に訴えると考えてはいけない。あなた方を訴える者は、あなた方が頼みとしているモーセその人である。もし、あなた方がモーセを信じたならば、私をも信じたであろう。モーセは私について書いたのである。しかし。モーセの書いたものを信じないならば、どうして私の言葉を信じるであろうか」。これも重要な箇所であって、使徒たちは主が地上におられた時から学んでいた。
モーセは申命記18章で、「私のような、また、あなた方の兄弟である預言者が、神によって起こされる」と言った。申命記という書物は、その初めに、モーセがエジプトを発って第40年の11月1日にこの書に書かれていることを語ったと言っている。それを考えると、モーセはその生涯の終わろうとしている時に、私がいなくなった後も、預言者があなた方に与えられるから、神の言葉はあなた方にはなくならないという意味であろうか。「私のような」預言者が来るというから、モーセの再来、モーセ時代の再来という約束とも考えられる。重要な預言であるから、ユダヤ教の中でもいろいろと論議されたようである。
使徒行伝には引用されていないが、この直ぐ後はこう続いている。「これはあなたが集会の日にホレブであなたの神、主に求めたことである。すなわち、あなたが『私が死ぬことのないように、私の神、主の声を二度と私に聞かせないで下さい』と言った。主は私に言われた、『彼らが言ったことは正しい。私は彼らの同胞のうちから、お前のような一人の預言者を彼らのために起こして、私の言葉をその口に授けよう。彼は私が命じることを、ことごとく彼らに告げるであろう』」と言われる。
ホレブで神がイスラエルに語りたもうた時、それは民らには聞くに耐えられない恐るべき大音響であった。無から全世界を造り得たもう神が、卑小な人間に直接語りたもうことは、恐るべき破滅を引き起こすほかない。民がそれを訴えると、神はそのことを理解して下さって、神が直接に語るのでなく、人の子である仲保者を立てて御言葉を語られるのである。
これは神が遣わそうとされる仲保者なるメシヤの備えるべき重要な条件である。彼は神の言葉を十全に語らなければならないとともに、人と異ならない者、兄弟の一人でなければならない。モーセでさえ、人を恐れさせる尊厳があったために、民と語る時には顔覆いを掛けなければならなかった。そういうわけで約束のメシヤは、人々が近づき得るように、見るべき姿も、威厳もない、とイザヤ書53章2節に書かれている。しかも、普通の人間のような者と見られて、軽んぜられてはならない。彼には聞き従わなければならない。
「サムエルを初め、その後続いて語ったほどの預言者はみな、この時のことを予告した」と言われる。これはペテロの見解であるが、モーセの次の預言者はサムエルであると見られていた。また預言者というのは、預言の務めを持っているだけでなく、その務めを行使し続け、神の民に生ける御言葉を提供し続けるのであるという理解が示されている。
「この時のことを語った」という、その「時」とは、先にあった「万物更新の時」のこと、メシヤ到来の時のことである。
次に、「あなた方は預言者の子である」と言われる。親が子を養い育てるように、神の民は預言者によって養われるという意味で、余り使われない言い方だが、預言者の子と呼ばれる。すなわち、御言葉によって生かされるのである。
「預言者の子」という言い方と対になっているのは「契約の子」という呼び方である。契約の子とは、契約者の子であるから、契約を受け継いでいる、という意味である。では、その契約の内容、その骨子は何か。それは、神がアブラハムに約束されたことである。その重要点は殆ど全部、創世記12章の初めに記されている。すなわち、「私はあなたを祝福する」。「あなたは祝福の基となる」。「地の全てのやからは、あなたによって祝福される」。
艱難辛苦に満ちたこの世ではあるが、神と契約を結んでいる者は祝福を受けることによって艱難を和らげられる。しかし。それだけでない。この世のただ中で祝福の基になる。基であるから、祝福が祝福を生む。それは単なる祝福と言うよりは、使命と言った方が分かり易いであろう。
アブラハムの子孫である神の民は、名目だけでなく、また肉的な血統によってでなく、霊的な意味での子、信仰の子として、この世界の中で、祝福の基であり続けなければならない。が、しかし、実際にそうであったか。祝福が約束されている民であることは辛うじて少数の残りの者によって信じられていたとはいえ、約束の民がいることすら埋もれていた。キリストが来られた時、埋もれていた人々が事実、立ち上がった。それが、五旬節の日の説教、また美しの門の徴しに続く説教によって目に見える姿になる。これは、イザヤ書11章10節によって「その日、エッサイの根が立って、もろもろの民の旗となり、もろもろの国びとはこれに尋ね求め、その置かれる所に栄光がある」と宣べ伝えられること、またこれと同様の預言の言う通りである。
「地上の諸民族はあなたの子孫によって祝福を受けるであろう」との約束については、アブラハムが祝福の基であるから、祝福が世界の果てまで広がって行くということなのだと納得できるかも知れない。だが、ここはもっとキチンと捉えて置くべきであろう。祝福された人の子孫が必ずしも祝福されないという現実があるからである。
ガラテヤ書3章16節は、言う。「さて、約束はアブラハムと彼の子孫とに対してなされたのである、それは、多数をさして『子孫たちとに』と言わずに、一人を指して『あなたの子孫とに』と言っている。これはキリストのことである」。ここでハッキリするのだが、全ての約束を真実なものとするキリストがおられないならば、約束は空しいのである。
アブラハムの子孫によって地上の全民族に祝福が広がるとは、イエス・キリストの福音が全地に宣べ伝えられ、それに対する信仰と服従が起こることである。だから、キリストの福音は立派なものであって、それ自体で増殖して行く、というふうに簡単に考えてはならない。良き地に種が落ちれば、後は自然に芽が出て、実りに至るように受け取られるかも知れない。しかし、そうは行かないことが、直ぐ前のところで、サムエルを初め、預言者が語ったということを見たところで示された。御言葉は語られなければならない。真実に語られなければならない。効率よく人を増やして行き、その成果が目で見られるというものではない。
最後に、「神が先ず、あなた方のために、その僕を立てて、お遣わしになったのは、あなた方一人一人を、悪から立ち返らせて、祝福に与らせるためである」と言われる。この1節だけでも、一句一句、手抜きなしに、十分噛みしめて味わわなけれなならない。短時間で分かったと言うべきではないが、さりとてユックリ時間を掛ければ良いと言ってもならない。
順序が示されているから、その順序に沿って把握しよう。先ず、僕をお遣わしになったと言われるから、主の僕を捉えなければならない。苦難の主を見上げ、受け入れるのである。それを受け入れるのは、一人一人を悪から立ち返らせられることによってである。一人一人の悔い改めである。こうして祝福に至るのである。
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