2005.07.10.

 

使徒行伝講解説教 第23

 

――3:17-23によって――

 

 

 「さて、兄弟たちよ、あなた方は知らずにあのような事をしたのであり、あなた方の指導者たちとても同様であったことは私に分かっている」。

 ペテロは二回目の説教でも、最初の、すなわち五旬節の朝の説教と同じく、主イエスの十字架の死を最も重要な事実として正面に押し出した。13節に書かれているように、「あなた方は、このイエスを引き渡し、ピラトが許すことに決めていたのに、それを彼の面前で拒んだ。あなた方は、この聖なる正しい方を拒んで、人殺しの男を許すように要求し、命の君を殺してしまった」。

キリストの死と直面させることが福音の宣教にとって第一に重要なことであるのは言うまでもない。パウロがコリント前書1章で「ユダヤ人は徴しを請い、ギリシャ人は知恵を求める。しかし私は十字架につけられたキリストを宣べ伝える」と言ったのは、この精神の継承されたものである。しかも、この大いなる出来事に、あなた方は偶然通り掛った傍観者として見ていたのでなく、関与していたと言う。このことの強調を第二点と言って良いかも知れない。神がキリストとして立てたもうた御方を、あなた方は殺したのだから、あなた方は無関係では決してない。――それでは、取り返しが付かない失敗をし、破滅するほかないのか。そうではない。17節では「あなた方は知らずにあのようなことをした」という言葉が入っている。これは前回の説教では言われなかった言葉である。

この言葉については、知らずにやったことだから、赦される、という意味だとの解釈と、知らなければならなかったのに知らなかった、その無知の糾弾として悔い改めの要求がなされているという解釈とがある。前者が正しいであろう。キリストご自身、ゴルゴタで赦しの執り成しを、彼らの無知と結びつけてしておられるからである。

聞く人たちの受ける衝撃を和らげようと気配りして、こう言ったと取ることが出来るかも知れない。しかし、上に言ったように、すでにイエス・キリストご自身、ルカ伝23章34節で、「父よ、彼らをお赦し下さい。彼らは何をしているか分からずにいるのですから」と言われたのである。だから、このお言葉がペテロ説教の中に反映して来ているのは当然ではないかと思う。人々に衝撃を与えることに気兼ねしたと見る必要はない。キリストの十字架の出来事は、ユダヤの民の不信仰と向かい合っていると見られるであるが、彼らの不信仰をもっても、救いの御業を無にすることは出来ない。不信仰の業と神の業は、謂わば、次元の違うことである上に、神の御業は遥かに大きいのである。

 イエス・キリストがご自身を殺そうとしている者らのために執り成しの祈りをされたことは、受難の一連の出来事のうち、見落としてならない重要な一齣であった。だが、これを寛容とか、思い遣り、という道徳や、人情のレベルで評価してはならない。確かに、道徳的に非の打ち所のなかった方であるし、寛容であられるし、我々が見習うべきことではあるが、ここで大事なことは、彼が万人のための唯一の仲保者であられるということである。彼を十字架につけた者のためにも配慮したもうたことはその通りであるが、最も小さい者のための気配りをしつつ、圧倒的な力を示したもうた。

 勿論、彼のなしたもうた業を見習うことには意味がある。彼を信ずるということは言うけれども、彼の忍耐も、謙りも、寛容も、慈愛も、勇気も見習わないようなことでは、彼に随いて行くと言っても、頭のなかでしている体操のようなものに過ぎない。現実の救いはどこにもない。

 さて、ペテロは、彼の説教を今聞いている目の前の群集に対してこう述べられただけではない。ここにいない人のことにも触れている。「あなた方の指導者たちとても同じであったことは私に分かっている」。ユダヤ人の頭(かしら)である人たちもやはり知らなかった。それが私には分かっているという。この知らなかったという言葉の含んでいる内容については、先に述べた通りである。知らなかったから大目に見て貰えるという面と、頭としては知らないままでは済ませられない、という面が意味されている。では、一般のユダヤ人と、ユダヤ人の中の頭たる者は同列であるか。

 我々は主の受難の歴史を何度も繰り返して学んで来た。筋は頭に入っている。そして我々がそれらの場面を思い描く際、民衆は必ずしもナザレのイエスに憎しみを持っていなかった。むしろ同情的であった。それに対し、大祭司たちが初めから悪意を持っていて、主イエスを殺す方向に遮二無二突き進んだのだという解釈が一般に通っている。

 大祭司たちがよこしまな意図をもって群衆をリードしたことは事実であると言わねばならない。それでも彼らは知らなかった。ところで、知らずして大きい罪を犯したとしても、犯したことの責任はないわけではないではないか。さらに、裁判手続きの不適切、明白な律法違反があった。これは糾明できる。

しかし、我々がここで見なければならないのは、全ての罪について責任が問われるから、キリストを十字架につけた者には、末代に至るまで責任が問われるという真理の一面ではなく、「罪に対する赦しの勝利」という救いの真理である。キリストを十字架につけた罪も赦されるという真理の勝利の証しのために、ユダヤ人が用いられた。人間の罪は大きいけれども、神のなしたもう赦しの御業はもっと大きいのである。そして、決定的な重要性を持つ赦しの力の前では、民衆の小さい罪と、指導者の大きい罪との違いは問題にならない。

 ところで、メシヤの到来が遥か昔から約束されており、ついに彼は来られたのに、その救い主を受け入れないで、殺してしまったなら、救いの道はもうなくなったわけであり、救い主を殺した責任も負わねばならないことになるのではないか。――そうではない。神の発揮したもう贖う力は、人間の罪に阻まれると、それを乗り越せないような弱いものではない。救い主を拒否する罪に対しても、救い主の救いの力は勝利する。

 では、神に反抗した者の責任は、結局うやむやにされるのか、と言われるならば、そうではないと答えなければならない。思い起こす。主イエスは、婚礼の祝宴に招かれていながら応じなかった不信仰者の譬え、また葡萄園の主人に納めるべき物を納めず、次々に遣わされて取立てに来る僕たちを追い払い、ついには主人の息子が遣わされて来たので、これを殺した葡萄園の農夫の譬えによって、罪の責任の重さと刑罰の大きさを福音書の中で再々お示しになった。そのことはもう問われないのか。「知らなかったのだから」という理由で負い目は不問に付されたのか。――そうではない。知らなかったのだから責任がない、と本当に言えるわけではない。知らないという責任は問われないのではない。罪はある。だから忌まわしい犯罪が行なわれた。犯罪から生じた痛みや悲しみは消えていない。ただし、この罪に対しては罪の赦しが適用される。罪の赦しは確かである。だが、自分が罪を犯していたことをスッカリ忘れてよいということではない。――この問題については、我々自身の悔い改めについて述べなければならないということを我々は知っている。だから、今ここで扱わなくて、19節まで待って、「だから、自分の罪を拭い去って頂くために、悔い改めて本心に立ち返りなさい」というくだりで学ぶことにする。

 次に18節に進むのだが、「神はあらゆる預言者の口をとおして、キリストの受難を予告しておられたが、それをこのように成就なさったのである」と言われた。

 キリストの受難が預言されており、それは成就した。こういうことは第一回の説教でも明確に言われた。第二回の説教で、「あらゆる預言者の口をとおして予告された」と論じられるのは、第一回の時よりもっとハッキリした言い方である。つまり、旧約の預言者の一部でなくて全てが、キリストの受難を予告していたという捉え方をしていることが示される。これがキリスト教会における旧約理解である。初めからこうであった。

 しかも、キリストが来られるというだけでなく、キリストが苦難を受けて、苦難によってキリストとしての任務を全うしたもうということが予告されていたと強調される。――通俗的で、幸福追求的なメシヤ理念というものが、昔もあり、今もある。息苦しい時代になると、メシヤ待望が強くなるというのが通例であることを歴史は示す。苦しみに耐え切れない思いになった人は、約束のメシヤの出現によって、正義が勝利し、貧困がなくなり、苦難が一挙に解決し、幸福に溢れたメシヤ王国が実現する日が近いと夢見る。そういうときに、こういう預言をすると、分かりやすいから熱狂的に歓迎される。今日もそういう時代である。

 ところが、真の預言者、すなわち神に遣わされた預言者は、メシヤの到来による幸福の実現については何も語らなかった。その逆であって、メシヤは苦難の僕として来、苦難を負ってメシヤとしての道を開くのだと預言した。ここに真の預言者と偽りの預言者の違いが見られると断言しても良い。さらに、預言されており、その成就として来たりたもうたキリストが、幸福の御子として描き上げられるか、苦難の僕として捉えられるかで、聖書解釈が本物か偽物かの見分けが付くと言っても良い。そして、キリストが苦難の僕として来られたなら、それに従って行く信仰者が、どのような生き方をしなければならないかも明らかである。

 ここでペテロが言うことのうちには、キリストが苦難を受けたもうことが全ての預言者によって予告されていたという聖書解釈だけでなく、そのような預言があったからこそ、あなた方は何も知らないままに、神の決定に奉仕して、キリストを苦しめ、キリストを殺した、ということも含まれていると見るべきであろう。人々が主イエスを殺したのは、責任を問われることには違いないが、彼らのなしたことは、神の計画に組み込まれていて、その実現のために用いられた。 

その次に19節に、悔い改めの勧めが来るが、その前に20節21節を学んでおくことにする。ペテロは言う、「それは、主の御前から慰めの時が来て、あなた方のために予め定めてあったキリストなるイエスを神が遣わして下さるためである。このイエスは、神が聖なる預言者たちの口をとおして、昔から預言しておられた万物更新の時まで、天に留めておかれねばならなかった」。

 「慰めの時が来て、予め定めてあったキリストなるイエスを遣わして下さるため」という言い方、また「万物更新の時まで、天に留めて置かれねばならなかった」という言い方は、これまで使徒たちの口から聞くことはなかったと思う。しかし、第一の言葉はイエス・キリストの説きたもうた教えの中にあったし、預言者の言葉にもあった。だから、使徒の口から聞くのが初めてであっても、驚くことはないし、特に取り立てて言わなくても良い。

 第二の、「天に留め置かれねばならなかった」という言い方は、聖書では決して珍しいものではなくて、定められた時が来るまで動かないことをこのように表現する。サタンも繋がれる。天使も発動するまで繋ぎとめられている。キリストも留め置かれる。我々の間では余り語られることのない言い方であるが、黙示文書にはよく用いられる筆法である。

 大事な時は定められており、その日までは隠されていて、その日に忽然と顕われる、あるいは来る、というのが聖書の言い方だということを弁えておこう。時が流れて、あるいは時が熟して、その日になる、というような言い方はない。これが聖書の教える「時」の捉え方である。

その時が何時来るかは、知ることが出来ない場合が少なくない。御使いや預言者によって知らされる場合もあるが、「御子も知らない」と主イエスが言われたように、知られないのがむしろ通例である。その時がいつであるかは、約束を信じ受け入れ、待っている者にも、知り得ないことが珍しくない。それは秘密なのだ。それでも、いや、これが奥義であるからこそ、いつ来るのか分からない時を待つ。それも漫然と待つのではなく、不安を内に秘めることなく、確信をもって喜ばしく待つ。

 「慰めの時」という言葉によって思い起こされるのは、イザヤ書40章の初めの聖句ではないだろうか。ペテロがキリストの来られる日を「慰めの時」といったのは彼自身の思い付きではなく、馴染みある聖句を思い起こしたからである。「あなた方の神は言われる、『慰めよ、わが民を慰めよ。懇ろにエルサレムに語り、これに呼ばわれ。その服役の期は終わり、その咎はすでに赦され、そのもろもろの罪のために二倍の刑罰を主の手から受けた』」。

 我々も約束された終わりの日のキリストの再臨の時を待っている民である。あといくら待たねばならないかを知らないが、それでは期待が曖昧だということにはならない。待ちくたびれて意気阻喪するということもない。待つことは希望と同じ意味を持つ。極めて充実したことである。

 我々が今待っている姿勢と似ているのは、キリスト以前のイスラエルの民が約束のキリストの到来を待っていたことである。勿論、彼らの中にはこの民に約束されているメシヤの来臨に殆んど無頓着な者も多かったし、メシヤに期待はしたが、世俗的欲望の追求でしかなかった場合が多かった。

それでも、大きい枠で捉えるならば、旧約のイスラエルの民は時を待つ民の群れであった。そして、歴史の中で「待つ」という役割を果たした民であった。かなり歪んだ形ではあるが、彼らは時が満ちるのを待っていて、苦難のキリストがまさに苦難のキリストとして顕われたもうことに貢献した。貢献という言い方では本当は適当でないが、それでも器として用いられたのは確かである。そして、我々も「待つ民」という役割を持っているのである。待っている者であるから、待つ者の心得を守っていなければならない。油の用意のないままで待っていて、花婿が来た時には慌てて買いに走り、ついに門が閉ざされてしまって、入れて貰えなかった愚かな乙女の役割しか果たせないようなことにならない心得をしなければならない。 さて、ペテロは「だから、自分の罪を拭い去って頂くために、悔い改めて本心に立ち返りなさい」と勧める。

 「本心に立ち返る」という訳はおかしい。返るというだけだ。潔められるという言葉は用いられるが、本心に当たる言葉はない。心の中身が変わるというよりは、方向が変わる。向きが180度変わることだ。神から離れていた者が神に立ち返ることである。 ただ、ひと言触れて置かねばならないのは、悔い改めが罪の償いになるということではない点である。大きい罪にはそれだけ深い悔い改めが必要だと思われるかも知れないが、そう思われるのは言うなれば錯覚である。キチンと考えて見れば分かることであるが、罪の負い目の大きさと悔い改めの大きさとが釣り合うというようなことは決してない。罪の赦しは無償の贈り物である。無償の贈り物を受けるとき、無償で、無条件で受けるのであるが、無償の贈り物が入って来る経路をつけて置かなければならない。それが悔い改めである。

 さて、キリストの復活は、キリストが殺されても、その死が敗北でなかったことを示すのであったが、キリストの贖いを不成功に終わらせようとする企ても、同様にキリストの救いの力の前で挫折したということが示されるのである。だから、キリストを殺した者でも、救われる。そのような捉え方によって、キリストの死を捉えなければならない。そういうわけで、群集と指導者の違いは、今日は取り上げない。キリストの救いの力、潔めの力の前には、大きい悪と小さい悪の違いは問題にならない。

 


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