2005.07.03.

 

使徒行伝講解説教 第22

 

――3:14-16によって――

 

 

 使徒行伝の中に記録されているキリスト教会の説教として、先ず、五旬節の午前9時に始まった、2章14節以下のペテロの説教がある。二番目のものとして記されるのは、3章12節から26節までに読まれるペテロの説教である。同じ日に行なわれたのでは多分ない。しかし、同じペテロによって語られたものであり、時期も同じであるから、内容は殆ど同じであると言うほかない。
 殆ど同じであるが、細かく見て行くと、違いを読み取ることは出来る。その違っているところから、かなり大事な意味を読み取ることが出来る。そこで、使徒たちの間では、説教の検討が行なわれたのではないか、1日経つと教えが一歩前進して整って行ったのではないか、と考えられるかも知れない。確かに、教会の最初の時期、一日一日弟子の数が増えて行ったように、使徒の説教の内容・形式も、日一日と成長していたと見て当然であろう。
 しかし、そのことについて強調しても、余り益することはない。これは当然のことであった。当然というのは、最も初期の教会において、使徒たちが大いに励んで教会をみるみるうちに立ち上げたということではない。神が教会の草創期に特別な保護を加えたもうたということである。
 一つの運動が、民衆のうちに急速に盛り上がることは、始終見られる事ではないが、珍しくはない。キリスト教も初期はそうだったのだと言うことは出来る。しかし、そういう現象があったと論じても、大して意味はない。初期のことを持ち上げて、その後の時代の教会に失望させられるということでは、神のなしたもう御業としての教会を、歪めた捉え方で捉えることである。
 そのように、神は初めから教会に基本的に大事なものを悉く備えさせたもうた。基本的に大事なものとして、教えというものがある。それを14節以下に見て行こう。14節に至るまでは教えは説かれていなかったのか、というと、そうでもないが、特に大事な点に注目させるためには、注目に価しないものを却けることを教える必要がある。だから、「なぜ私たちを見詰めているのか」と忠告する。私たちを見ていても、何も得ることはないのである。
 「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」。これは切り捨てるべきでなく、これこそ大前提であり、全ての教えはここから始まる。ただ、このことについては人々はズッと前から教えられていた。新しい教えではない。
 次に「僕イエス」ということが教えられた。これは新しい教えであると言えるが、これについて説教する人がいなかっただけで、この教えは旧約聖書の中にハッキリ書かれていた。それが何であるかを読み取ることの出来る人はいなかったから、信ずべき教えとして捉えられることもなかった。
 神の遣わされたメシヤが「僕」としての形をとりたもうたことは、初期のキリスト教の信仰告白であり、また讃美歌でもあったピリピ書2章6節以下の「キリストは神の形であられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、却って己れをむなしうして、僕の形をとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず、己れを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた。それ故に、神は彼を高く引き上げ、全ての名に優る名を彼に賜わった。それはイエスの御名によって、天上のもの、地上のものなど、あらゆるものが膝を屈め、また、あらゆる舌が「イエス・キリストは主である」と告白して、栄光を父なる神に帰するためである」という言葉の中にハッキリ示されている。
 さて、今日学ぶ箇所の初め、14節と15節の初めではこう言われる、「あなた方は、この聖なる正しい方を拒んで、人殺しの男をん許すように要求し、いのちの君を殺してしまった」。
 前回の説教で、2章23節後半に「あなた方は彼を不法の人の手で十字架につけて殺した」と言われたところに対応する文言がここで言われるのである。「不法の人」というのはピラトのことであるが、「不法」とは、法を持たないという言葉であって、神から律法を授けられていない、という意味である。ローマ人は自分たちの作った法律が優れているという自負を持っていた。ピラト自身がとんでもない悪人であると言う意味では必ずしもない。
 今回は、ピラトについては、13節で、「ピラトが許すことに決めていたのに」と言っている。ピラトは罪なしと判断したのに、あなた方がその判断を曲げさせた。ピラトの方があなた方よりもまだマシであったと言うのである。
 前回の説教で触れなかったのはバラバのことである。バラバを取り上げただけ教えが詳しくなったと論じることは要らないであろう。ピラトによる裁判は、代々に語り継がれて今にいたった短い形式の言葉では、「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、云々」であった。
 ペテロの説教を聞いている人々の中には、このピラトの裁判を見ていた人が少なからずいたことを我々は承知している。その人たちは裁判の場面を思い起こすことが出来た。我々もそれを思い起こす。あの裁判の中で民衆が大声で叫ぶ場面が二回ある。一つは「バラバ!」という叫びである。もう一つは「十字架につけよ!」との叫びである。この二つの叫びは、今も我々がマタイ受難曲を聞く度に震え上がらせられるものであるが、ペテロの説教を聞く人々も「バラバ!」という叫びを挙げたこと忘れてはいなかったであろう。
 バラバは人殺しであった。そのことを群衆は承知の上で釈放の要求をした。人殺しということについて註釈が必要だと言われるかも知れない。ルカ伝では、23章19節で「このバラバは都で起こった暴動と殺人との廉で、獄に投ぜられていた者である」と書かれている。民衆が彼をどのような人として理解しまた評価したかを、ここから想像する人はいるであろう。
 「暴動」という言葉は忌まわしいものであるが、この言葉を忌まわしいものとしているのは、往々にして権力者である。権力の圧政に耐えかねて民衆が行動を起こそうとすると、まだ具体的な行動になっていなくても、権力はこれを「暴動」であると決めつけて弾圧を加える。そうすると、民衆の側も乱暴になる。つねにこのように事が運ぶとは言えないかも知れないが、こういう場合は多く、したがってこの犯罪に対して民衆の同情が寄せられる場合は少なくない。
 しかし、バラバが権力による民衆の抑圧に抵抗した一揆の指導者で、それ故民衆の支持を得ていたということが証明されたとしても、そのことをここに持ち出すのは全く的外れであった。すなわち、動機が何であれ、彼が人を殺したのは事実である。彼が殺したのは、ユダヤ人に暴力を働くローマ兵であったとしても、「殺す勿れ」という戒めを受けていた者としては律法違反であった。
 さらに、ここで「人殺し」に対比されているのがどういうお方であるかに注目しなければならない。二点ある。一つは「聖なる正しい方」である。もう一点は次の15節にある言葉だが、「いのちの君」という言葉である。バラバはどう釈明しても「聖なる正しい方」ではないし、また「いのちの君」ではあり得ない。
 「聖なる正しい方」。――ここで「正しい」という言葉に訳されているのは、我々の使い馴れた聖書用語では「義」である。「義人なし、一人だになし」と言われるその義なる人である。義なる人はいない。神のみ義であられる。
 しかし、神は義であられるだけでなく、「義とする」ことの出来る唯一の方であられる。それ故、信ずる者を義としたもう。これは旧約の中で既に教えられていたものである。イエス・キリストは義人イエスと呼ばれることもあるのだが、そう呼んだ人が何と心得てそう呼んだかはともかく、たまに世に現われた義人の一人だというのではない。信ずるものをご自身の義に与らせることによって義とするお方という意味でなければならない。
 また、人間の中には聖なる人もいない。人間社会と分離したところにしか聖なる者は在したまわない。神は御自ら、聖であられ、義であられる。預言者イザヤの書に「イスラエルの聖者」という言葉があることを我々は知っている。これは神のことにほかならない。そして、神の遣わされる者は聖であり、義である。
 キリストは子なる神であられるから、すでに聖であり義であると言えるが、ここでは、神として義であり聖であられるということを言おうとするのではないであろう。第一回の説教で、2章22節で、「ナザレ人イエスは、神が彼を通して、あなた方の中で行なわれた数々の力ある業と奇跡と徴しとにより、神から遣わされた者であることを、あなた方に示された方であった」と言われたところにあるのとほぼ同じで、神から遣わされたという意味でこう言われる。そういう意味で聖と言われ、義と言われる人は旧約の歴史のなかにも現われたのであり、神から遣わされた者として、当然、尊敬された。その人を殺すというようなことはあってはならなかった。
 神から遣わされた者を殺すような反逆があってはならないということは一応分かっている。だが、実際、神から遣わされた預言者が殺された実例は多いのである。人々は後になってそのことに気が付き、先祖の殺した預言者の碑を子孫が建てる。しかし、その子孫自身がまた預言者を殺すということが繰り返される。主イエスはルカ伝11章47節で言われたではないか。「あなた方は禍いである。預言者たちの碑を建てるが、しかし、彼らを殺したのは、あなた方の先祖であったのだ。だから、あなた方は自分の先祖の仕業に同意する証人なのだ。先祖が彼らを殺し、あなた方がその碑を建てるのだから」。
 これは主イエスが鋭く指摘されたことであるが、それを聞いた者らは自分のことが言われたのを注意しなかった。
 「聖と義」という言葉が出た機会に、この言葉について考えねばならないことを思い巡らしてみたい。聖と義についてイスラエルは知らないわけではなかった。子供の時から教えられているから、神との関係において聖と義を捉えなければならないことは原理的には分かっていた。しかし、抽象的な捉え方であって、現実の聖、現実の義について、捉えることが出来ていなかった。使徒たちもこれまでその点キチンと捉えていたがどうか疑わしい。
 しかし、彼らは聖と義をイエス・キリストにおいて捉えるべきことを、主の復活の後、聖書から学び直して、それを語り始めた。こうして、我々もキリストによって聖と義に与る者となる。キリストの聖と義が使徒によって語られるようになったのは、ここが初めてである。
 次に、あなた方は「いのちの君を殺してしまった」と言われる。「いのちの君」と訳された言葉は「いのちの根源」という意味に取れば良いであろう。そこから生命が来るのである。では、彼が殺されてしまったなら、いのちに至る道は断たれたのか。そうではない。いのちの君を殺して、どこまでも死の滅びのうちに立てこもろうとする滅びの子に対し、神は、いのちの君を滅ぼす力を滅ぼすことによって、死に対する勝利を確立したもうたのである。
 「あなた方はこの命の君を殺してしまった。しかし、神はこのイエスを死人の中から甦らせた。私たちはその事の証人である」。
 その事の証人とは主イエスの復活だけに関わることであろうか。そのように受け取っている人が多いかも知れないが、ペテロの言わんとしたのはそういうことではなかった。「死人の中から」と言われる。これはナザレのイエスが死なれ、その彼が甦らせられた、という意味ではない。死人の中から彼一人だけを甦らせたということでもない。「死人の中からの甦り」として彼を立ち上がらせたもうたというのである。死人の中からの甦りとは、死人の甦りの第一号として甦らせられたという意味である。
 前回の説教で、ペテロは2章24節で、「神はこのイエスを死の苦しみから解き放って甦らせた」と言い、32節で、「このイエスを神は甦らせた」と言った。ここでは「死人の中からの甦り」とは言わなかった。二回目の説教の中で「死人の中からのよみがえり」という言い方を初めてした。
 それでは、第一回の説教と第二回の説教の間にペテロの考えの発展があったのか。そうではない、キリスト教会では初めの時から、「死人の中からの甦り」という捉え方をしていた。
 死人の中からの甦りとは、キリスト教会の中で生まれた理解ではない。旧約の中にあった。ただし、そのことを旧約の中からハッキリ読み取るのはなかなか難しいことで、律法学者の最有力なサドカイ派はこういうことは読み取れないと主張していた。だから、ユダヤ教神学の中で、死人の甦りを信ずべきだと考えるパリサイ派は、サドカイ派と争い続けていたのである。
 この事情は先に3章13節の、「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」ということばを読んだ時に、マタイ伝22章23節以下の記事を引いて明らかにしたところである。主イエスは死人の中からの甦りを信ずべきであると説いておられたことは確かである。キリストの復活は特別な力のあるお方であるから、出来たのだというふうに解釈する人がいるかと思うが、キリスト教会ではそのような教え方をしていない。「死人の中からの甦り」は昔から約束されていた。その約束がナザレのイエスにおいて成就した、と教会は捉え、かつ宣教した。
 繰り返し言うが、私たちはその証人であると言うのは、イエスが甦りたもうた事件の証人であるという意味ではなく、死人の甦りがその初穂たるイエス・キリストにおいて始まったということの証人である。――これまで、人は最後には死に呑み込まれ、死の力とあらがうことは出来ないと見られていたが、キリストの復活は彼を信ずる者に、死に対する勝利を保証するものとなった。だから、キリストの民は、何者をも恐れないで死に立ち向かうのである。使徒行伝はそういう人たちの働きの記録である。
 ここでペテロの説教は先ほど起こった奇跡についての解説となる。一たび死の脅迫に出会うともう立ち上がれなかった人間に、勝利が到来した。そのこととの関連のもとで、生まれつき足が立たなかった障碍者が、立ち上がったことを理解しなければならない。
 「そして、イエスの名が、それを信じる信仰の故に、あなた方の今見て知っているこの人を強くしたのであり、イエスによる信仰が、彼をあなた方一同の前で、この通り完全に癒したのである」。
 「我々が証し人であるその事実、この事実の偉大さを証ししているのが、あなた方が今見ているこの人の癒しである」と使徒は言ったのである。したがって、この人の癒されたことを認めるほかないように、これを癒した名を信じなければならない。
 イエスの名が癒した。ただし、その名を信じる時にこそ癒しの力が働く。しかし、これは信仰の力も必要であると言っているかのように取られるかも知れないが、そう取ってならない。このことは先に12節で、「何故このことを不思議に思うのか。また、私たちが自分の力や信心で、あの人を歩かせたかのように、なぜ私たちを見詰めているのか」と言ったところで理解した通りである。主は活きておられる。それが御名を信じることである。


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