2005.06.19.

 

使徒行伝講解説教 第21

 

――3:11-13によって――

 

 

 ペテロとヨハネ、それに付き纏う、つい先ほど癒されて歩き始めた物乞いは、美しの門から聖所の前まで行き、そこで祈りを捧げて後、「ソロモンの廊」に来た。ここは主イエスが御在世中、人々に教えをなさるため、しばしば使われた場所である。この場所のことを我々はヨハネ伝10章23節でも聞いている。共観福音書にはソロモンの廊という名前は出ていないが、主が宮の中で説教されたと書いているところは、ここではないかと思われる。祈りの後、ペテロたちの足がここに向かったのは、慣例になっていたからであろうか。
 人々もまたここへ駆け集まって来た。彼らはペテロの顔を知っており、この人がナザレのイエスとともにソロモンの廊にいたことも覚えており、したがってこれからそこに行くに違いないと思ったようである。ただし、全部の人が以前のことを知っていたという事情ではないかも知れない。
 5章12-14節には、「その頃、多くの徴しと奇跡とが、次々と使徒たちの手により人々の中で行なわれた。そして、一同は心を一つにして、ソロモンの廊に集まっていた。ほかの者たちは誰一人その交わりに入ろうとはしなかったが、民衆は彼らを尊敬していた。しかし、主を信じて仲間に加わる者が、男女とも、ますます多くなって来た」と書かれている。暫く後のことであるが、ソロモンの廊がエルサレム教会の活動の一つの拠点であったことがここから偲ばれる。
 ソロモンの廊がエルサレム教会の発祥の地点であったと言うのは無理であろう。3章1節で見たように、使徒たちは町の中にいて、祈りの時はそこから宮に上ったのである。こうして、宮に上る機会が多いので、ソロモンの廊に立ち寄ることも繁くあった。そこは主イエスがかつて屡々群衆を教えたもうた場所である。
 在りし日の主イエスの活動を懐かしんで、ソロモンの廊を訪ねたという捉え方は、感傷的であり、また懐古的であって、正しくない。使徒たちは、主が生きておられ、生ける主は語りたもう、と確認していた。そのような確認に生きる彼らが、ソロモンの廊に集まる機会が繁くあったのは、当然ではなかったかと我々は理解する。主イエスがここで語りたもうたという記憶をもっているペテロたちにとって、その場所に行って、生ける主を説教すべきであるとの思いを固めることは、ごく当然であった。
 今日学ぶペテロの説教は、2章に記されていた五旬節午前9時の説教と、内容的によく似たものであることに我々は気付いている。勿論、同じ材料を重複して使っているというようなことではない。今日のところで新しく学ばなければならない言葉が幾つかある。だから、別の機会に語られた別の説教だということは確かである。
 2章の説教が行なわれた場所は宮に近い所、あるいは宮の中ではないかと推測は可能であるが、特定することは困難であった。それと比べて、ソロモンの廊における説教は場所がハッキリ書かれている。しかも、その場所はイエス・キリストが復活したもうたこと、自分たちがその復活の証人であると宣言するのに極めて相応しい。
 人によっては、この午後の説教は二番煎じのように受け取られるかも知れない。けれども、ペテロにとってはそのようなものでなかった。新しく御霊に満ちて語ったのである。人が集まったから語ったように書かれているが、それは神が宣言の場所を用意し、人を集めて下さったから、語り始めねばならなかったという意味である。少なくとも、この説教を今朝聞く我々にとっては、五旬節の朝聞いた説教に劣らない新鮮な印象をもって聞くものである。
 11節、「彼がなおもペテロとヨハネとに付き纏っているとき、人々は皆ひどく驚いて、「ソロモンの廊」と呼ばれる柱廊にいた彼らのところに駆け集まって来た」。
 文章の続き具合が何となくギクシャクしていると感じる人がいると思う。文章が損なわれたようである。そのため、写本が幾通りか出来ることにもなった。使徒行伝の原典写本について、細かい問題にまで説き及ぶことは、私には今とても出来ない。が、文章の欠損を補うならば、ペテロとヨハネが祈りを終えて内庭の門から出て来る。その時癒された人がまだ付き纏っているのを見て、群衆が驚き、それから使徒たちが向かうソロモンの廊に駆け集まった、ということのようである。
 「ソロモンの廊」がどこにあったか、その廊のどの部分であったかについても、面倒な問題があるが、余り詮索しないことにする。先に見たように、それがかつて主イエスが用いたもうた場所であるという点を重視して、この場所の意味付けを考えて置こう。この柱廊は神殿の東側にあったようである。
 「ソロモンの廊」という名前はソロモンが造ったという言い伝えに基づくのであろうが、ソロモン神殿は一旦完全に破壊されたのであり、柱廊部分が残っていたという事実はない。また「柱廊」という建築様式はギリシャのもので、かなり新しい時代に入ったもの、したがって、ヘロデの神殿が出来た時にその一部として造られたと見られる。
 この時、ペテロの説教を聞いた男の数は5000人であったと4章4節に書かれる。女性と子供を加えればずっと多い。したがって、それだけの人数を収容出来る広い場所で説教が行なわれた。これは五旬節の朝の説教よりも多くの人を集めたようである。この人数の多さを疑うことは要らない。が、人数の多さに強調点があるのでもない。多くの人にこのように語り掛けられたということは、全イスラエルに対する宣言であることを示す。イスラエルに約束されていたメシヤは来たりたもうたとの宣言を一人でも多くのイスラエルに聞かせることが必要であったという点を見落とさぬようにしよう。
 12節に入るが、「イスラエルの人たちよ」とペテロは語り出したのである。これは2章22節で見たのと同じ言葉である。「イスラエルの男たちよ」という言い方であるが、男子だけを相手にしたと取らなくてよい。今見たように、イスラエルに対する呼び掛けである。福音は万人に対するものであり、主イエスの同族、またこの日エルサレムに集まっていた人に語られただけのものでないことを我々は知っている。しかし、初めはイスラエルの人たちに呼び掛けねばならなかった。それは、たまたまその時イスラエル人しかいなかったからだと取られるかも知れないが、それだけの意味しか読み取れないとすれば、寂しいことである。神の約束があって、その約束を待っていた民がいた。その民が先ず聞かなければならなかった、という意味である。
 その人たちが全部信じたわけではないではないか、と言われるかも知れない。その通り、少なからぬ者は信じないで反逆した。2章の説教の時は反動がなかったようであるが、3章の説教では、帰依する人も多かった代わりに、反発する人もおり、迫害さえ始まる。しかし、彼らの不信仰が神の真実を空しくした、と言えないことを我々は知っている。約束を待つ民に神が成就を告げさせたもうたこと、これが基礎となって、福音は万人に広がるのである。
 「なぜ、あなた方はこの事を不思議に思うのか」……。人々は信じないで、ただただ不思議に思った。それを非難しているのではないが、不思議に思うこと、あるいは驚くことは要らない。驚きをキッカケに高い真理に上って行く場合があることを我々は知っている。しかし、驚きが必ずしも精神の高みへの門戸でないことも分かっている。人々は驚いて集まったのであるが、彼らの関心はペテロとヨハネの異常能力、あるいは信心による念力に集中している。その思いの空しさから解放されなければならない。
 「私たちが自分の力や信心で、あの人を歩かせたかのように、なぜ私たちを見詰めているのか」。
 キリスト教会の最初の時期に、奇跡がかなり大きい意義をもっていたことが知られている。人々は奇跡を行なう使徒たちを尊敬し、使徒の通って行く日影が射すだけでも霊験あらたかであると考える迷信に陥ってしまった。もっとも、その使徒に対する迫害が始まったのであるから、奇跡を行なう人を恐れたとも言えない。
 奇跡によって畏れを抱かせ、神の御心の実現の進展に道を譲らせるという考えがあったと解釈されることはある。だが、力はむしろ主に御言葉において示されると理解する方が正しいであろう。奇跡は大いなる出来事が起こっているということを示す徴しである。信じない者も信じないではおられなくされるという面もないとは言えないが、むしろ、すでに信じた者が、信じた事柄について、いっそう深く思いめぐらし、確認させられるという面がある。
 さて、ペテロとヨハネは「私たちの力、私たちの信心に目を向けるな」と言う。私たちの「力に目を向けるな」という点については特に言うこともない。「信心」については少し考えて見よう。この「信心」という言葉は、信心深いこと、敬虔なこと、神を恐れる生き方である。「信仰」というのと同じと見られるかも知れないが、そうではない。我々は「信仰」という言葉を、「救い」、「義とされること」に関わるものとして使いたい。信仰は、先ず恵みの約束があって、それを受け入れることである。信ずべきことがあって、それを信じる。譬えるなら、容れ物があって、それに中味が入っている、その容れ物が信仰と呼ばれるものである。一心に信じるうちに容れ物が満ちて来るというような場面を空想しても益にならない。
 「信心」とか「敬虔さ」というのは、信じている状態と言えば良いかも知れない。我々は神を信じているのであるから、当然、信じている状態にある。人はそれを評価して、厚く信心する状態であるとか、そうでないとか言うが、敬虔な状態を尺度で測るのは意味がない。なぜなら、信心深そうに人の目に見える場合はあるとしても、しばしばそれは欺きであるからである。
 私たちの力や信心深さがこの人を癒したのではない、と言ったのは、端的に言えば、イエスの御名にこそ力があって、それが癒した、という単純なことである。そして名がそれだけの力ある業を達成したとは、名に魔術的な力が籠っていたからというのでなく、「イエス・キリスト」という名を持ちたもうお方が、ここにおられて、ここに働きたもうということなのである。彼の姿が見えないことは何ら支障にならない。見えなくてもおられる。これは、御霊においておられると言った方が正確であり、また分かり易い。その名が呪文のように唱えられるところに力が働くというのではなく、信仰をもって彼を受け入れるところに、彼は生ける主として在したもうのである。
 13節に「アブラハム、イサク、ヤコブの神、私たちの先祖の神は、その僕イエスに栄光を賜ったのであるが、……」と続く。
 ここからが本論である。この節の言葉の説き明かしをし尽くすには時間が足りない。二つのことだけを見る。一つは、「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」である。
 この呼び方は旧約以来、神の民にはすでに親しまれている。それが馴染みのある呼び方だから唱えるに相応しいというのではない。むしろ、神ご自身がそのように呼ばれることを宜しとされるということを我々は知っている。
 神を天と地とその中の一切を造りたもうたお方と呼ぶことは勿論正しい。無から有を造り出し、命なきものに命を与え、絶対的な力で、永遠に支配したもう。そういう呼び方に神が不興になられることはない。聖書の中でも屡々用いられる呼び名である。いうなれば神が客観的、理論的に捉えられている。
 それと比較して、「アブラハムの神、ヤコブの神、イサクの神」と呼ぶのは、動的な把握である。適切を欠くかも知れぬが、人間臭い呼び名である。しかし、人間臭いから神が忌みたもうということにはならない。勿論、この族長3人だけにとって神であるに留まり、それ以後の者にとっては関係がない、あるいは意味が薄まるということではない。すなわち、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神は、また彼らの子孫の神であられる。今日読むところでは「私たちの先祖の神」という呼び方が付け加えられている通りである。
 この神は、人間と関わりを持ち、交わりをもち、契約を結びたもうお方として、ご自身を我々の目の前に現わし、我々の一人一人に呼び掛けたもう。したがってまた、アブラハムが信じ、イサクが信じ、ヤコブが信じたように、今、私は信じる、という人格的応答としての信仰が呼び起こされる。
 「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」と自ら名乗って現われたもうた記録で、我々に感銘深いのは、出エジプト記3章で、モーセにミデアンにおいて使命を授けたもうた場合であった。この事件については、使徒行伝7章32節でまた学ぶ機会があるから、そこで深められることを期待しよう。
 ところで、今日聞く言葉で、これまで余り聞き慣れていなかったのは、「その僕イエス」という呼び方である。これを第二に学ぼう。「僕イエス」、「神の僕イエス」という名は、新約と初期キリスト教の文書で、決して稀なものではないのだが、「僕イエス」よりは「主イエス」また「御子イエス」という呼び名のほうが定着してしまった。今では「僕」という言葉は、主なるイエスに対する私の位置について主に使われるようになった。
 初めの時代にはそうでなかった。この章の26節に、「神が先ずあなた方のために、その僕を立ててお遣わしになったのは、あなた方一人一人を悪から立ち返らせて、祝福に与らせるためである」という章句がある。我々ならナザレのイエスと言ってしまうところが「僕イエス」として把握されている。4章27節では、「あなたから油を注がれた聖なる僕イエスに逆らい、うんぬん」と言う。その少し後、30節には、「聖なる僕イエスの名によって、徴しと奇跡とを行なわせて下さい」という言葉がある。我々なら他の呼び方に置き換えてしまうかも知れぬが、ふんだんに「僕イエス」と呼ぶ。
 このほか、イザヤ書53章と関連した新約の言葉があることは言うまでもない。ピリピ書2章7節「己れをむなしうして僕の形をとり」もその典型である。他にも、かなり見つけることが出来るが、今はこれだけにして置く。
 これまでに何度か触れて来たことを繰り返すが、主の復活の後、使徒たちは集中的に聖書の共同研究を行ない、自分たちがこれから宣べ伝えるべき教えの要目を確認していた。その共同研究の中で重要視された箇所の一つにイザヤ書52章の終わりから53章の終わりまでがあったということにも我々は気付いている。これは使徒たちの発見や着想でなく、主イエスがすでに教えておられたことだという点についても、確認出来る。
 神は僕を選び、その僕に苦難を負わせ、しかし最終的にはその僕に栄光を帰したもう。イザヤ書のこの預言が何を言わんとするのか、ユダヤ人の間では分からなかった。ナザレのイエスはこの預言がご自身によって成就することを弟子たちに教えておられ、主イエスによるこの解釈は復活の後一点の疑念もなく信じられるようになっている。
 主の僕が苦難を受け、ついに栄光を受けたもうという図式で、キリストの苦難と、復活の栄光、そして我々の贖いが把握された。「僕イエス」という呼び方が盛んになされる中で力強くなされていた信仰の確認は、今、「僕イエス」という言葉が使われるくだりを読むだけでも感じ取られる。その後のキリスト教は「僕イエス」という言葉を抹殺はしなかったが、余り力を入れて言わなくなったのではないかと思われる。
 僕イエスと直接関係はないが、8章でピリポが南方の荒野に行けと命じられ、荒野でエチオピヤの女王のもとに帰る宦官と会い、イザヤ書53章の聖句について質問され、明快に答えた下りが述べられている。これは初期の教会の聖書解釈がどのように行なわれていたかを示す一例である。ピリポというのは、1章13節に出ていた12人の一人のピリポではなく、6章5節に出て来る7人の執事の一人であるピリポであると判断されるが、こういう人にも聖書研究は行き渡っていた。
 「先祖の神は僕イエスに栄光を賜った」と言うのは、キリストがまだ隠されたキリストでありたもうた時、すでに栄光を得ておられた、という意味である。その栄光は隠されていたが、信仰をもってイエス・キリストの御言葉を聞く者には見えたのである。徴しも行なわれた。しかし、背く者らはこれをキリストとして受け入れることを拒否した。では、拒否した者は滅びるほかなかったのか。そうではなく、その人たちにもう一度悔い改めへの呼び掛けが行なわれるのである。
 


目次へ