2005.06.12.

 

使徒行伝講解説教 第20

 

――3:1-10によって――

 

 

 使徒行伝3章の初めから、8章の初めまで、全く途切れずに続いているとは言えないとしても、読む人たちを一息に読ませる物語りが繰り広げられている。エルサレムにあった初期の教会の様子を、あたかも幕切れのない長い芝居で見るように、ずっと見て行くことが出来る。
 ここに描き出された場面が生き生きしているので、それに飲み込まれてしまいそうになるが、我々は時代劇を見て引き込まれているのではない。また現代の息の詰まる時代の中で、息抜きしようとして、今の時を離れて、昔に逃れようとするのでもない。あるいはまた、信仰の英雄を偲んで奮起させられるというのとも違う。この場面の中心人物が誰かということをシッカリ捉えなければ、読んで奮い立つことがあるとしても、その時だけの興奮で終わるであろう。その中心は生きて在ますキリストである。
 中心人物のように見えるものとして、ペテロとヨハネの名が1節に書かれてある。その通り、ペテロとヨハネがここでは中心人物だと一応言って良い。2章の終わりまでは、ペテロが中心的な役割をしていた。もう少し厳密に言うならば、ペテロが主だった働き手で、それ以外の使徒たちはおそえものとして書き加えられたということではない。12人という数を揃えて待機していた使徒たちが、一斉に立ち上がったのである。しかしまた、その中で主として語ったのはペテロであったことも無視し難い。
 だが、3章ではやや違って来る。「ペテロとヨハネ」という一対の使徒の名が上がる。それだけでなく、彼ら二人は説教するのである。今や二人の名が一組として書かれる。ヨハネは年が若かったということもあるからであろう、主イエスから特別に目を掛けて頂くことがあるし、年長の弟子たちからも愛されたが、弟子仲間で重要視されていなかったように思われる。ところが、五旬節の後、急速に重要人物になる。例えば、8章14節で、ピリポによるサマリヤ伝道が大きい成果を上げた時、エルサレム教会はペテロとヨハネを派遣して、みんなに聖霊が下るように祈りをさせたと書いている。何故、ヨハネの重要性が増したのか。ややギゴチない言い方をするが、ヨハネは教会の神学者としての働きを始めたのである。教会に神学が必要だったのだ。
 この二人は同格である。4章の13節に、「人々はペテロとヨハネとの大胆な話し振りを見、また同時に、二人が無学な、ただの人であることを知って不思議に思った。そして、彼らがイエスと共にいた者であることを認め、かつ、彼らに癒された者がその傍に立っているのを見ては、全く返す言葉がなかった」という通りである。
 では、この二人が12使徒の中で特別の重要性を持っていたということなのか。――そのような意見の人もいる。しかし、ペテロとヨハネを並べて書くのは、使徒行伝特有の筆法ではないということに我々は気付いている。この二人はズッと前から一緒であった。つまり、主イエスが「私に随いて来なさい」と言われて、彼らが従った時から一緒であった。
 ということは、古い順に弟子としての地位が高かったということか。そうでないことについては、説明の必要もない。では、何が大切なことであるか。ここで、二人が従って行ったそのお方に、我々の思いを向けなければならなくなってくる。そのお方のことは使徒行伝では余り語られない。その方はもうここにはおられない、と言っているかのようである。――しかし、おられないとは、見える姿においておられないということに過ぎない。そのお方は「私は常に、世の終わりまであなた方と共にいる」と言われた。その言葉は空しく語られたのではない。その言葉が真実であったと頷きつつ読むのが使徒行伝の読み方なのだ。
 先ほど、4章13節で、ペテロとヨハネと癒された人とが立っていて、人々がただただ驚いている情景を偲ばせられたのであるが、この3人の像は、実は一人のイエス・キリストの姿を証するものであって、我々の目はこの3人に吸い寄せられるべきではなく、イエス・キリストに向かわなければならない。それが今日学ぶ一番大事なことである。ナザレ人イエス・キリストの「名によって」歩むとは、キリストが去って、名だけが残っているということではなく、イエス・キリストが生きて働きたもうということそのものなのだ。
 本文に入って行くが、「さて、ペテロとヨハネとが、午後3時の祈りの時に宮に上ろうとしていると、生まれながら足のきかない男が、抱えられて来た。この男は、宮詣でに来る人々に施しを請うため、毎日「美しの門」と呼ばれる宮の門のところに、置かれていた者である」。
 これは何日のことであろうか。五旬節当日の午後だったのか。別の日だったか。五旬節の出来事の余波が広がっている形跡は見られない。あの時、大音響に驚いて掛け集まった人が、この時の群衆のなかに交じっていたとも思われない。ということは、あの出来事とかなり近いので、噂が広まらなかったということであろうか。だが、日については結局分からないし、分からなくても支障はない。
 午後3時の祈りの時に宮に上るために美しの門から入って行く。ということは、彼らは繁く宮に上ったが、生活している場所は宮の外、市内、さらに想像すれば下町であったらしい。1章13節に「彼らは市内に行って、その泊まっていた屋上の間に上がった」と書かれているが、そこから宮に上ったようである。
 宮にはイスラエルの民は常時行って、個人的に祈ることが出来た。そのほかに、時間を決めて、人々が集まって、公けの祈りを共にすることが定められていた。朝と午後と夕方の祈りである。
 宮に入るには、門を通るのであるが、「美しの門」というのはどれか。門が9つあったことは分かっているが、正式に美しの門と名付けられた門はない。どれも金銀の細工で扉が飾られていたようである。これは東向きの「ニカノル門」と呼ばれたものだという説が有力であるが、その説の真偽を詮索する必要はないと思う。
 何のために宮に行くか。午後3時の祈りの時に合わせて宮に行くのであるから、祈りのためであったと考えるほかない。宮に行かなければ祈りにならないと彼らが思っていたわけではないであろう。彼らは家でも、会堂でも、祈っていたが、神殿の聖所に行って祈ることも重んじていた。キリストの民として一般のユダヤ人から分離したように理解されるかも知れないが、最も初期のキリスト教会はユダヤ人の神殿で礼拝することをボイコットしなかった。彼らはユダヤ人から拒絶されて神殿礼拝をしなくなったが、彼らの側から別れたのではない。
 なお、神殿では、祈りを捧げるだけでなく、捧げ物、犠牲も捧げる。キリスト者も犠牲を捧げることがあった例が、使徒行伝のもっと先には出て来る。この日は祈りだけである。捧げ物は夕べの礼拝に行なわれた。
 そのように、宮に上ったのが祈りのためであることは確かであるが、それだけではなかったらしい。もう一つ、宮の中で集会を開こうとしていた。
 3章11節に、「人々は皆ひどく驚いて、『ソロモンの廊』と呼ばれる柱廊にいた彼らのところに駆け集まって来た」と書かれている。続き具合がよく分からないが、察するに、人々は使徒たちがソロモンの廊にいることを知っていたらしい。使徒たちは祈りを献げて後、ソロモンの廊に移り、そこで集会を開き、説教をしたようである。それが主イエス在世の時からの慣例であることを我々は福音書によって承知している。
 市内に多くある会堂で、使徒の教えが与えられ、パン割きがなされ、施しがなされ、祈りもなされ、洗礼も会堂で執行されたということを、2章で学んでいた。宮に行く必要はもうない。にもかかわらず、律法にしたがって捧げられる宮の祈りを拒否するのでなく、またキリストでいます主イエスを十字架につけて殺すという大それた罪を犯した人たちと一緒に祈っていたとは、単に慎ましい判断というだけでなく、神の民を尊重する姿勢があったからである。
 そして、もう一つ考えられることは、ソロモンの廊における集会のためではなかったか。ソロモンの廊と呼ばれる場所について説明する方がよいかも知れない。廊は柱廊で、柱に支えられた二階があって、そこに集会の出来る部屋があった。それを指すらしい。そこは開かれた場所であった。イエス・キリストの実例に見ることが出来るように、いろいろな人が主のなさる説教を聞きに来ていた。論争を挑もうという人でも参加して聞くことが出来た。主はその人たちと向かい合いたもうた。初代教会はそのような姿勢を引き継いだのである。
 さて、ペテロとヨハネが門に差し掛かった時、その門の外に座らせられて施しを請うている足の立たない障害者がいた。人々が多く集まる所なので、施しを請うためには好都合なのだ。彼は普段は家にいて、時間が来ると人に抱えられて美しの門に来る。人が去る頃にはまた家に抱えられて帰る。人々が宮に来るのは祈りのためであるが、この人は、施しを受けるために宮に来る。
 そういう生活をしていた人の惨めさについて論じても意味がない。また、美しい門のそばに醜い乞食がいるコントラストを取り上げることも殆ど無意味である。気の毒な人であることは事実であるが、気の毒な人に同情しましょうという教訓を聞くのではなく、主が生きて働きたもうことに我々の目を開くことが大切なのである。
 「ペテロとヨハネとは彼をジッと見て、『私たちを見なさい』と言った」。
 使徒たちは彼をジッと見た。それから、その物乞いしている人に「私たちを見なさい」と呼び掛けた。そこで彼も見る。互いに見合うということにどれほどの意味があるかは分からない。物乞いの人は何か貰えるだろうと期待して注目するだけだったからである。確かに、ここではキリストの名によって力ある業が行われたのであり、そのことこそ大事だったのであって、使徒たちが目を開いてジッと見ているかいないかは取るに足りないことである。
 それでも、力ある業が主の名によって行なわれようとしている時、それに関与する人が、軽々と、大したことは何もないかのように振る舞ってよいものではないであろう。満身の力を絞り出して奇跡を行なおうとしていたというふうに取っては正しくない。ペテロとヨハネの奇跡ではないからである。しかし、キリストの名によって大いなる業が行なわれるということは、最大の緊張を必要とすることである。
 ペテロは「金銀は私にはない。私にある物を上げよう」と言った。スグ前で、「私たちを見なさい」と言った時、この物乞いには、見なさいと言った人の意図は分かっていなかったのだが、ペテロとヨハネは、シッカリ意識して見ていた。そして自分の持っているものの大きさを良く掴んでいたとともに、自分をその人、そこに座り込んでいる人の前にさらけ出したのである。
 彼らは何も携えずに、福音のために、キリストの名のために、世界に遣わされる。金銀は私にない。その「私」、「私たち」を見ることに、意味があるのか。――ことさらに意味を強調しては、自己顕示になって大事なことが消えてしまうであろう。だが、何の力も、何の富も持たない人がこう言っていることは、確かに、注目すべきことなのだ。すなわち、我々もまたそうなのだ。
 ペテロとヨハネがしたこと、言ったこと。それが今の我々にも当てはまるということを、ここで強調するのは差し控えて置く。ここでは、キリストが生きて在ますこと、キリストが力ある方であられること、そのことこそが大切であって、今日も、我々には同じ事が出来るのだと言うと、中心主題がそれてしまう危険がある。だから、語りすぎないようにしよう。しかし、我々も金銀を持たない者であり、キリストは今もいたもうのであるから、我々がペテロやヨハネと同じことを言い、その言葉によって同じ事が起こったとしても、決して不思議ではない。
 金銀を持たない我々が、金銀でない持ち物を人に与えたとすれば、それは物や金銀しか期待していなかった人にとって、金銀を与えられたよりも遥かに大きい出来事である。幾らかの金銭があったなら、それをもって施しをすることが出来た。ところが、金銭がなかったために、施し以上の大いなる出来事が起こったのである。
 我々が人並みに施しをしたいと願って、施すための金銀を主に請い求めることが邪だと考える必要はない。主が私に金銀を与えたまい、私がその金銀を貧しい人のために役立てるということは今後も大いにある。しかし、そうでない場合もあることを忘れてはならない。金銀がないために、金銀以上の働きの場が開けるということがある。では、それはどういう場合なのかと問われるならば、分からないのである。しかし、真実であられる主は求める者に良き物を与えたもう。その確信があるならば、よき物を請い求めて祈ればよいのである。
 これは奇跡を行なわせて下さいと祈ることではない。奇跡と呼ばなくて良い範囲のことである。他の人には金銀しか醵出出来ないが、主の祝福を受けている民には、物としては貧しいけれども、金銀以上に豊かに祝福された知恵を差し出すことは出来る。教会は貧しいけれども、貧しい故に豊かな奉仕をすることが出来る。
 「キリストの名によって歩きなさい」……。「キリストの名」というのは、異能を行なうための呪文ではない。これはキリストが目に見える姿ではここに在したまわないが、その名がここにあるとは、彼ご自身がここにいますということなのだ。その実在者が癒しを実行したもう。
 今日学んでいることが、ペテロとヨハネにおける過去の事件、私と関係のないこと、というふうに思ってはならない。我々もキリストの名を持っている。私が生きているとは、キリストの名が私において力と意味とを持っているという事にほかならない。キリストの名しか持たないことを、巨大な富や権力、武力の猛々しく動いている世界の中で、取るに足りぬ小さなこととして卑下してはならない。
 「こう言って彼の右手を取って起こしてやると、足と、踝とが、立ち所に強くなって、踊り上がって立ち、歩きだした。そして、歩き回ったり、踊ったりして、神を讃美しながら、彼らと共に宮に入って行った」。
 かつてイエス・キリストが人を癒したもうた時、多くの場合、病人の手を取って起こしたもうた。「立て」と命じるだけで十分なのだが、主はそれに御手を添えたもう。それは、彼の慈しみの深さと真実の現われである。彼はご自身の全てを掛けて関わっておられる。今ここで見られることは、かつての日、主イエスがなさったことのさながら生き写しである。それで良いのである。
 自分の足で歩けるようになって、第一にしたのは宮に入って行ったこと、つまり祈りに行ったということは重要である。だが、当然のことであるから、そういう成果を強調する必要はない。大事な点は、人々が過去のものと思っている主イエスが生きて、力ある業をなしておられることが証しされたという点である。
 「民衆は皆、彼が歩き回り、また神を讃美しているのを見、これが宮の『美しの門』の傍に座って、施しを請うていた者であると知り、彼の身に起こったことについて、驚き怪しんだ」。
 この群衆は彼が宮で物乞いしていたのと同一人物であると確認した。しかし、驚き怪しんだだけで、キリストの名を信じはしなかった。神を讃美することも忘れていた。そのままで終わるなら、空しいことであったが、この時はそれで良かったのである。すなわち、4章4節にあるように、ペテロとヨハネの説教する福音を聞いて、5000人が信じるようになった。我々もこの徴しによって、示すべきことが終わったと見てはならない。これを幕開きとして、次に福音の説き明かしを聞かなければならない。

 


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