2005.05.22.

 

使徒行伝講解説教 第18

 

――2:42によって――

 

 

 「そして、一同はひたすら、使徒たちの教えを守り、信徒の交わりをなし、共にパンを割き、祈りをしていた」。
 ここまで我々が使徒行伝で学んで来たことは、ペテロをその代表とする使徒団の言葉と行動、また、それによって引き起こされる民衆の反応であった。使徒行伝は使徒の語ったこと為したことの記録であるから、こういうことが書かれたのは当然である。今後も、こういう調子で書かれて行く。しかし、今、42節で読むことは、使徒の言葉と業ではない。それと切り離せないのは勿論であるが、使徒の記録の中に吸収されるものではない。「一同は……」と書かれている。これはもう、使徒のことではない。――ただし、この「一同は」という言葉に当たる原語はない。これは「彼ら」であって、バプテスマを受けた三千人を指している。
 主が使徒たちを用いて、ご自身の御業をなさしめたもうのであるから、使徒の言葉と行動に中心が置かれるのはそれで良いが、それだけでは肝心の教会の全体像が見えにくくなる。その全体像を見るために、ルカの筆は使徒を描くのを時々止めて全体を描き出す。42節以下はそのような文言である。
 4章32節以下もそのような主旨の文章である。「信じた者の群れは、心を一つにし、思いを一つにして……」と書かれている。そして、この種の文章で代表的なものは9章31節であろう。「こうして教会は、ユダヤ、ガリラヤ、サマリヤ全地方に亘って平安を保ち、基礎が固まり、主を畏れ、聖霊に励まされて歩み、次第に信徒の数を増して行った」。
 使徒たちが、聡明に、また雄々しく、英雄的に立ち働く。その彼らの活躍振りを眺め、感動することも無意味ではないが、ところどころに短い言葉で挟まれるその時点その時点での教会の姿をキチンと捉えて置く言葉は、使徒行伝の学びの急所急所なのである。これらの急所急所で締め括ることを怠ると、使徒行伝の学びはダラダラとした物語りの寄せ集めになってしまう。
 このことと関連して、もう一つのことにも触れなければならない。これまでの所ですでに気付いたことであるが、使徒行伝は二種類の文章から成っている。一つは、一連の物語りとして語られているものである。五旬節の朝のペテロの説教はそれであった。それは一気に語られ、一気に聞いて捉える。
 もう一つは、断片を集めた文章である。ペテロの説教が終わった後に続くのはこういう種類の文章であった。これは、必ずしも一貫性をもって聞く人を引き込むものではない。一語一語についてじっくり思い巡らさなければ意味がよくこなせなかった。
 この第二の種類のものが、必ずしも一貫性をもって読ませ、引きつける、というものでなかったのは、一人の人物が一連の言葉を語ったり、一連の行為をしたりするようには書かれていないからである。この点が福音書と違って使徒行伝が魅力を欠く点だと言われるであろう。それはそうかも知れない。福音書では一貫して主人公としての主イエスが御言葉を語り、御業をなしておられる。使徒行伝にはそれがない。
 しかし、使徒行伝にも一貫して働きたもう主人公がおられる。それを読み取りさえすれば、もっと良く分かるし、もっと引き込まれるであろう。その主人公とは誰か。それを「聖霊」であると読むのも一つの読み方であろう。しかし、もっと適切なのは、聖霊において在まし、また聖霊において働きたもうイエス・キリストである。彼が天に昇られた後にも、共にいて働きたもうことが福音書にも述べられている。マタイ伝は「見よ、私は世の終わりまで、いつもあなた方と共にいるのである」との御言葉によって閉じられるようになっていた。マルコ伝も、最後のところは、「主も彼らと共に働き、御言葉に伴う徴しをもって、その確かなことをお示しになった」という言葉で結ばれる。ヨハネ伝も、ご自身の去って行かれる後に「助け主」が送られることを約束し、その助け主によって、あなた方は私の業をするのだと、告別の説教の中で語っておられる。
 福音書は或る意味で使徒行伝に続く。だから、ルカはルカ伝の続きとして使徒行伝を書くのであるが、読む人もこの連続を心に留めていなければならない。換言すれば、イエス・キリストが、姿は見えないが御霊において主人公として働き続けておられるという点である。
 次の第3章では「美しの門」における奇跡が語られる、それについて今詳しいことを語る必要はないが、この奇跡が「ナザレ人イエス・キリストの名によって」なされた点が中心であることは言うまでもない。「キリストの名」ということは、ペテロがその名を用いて奇跡をおこなった、というふうに理解すべきものではない。キリストの名とはキリストがそこで主体、主人公であられるということを示す名である。キリストが共にいて働きたもう、ということを付け足しとして添えるのでなく、ハッキリとキリストの働きを読み取らねばならない。
 もっと顕著な例は、これも有名であるが、パウロたちがアジアからヨーロッパに渡った時の経緯がある。使徒行伝16章6-7節に、「それから彼らはアジアで御言葉を語ることを聖霊に禁じられたので、フルギヤ・ガラテヤ地方を通って行った。そして、ムシヤの辺りに来てから、ビテニヤに進んで行こうとしたところ、イエスの御霊がこれを許さなかった」と書かれている。パウロを主人公にしてしまった伝道英雄物語りをブチ壊そうではないか、と叫び立てる必要はないが、明らかに、主イエスの御霊が主導権を執っておられる、
 さて、バプテスマを受けた人が三千人ほどいたが、その人たちがどのようにしていたか。――三千人が一箇所に集まっていたのでないことは、当然と考えられなければならない。三千人が集まる場所がエルサレムにあったか。あったとすれは、神殿の北と南にある「異邦人の庭」と呼ばれる場所、その北側の広場しかなかったのではないか。そこは東西300メートル南北150メートル弱くらいの方形の土地である。しかし、そこに集まったのでないことは確かである。三千人がその広場を占領することは、それだけで社会的事件である。主イエスはここで説教をしておられた。それはかなりの人数ではあったが、三千人には達していなかった。だから集まったというだけで危険視されることはなかった。公けの場所で或る程度の人数の物が集まって集会を開くことは許されるのである。しかし、他の人が利用出来なくなるほど沢山の人が集まることは、反社会的行為であって、キリストの民はそのような粗暴なことはしない。
 では、どういうふうにしていたのか。――数多くの集会に分散していたのである。これを奇異な解釈と見てはならない。すでにこれまで、ユダヤ人の信仰生活は、エルサレムの宮での祭りの日の礼拝という伝統形式の面と、律法には規定がないが、会堂、シナゴーグにおける安息日の集会と、週日における教育という面からなるものになっていた。あるいは、さらに家々での集会という面をこれに加えて良いと思われるが、「家々の集会」というのは、会堂の集会と同じものであったかもしれない。会堂は見るからに会堂らしい建てかたをしていたわけではないらしい。
 最初期のキリスト教会は、この会堂あるいは家の集会という形式を引き継いだのである。ルカ伝4章16節以下に、主イエスがナザレの会堂に行かれ、そこで説教をされたことが記されている。その時の安息日の礼拝、また礼拝における主イエスの説教がどのようなものであったかがこの記事から考えさせられる。それは過ぎ去り行く旧い形式に主が加わっておられたというだけのものでなく、聖霊降臨以後のキリスト教会の主の日の礼拝をも髣髴とさせるものがある。
 2章2節に「突然、激しい風が吹いて来たような音が天から起こって来て、一同が座っていた家一杯に響き渡った」と言われていたが、その「家」、それはこういう意味の家であったと考えられる。
 パウロが伝道に行く先々で、安息日にその町の会堂を訪ねて説教したことは良く知られているが、外国伝道になってからそういうやり方が始まったのではなく、エルサレムにおいて初めからそうだったのではないかと見るべきであろう。
 イエス・キリストの弟子たちの活動が始まる前から、エルサレムには多数の会堂があったようである。その会堂はヘブル語を使うユダヤ人の会堂と、ギリシャ語を使うユダヤ人の会堂とに分類できる。この事実は使徒行伝6章を理解するために知って置かねばならない事情である。この分類の中のギリシャ語を使うユダヤ人の会堂のかなり多くがキリスト教の集会所になったと考えて良いであろう。
 洗礼を受けた人々は、こういう集まりをしながら、悔い改めて新しい生活に入った者としての信仰生活を始めた。その姿が42節に先ず描かれるが、この42節に描かれるのは信仰面に現われていることである。43節以下に描かれるのは生活の仕方である。
 信仰生活としては、先ず「使徒たちの教えを守った」と言われる。これはどういうことであろうか。
 「使徒たちの教え」というものがあって、それを固く守ったということではないかと思われる。17章19節に、パウロがアテネのアレオパゴスの評議所に連れて行かれて、「お前の語っている新しい教えがどんなものか言って見てくれ」と言われ、そこでキリストの復活について説教したが、人々の耳には余りにも突飛な教えに聞こえたということがある。ここでは、死人の復活、またイエス・キリストの復活が「教え」の主題であった。
 「使徒たちの教え」とは、使徒たちが分散して、それぞれの会堂ないし家々で教えるという形をとったその教え方を指すとも考えられるが、何カ所かに分かれて教えるとき、食い違った教えがなされてはならないので、どういう形であったかは今では突き止めることが出来ないが、信仰箇条のようなものであったか、生活の仕方についての指示であったか、その両面に亘るものであったかであろうと推定される。そういうものが出来ていたと考えられる。
 「12使徒の教え」という名前の書物が少し後の時代に書かれた。使徒が書いたということで権威づけることが後の時代に盛んになるが、それは使徒の意図に沿っているという点では使徒的であっても、使徒が手ずから書いたのではない、という理解は今では行き渡っている。我々の唱えている使徒信条もその一例である。
 「使徒の教え」と呼ばれるものがあっても、本当に使徒の書いたものではなかったという理解が行き渡ってしまったが、使徒の教えと全く無関係なものが、使徒の直筆だと宣伝されるようなことは余りなかったと思って良いのではないか。すなわち、使徒が書いたのではないとしても、その意向を、一部ではあるとしても伝えるものは、或る程度あった。
 すでに見て来たように、主の昇天ののち、使徒たちは集中的に聖書を調べ、祈り、討論もして、宣べ伝えるべき教えを纏めていた。そういう中で「使徒たちの教え」と呼ばれるものが纏められていたのである。
 次に「信徒の交わりをした」ことである。ここでいう「交わり」(コイノーニア)とは何か。――今日では、「交わり」とは、その場だけ上辺で仲良くすることとして実行されるが、本来はそのような単純なものではなかった。これについては各種の解釈が行なわれる。1)使徒たちと一般信徒の交わり、交流。これを通じて使徒の伝えるべきことが伝えられたのではないか、とも考えられるし、教える者と教えられる者とが良きものを共にすることであるとも言われる。2)信徒同士の所有物の共有。44節が言うのはまさにこれである。3)コイノーニアとは、直ぐ次に出て来る「共にパンを割く」ことの同義語であるという解釈がある。4)施しのことだという解釈がある。5)神への捧げ物を集めることだという解釈もある。
 ハッキリした断定は下せないのであるが、霊的なものは勿論、具体的な共有、相互援助、協力であったことは確かである。
 次に、「共にパンを割く」ことがある。何よりも主イエス・キリストが使徒たちを召されて以来、日毎の食事の際、ご自身でパンを祝福して、割いて与えたもうたこと、それが渡されたもう夜まで、いや、復活の後まで続いたことを思いかえさせるものである。また、説教に集まった人々を日暮れにそのまま帰らせるに忍びず、何千人もの人にパンを割いて与えたもうた奇跡を思い起こさせられずにはおられない。
 「パン割き」ということについても幾つかの解釈が行なわれている。これを我々が「主の晩餐」と呼んでいるものと同じだという解釈がある。これは分かり易い。「私たちが割くパン、それはキリストの体に与ることではないか」とパウロはIコリント10章16節で言うが、これは「私たちが祝福する祝福の杯、それはキリストの血に与ることではないか」という言葉と対になっているのであるから、御体と御血の聖礼典を指すと考えるのが自然である。
 使徒行伝20章7節に、トロアスで、「週の初めの日に、私たちがパンを割くために集まった時」という言葉がある。これは主の日の礼拝における聖晩餐ではないかと考えられる。
 しかし、46節には「日々パンを割いて」いたように書かれている。聖晩餐の実施が毎日のことであったか、という問題が出て来る。ただし、聖晩餐が毎日行なわれてはならないという根拠があるわけではない。毎日行なわれたのかも知れない。
 聖晩餐と切り離されて実施されたのではないが、それとは別の意味を持つ共同の食事、「愛餐」と呼ばれるものがコリントの教会で行なわれていたことが知られるから、日々のパン割きはこれであったかも知れない。
 しかし、家々のパン割きも、日常生活の一環として営まれる単なる食事ではなく、或る種の信仰の行事であったことは確かであろうと思う。
 次に、「祈りをしていた」。この祈りについては二つのことを考えねばならない。一つはキリスト教的祈りである。主イエスご自身、常に祈れと命じておられた。また、ヨハネがその弟子たちに教えたように、ご自身も祈りの型となるべきものを定めて、与えたもうた。今日なお用いられている「主の祈り」である。さらに、祈りと言われる中に、詩篇を歌うことも含まれると論じる人もいる。使徒たちが詩篇を熱心に読み、その意味を深く掘り下げていたことから推察されるのであるが、詩篇をつねに歌っていたことは考えて良いであろう。
 もう一つ、ユダヤの先祖からの祈りがある。これは神殿に赴いて、聖所の前で祈る祈りであった。使徒たちがこの祈りもしていたことは、3章1節に「ペテロとヨハネが午後3時の祈りの時に宮に登ろうとしていた」と書かれていることでも分かる。10章9節に、ペテロがヨッパで、12時頃祈りをするために屋上に登ったとあるのは、エルサレム神殿に行っての祈りではないが、ユダヤのしきたりに従った祈りであった。また2章46節に「絶えず宮もうでをしていた」と書かれている所から明白である。
 五旬節に洗礼を受けた人たちは、新しい生活を始めたのである。

 


目次へ