2005.05.01.

 

使徒行伝講解説教 第15

 

――2:32-36によって――

 

 

 前回、使徒行伝の学びの中で教えられたのは、ダビデがキリストの復活を預言したということであった。詩篇16篇はこれを歌った詩人自身の神信頼と確信を表明したものであると一般に受け取られていると思うが、ペテロはもっと踏み込んで、ここに、ダビデによるキリストの復活の預言がなされたと解釈し、その解釈を確信し、その確信を説教した。
 今回の学びは32節からであるが、ここでは、預言されていたキリストの復活が、今や事実となったこと、そして説教者ペテロ自身が、復活の預言の成就の証人であると言明することを学ぶのである。
 詩篇16篇についてのペテロの解釈、それは我々の目を瞠らせる全く新しい、そして見事な聖書解釈であったが、我々は感心するだけでそこに留まっていてはならないであろう。ペテロは単なる解釈者ではなく、むしろキリストの証人なのである。――それに対応し、呼応して、我々も、一つの解釈を学習する者に留まるのではなく、証人であり、呼び掛けに答える者として立つのだということを悟らなければならない。
 「このイエスを神はよみがえらせた。そして、私たちは皆その証人なのである」。
 これがペテロにとって、語らなければならないメッセージの中心であることについて、説明の必要がない。ただ、彼がここまで語って来た言葉が、主題となるべき宣言の単なる前置きであったと見てはならないであろう。前の部分を割愛してしまえば、中心部分が無力になる、ということにはならないが、意味とその確かさ、その深みが欠ける。だから、「主は甦りたもうた」との呼び掛けが単なる心地よいオハナシ、宗教講話になる危険がある。
 見方を換えて言うならば、ここまでは聖書の証言、ここからは自分自身の証言というふうに位置付けることが出来る。この二つの証言を並べて見れば、それぞれがよく見えて来るということに思い当たる人は多いはずである。
 聖書の証言と自分自身の証言とを、常に一対のものとして捉えて置かねばならないと規定すべきかどうか、私にはまだ分からない。というのは、聖書の証し、私自らの存在を懸けた証しの他に、なお、代々の聖徒たちの証し、つまり教会の証しの位置づけをどうするか、という問題があるからである。――しかし、コマゴマと論じなければならぬことは兎も角として、今日学ぶ箇所については、聖書の証言と、私自身が事実を目撃したという証言とは結び付いている。結び付いているとは、単に関連がある、参照しなければならない、という程度のことではなく、二つが一つになっているというのに近い意味である。
 さて、ペテロは「このイエスを神は甦らせた」と言う。24節でも、「神はこのイエスを死の苦しみから解き放って、甦らせたのである」と言われた。主イエスの甦りが受け身として捉えられているのである。すでに我々が良く聞き慣れているように、聖書には「イエスは甦りたもうた」という言い方と、「神はイエスを甦らせたもうた」という言い方と、二種類が混在している。混在と言ったが、一つの文脈の中で混乱しているところはない。二つの捉え方があるのだ。我々はこの二つの言い方を殆ど区別しないで使っている。
 この二つの言い方の混在について、気難しく考えることは要らないということを先ず言って置きたい。信じていない人たちの耳には、言い方が混乱しているのではないかと疑われるかもしれない。だが、この事実を信じている者にとっては、混乱は何もない。神が主イエスを甦らせたことは確認されており、主イエスが甦りたもうたことも確認されていて、両者は同じ事実である。どちらが本来の捉え方であったか、とか、どちらがより整った概念であるか、とか、詮索することは無意味であろう。――確かに、「キリストが甦らされた」と「キリストが甦った」の混在は新約にだけ出て来て、旧約では神が甦らせたもうという言い方しか出て来ないが、それは旧約の段階では見えなかったことがいろいろあるからである。ただ、どの角度からその事実を捉えるかによって、言い方が違って来る。
 先に23-24節で言われたように、結論として36節でも言われるが、ペテロはここで「あなた方」と「神」とを真正面から対置させるのである。「あなた方は彼を殺したが、神は彼を復活させた」。……勿論、「あなた方が彼を殺したが、彼は死に勝利した」というふうに、ユダヤ人とキリストとを対置させても良かったのである。しかし、この状況においては、ユダヤ人を神とを直面させた方が分かりやすかったし、言わんとしたことはより有効に伝達出来た。
 今ペテロの説教を聞いているユダヤ人は、五旬節の朝エルサレムの宮に集まった人たち、つまり敬虔なユダヤ人である。その人たちが知ってか知らずしてかは別として、キリストを殺した当事者であるとされる。しかも神は彼を生き返らせたもうた。
 この論法は、ユダヤ人と神とを、敵対関係にあると示す強烈な言い方であった。恐れおののかないではおられない。強烈過ぎると言って忌避する人がいるかも知れないほどである。だが、この時にはこの言い方だったからこそ、人々が深刻に、そして真剣に、事柄に向かい合えたと言えるかも知れない。
 もう一つ、ペテロがユダヤ人に深刻な思いをさせていた時、自分は涼しい顔をしていたかのように受け取らないように注意したい。「あなた方が彼を不法の人の手で十字架につけて殺した」。これを、あなた方の罪を責める言葉としてのみ受け取ってはならないということに我々はもう気付いていると思う。
 キリストが不法の人の手に渡された時、弟子はみんな逃げたではないか。逃げたのはいけなかったと思い直して、法廷の傍聴に行ったが、結局、「その人のことは何も知らない」と言って逃げたのは誰であったか。だから、「あなた方が彼を十字架に架けた」と言う時、ペテロは自分自身を責任を問われる「あなた方」の中に組み入れているのである。
 「そして私たちは皆、その証人なのである」。……一幕のオハナシが演じられたのではない。事実の証言が行なわれたのである。証人の立てられている証言であるから、単なる報告ではなく、事実の再現がなされたのと同じである。「私たち」というのは一緒に立っている12人のことである。証人の数を揃えなければならないから、欠員を補充したことは1章で学んだ通りである。
 「それで、イエスは神の右に上げられ、父から約束の聖霊を受けて、それを私たちに注がれたのである」。
 これは聖霊の降臨がなされたことについての説明であるが、ここでは、聖霊が降ったという先ほど人々の見聞きした事件、これにさらに説明を加えて、それが復活の主イエスのなさったことであると言う。十字架に架けられたけれども甦らせられた、ということで終わるのではなく、生けるイエス・キリストの徴しは、あなた方が聞いたあの大音響や、様々の国言葉、またあなた方の見た炎の分かれての現われとして現にあるではないかと言うのである。「このことはあなた方が現に見聞きしている通りである」。すなわち、2章の初めにあった異常現象である。
 もっと前の22節では主イエスは「あなた方の中で行なわれた数々の力ある業と奇跡と徴しにより、神から遣わされた者であることをあなた方に示された」と言われた。これらの事実は既に知られた通りである。ナザレのイエスのなさった奇跡については説明を付け加えることもなかった。人々はそれを否定していない。
 ここでは、それとは別段のキリストの業が説かれている。ペテロがダビデの詩篇を解釈して見せたその力量に、我々は驚いた。4章の13節には「人々はペテロとヨハネが無学の只の人であるのを知って驚いた」と書かれているが、ラビの学校で聖書釈義を教えられたこともない彼らが聖書を縦横に引いて、確信をもって聖書を解き明かす。これは確かに驚きであったということが分かる。しかし、我々は本当は驚かなくても良かった。ラビたちの誰よりも偉い先生が教えて下さったのであるから、ペテロたちは巷の律法学者たちより遥かに深い学識を持っていて当然であった。
 我々を驚かせることがもう一つある。33節で教えられていることは、当たり前と言えば当たり前かも知れないが、これはペテロたちが比較的短い間に到達した真理である。キリストと聖霊の関係についての教理である。
 この教えが主イエスによって与えられていたことを思い起こそう。使徒行伝1章4節でも、「かねて私から聞いていた父の約束を待っておるが良い」と言われたが、聖霊の約束はかねてから繰り返されていたに違いないのである。それでも、弟子たちは神の霊の働き、それが神の民に約束されていることを知っていたとしても、明確な把握は出来ていなかったと思われる。
 「父から約束の聖霊を受けて、それを私たちに注がれた」。「約束の聖霊」ということは、聖書を詳しく読む人なら掴んでいるが、それほどキチンと読まない人の方が多い。だから、聖霊について何となく分かっていると思う人、熱心に求めさえすれば、誰でも得られると期待している人は少なくない。そういう人は「約束の聖霊」として聖霊を捉えることを教えられていない。
 新しい日が来て、新しいことが起こった、という程度に感じている人もいたであろう。そういう人は、聖霊が与えられるようになったと思ったかも知れない。しかし、制度が変わって、交付の手続きが簡単になるようにして、聖霊が受けられるようになったのではない。約束されていたから、成就の日が来たのである。だが、約束の成就はどのようになされたか。それは単に時が満ちたから成就したという完成ではなかった。時が熟しただけでは成就されない。
 約束のものを受けたのはキリストなのだ。キリストにおいて成就があって、そのキリストがご自分の受けたものを、彼に属する者らに分け与えたもう。では、その時まで、イエス・キリストは聖霊を受けておられなかったのか。そうではない。彼は聖霊によって生まれたまい、常に聖霊に満ちておられた。しかし、ヨハネ伝7章39節に、「これは、イエスを信じる人々が受けようとしている御霊をさして言われたのである。すなわち、イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊がまだ下っていなかったのである」と言われるように、キリストに接していても、御霊を受けられなかった時期があったのである。
 聖霊はキリストを通して来る。そのことがペテロたちにいつ、どのようにして分かったのか。前もって主イエスが教えておられ、その段階では分かっていなかったことが、復活節から五旬節までの50日間、特に昇天日から五旬節までの10日間に集中的に次々と分かった。ただし、聖霊降臨以前にスッカリ分かっていたというよりは、最後のトドメを刺すような最後的完成は聖霊を受けた時であると思われる。
 「神の右に上げられ、父から約束の聖霊を受け、それを私たちに注がれた」。これを芝居の脚本のように、どこで、どの時、何をされた。というふうに読む必要は必ずしもない。神の右に上げられたとは、栄光を受けたもうたというのと同じである。オリブ山から天に昇りたもうたことそのものと結び付けねばならないと考えなくて良いであろう。十字架がすでに栄光なのである。神の右とは父と同じ権能の座を意味する。マタイ伝28章18節で、「私は天においても地においても、一切の権威を授けられた」と言われたのがこれである。特に聖霊を授ける権能をここで考えるべきであろう。
 「父から約束の聖霊を受け」と言われる約束は父と御子の間で交わされていた約束ではない。これは我々に対する約束である。
 「それを私たちに注がれた。このことは、あなた方が現に見聞きしている通りである」。それが先ほどあなた方が見た現象である。
 「ダビデが天に昇ったのではない。彼自身こう言っている、『主は我が主に仰せになった、あなたの敵をあなたの足台とする時までは、私に右に座していなさい』。だから、イスラエルの全家は、この事をシカと知って置くが良い。あなた方が十字架につけたこのイエスを、神は、主またキリストとしてお立てになったのである」。
 ペテロの説教は再びダビデの詩篇に戻る。ただし、先の詩篇16篇ではなく、詩篇110篇1節である。「主は我が主に言われる、『私があなたのもろもろの敵を、あなたの足台とするまで、私の右に座せよ』と」。
 この詩篇は昔からダビデの歌と題されている。ダビデが歌った詩だというのである。王であるダビデを称える詩篇として、家来の誰かが作ったものであり、第1の主は神ヤーヴェ、第2の主が主であるダビデのことだととれば筋は通るかも知れないが、後の方にメルキゼデクのことが出て来ると、家来が作った歌と言っていたのでは疑問は解けない。したがって、ダビデが二人の第三者について歌ったと取るほかない。そうすれば、第1の主は父なる神、第2の主は、来たるべき主なるメシヤである。これはキリストの勝利を父なる神が語りたもう言葉をダビデが預言したと取る他ない。
 マタイ伝22章では、主イエス御自身がこの詩篇を引いて、「このようにダビデ自身がキリストを主と呼んでなら、キリストはどうしてダビデの子であろうか」と言われ、パリサイ派の律法学者は返事が出来なかったという記事が書かれている。
 この詩篇は王なるキリストの勝利を預言するだけでなく、「あなたはメルキゼデクの位にしたがって、とこしえに祭司である」という重要な預言を含んでいる。この部分はペテロの説教の中には出て来ないのであるが、触れて置いて良いであろう。メルキゼデクの記事は詩篇のほかは、創世記14章にしか出ていない。旧約よりは新約に多く名前がでている。来たるべきキリストは単にダビデの子孫またダビデの再来であるだけでなく、ダビデとの繋がりを超越したメルキゼデクの再来であり、永遠の祭司職につきたもうお方である。メルキゼデクはサレムの王であり祭司であり、アブラハムが最大の敬意を払った人物であった。だから、キリスト預言としては詩篇110篇の初めよりも、この部分を引いた方がもっと適切であったのではないかと思われるが、それについてはこれ以上は触れない。
 ペテロが先に33節で「イエスは神の右に上げられ…」と言ったのは、この詩篇110篇から言葉を借りたものと思われる。明らかに、ダビデが自らの天に昇ることを預言して詩篇110篇を作ったと取ることは無理なのだ。実際、29節で言われたように、ダビデはまだ墓の中である。そして、神がこのように言われたということは、イエスがキリストとして立てられたということであり、こうして詩篇110篇は成就したのである。
 だから、イスラエルの全家は、この事をシカと知っておくが良い。あなた方が十字架につけたイエスを、神は主またキリストとしてお立てになったのである。
 これは詩篇110篇の預言の成就として宣言されたのである。そして、「あなた方が十字架につけたイエス」ともう一度言う。しかも、あなた方が不法の人の手で、という刺激を弱めた先の言い回しを今度はしない、ズバリ「あなた方が十字架につけた」と言うのである。全くその通りである。あなた方が十字架につけた故に、あなた方はいっそう真剣にこのお方を直視しなければならない。
 そして、先にも言ったが、彼を十字架につけたあなた方と、彼を復活させ、彼をメシヤとして立てたもうた神を直面させるのである。この後は悔い改めて信ずることしかない。そして、彼らはイエス・キリストによって罪の赦しを受けるのである。

 


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