2009.08.16.

 

使徒行伝講解説教 第148

 

――28:11-22によって――

 

 

 「3ヶ月の後」マルタ島を出発したと11節に書かれているが、その時期はいつだったのか。マルタに漂着したのが11月の初め頃であろうと先に述べた。それは279節に「断食期が過ぎた」とあるのをもとにした計算である。漂着して後3月待ったとすれば、1月末あたりになる。それでは航海を始めるに早すぎる季節ではないか。当時の記録では、3月の10日頃にならなければ、地中海航路は再開されなかったようである。だから3ヶ月して出港したというのは、何かの記憶違いではないか。――そうかも知れない。それにしても、早い目にマルタを発ったのは事実らしい。というのは、13節でレギオンに行って、1日おいて南風が吹いて来た、と書いているからである。この南風が春を告げる春一番ではないか。その春風に乗って、一気にポテオリまで進み、この年の最初の大型船の入港として迎えられたと見ておかしくはない。

 これは穀物を運搬する船で、冬になる前にローマに食糧を届けなければならなかったのに、マルタまで来て先へは進めなくなった。だから、マルタ出航を早い目にしたということだったかも知れない。

 アレキサンデリヤの船であったなら、エジプトの穀物をローマに運ぶ船であったに違いない。「デオスクリの船飾り」というのは、神デオスクリの像を飾りとして船首に取り付けていたという意味で、この神はギリシャ神話のゼウスの子として生まれた双子の神である。それは天空の双子座に結び付けられた海上交通の守り神とされていた。難破して失われた先の船にも、飾りはあったと思う。船員や船主の迷信から、神の像を舳先に掲げるのは常であった。前の船の飾りについては何も語られていない。

 今度の船に先の船の遭難者276人が全部乗れたかどうか、それは分からない。パウロは百卒長ユリアスに付き添われていたから、パウロの同行者たちもユリアスの率いる兵士の一隊と一緒に扱われ、途中からの乗船の便宜をはかって貰えたであろう。前からの船客もいたであろうが、総数を推測しても余り意味はない。それは無視して置く。

 ここから先、順調に進んだ航路の状況について、パウロとしては殆ど関心がなかったであろう。すなわち、パウロの関心は日一日と近づいて来るローマにのみ注がれていた。我々も、ローマに思いを馳せつつ一日一日を生きたパウロを思って、記事を読まなければならない。

 だが、なぜローマにそれほど関心があったのか。帝国の首都であり、当時すでに「永遠の都」という呼び名が捧げられていたかどうか、私は知らないが、そのような讃美を籠めて見られることになったのは確かである。しかし、パウロにはローマを永遠の都と言って賛嘆するような思いはない。少し後の時代になるが、使徒ヨハネが黙示録14章で悪の具現として捉えたのと同類の理解をパウロは抱いたに違いない。

 パウロとしては初めて接する巨大都市であった。その大きさに無感覚であったとは思われない。勿論、世俗的興味ではなく、そこに沢山人が住んでいることに関心があった。魂の救いが彼の使命だからである。しかし、そこがゴール・インの所、そこへの到達が目的の達成であるという意識はない。伝道の達人として伝道の中心部の掌握という戦略があったのでもない。むしろ、ローマに宛てた彼の書の15章に書かれている通り、ローマを通ってその先、当時知られていた世界の果て、イスパニヤまで行かねばならない。すなわち、キリストの福音が宣べ伝えられていない空白点を地上に残してはならない。

 こういう理解がもともとあったのに加えて、その後に起こった必要としての訴訟がある。この訴訟問題にはこれまでも本文の釈義との関連で何度か触れたが、繰り返すことは無駄ではない。もう一度見ておこう。

 2127節にあったが、エルサレムでパウロに対する暴行事件が起こった。これは暴行というほかないもので、エルサレムの治安を職務とする千卒長クラウデオ・ルシヤが介入してパウロを保護し、カイザリヤに送って監獄内に匿った。その事でユダヤ人たちは、暴徒としてでなくユダヤ議会の名で、ローマ官憲の介入に異議申し立てをし、パウロはユダヤ議会によって、すなわちユダヤ教の宗教裁判によって審かるべきであると主張する。それで、パウロはカイザルに上訴する。2511節で明言した。

 つまり、エルサレムで彼が保護されたのは治安のため、暴力から良民を守るためである。それに対しユダヤ議会は、何かそれ以上の言い分によってパウロを処刑しなければならないのだと主張する。それでパウロは、この件についてはカイザルの裁判権の上級の法廷に訴えるのが道理に適うと主張する。

 パウロが法廷で争うことに熱心なのを見て、興味を示さない人が教会の中に多い。暴力には敢えて逆らわないのが正しいではないか。迫害されて穏やかに忍ぶことこそキリストに倣う者の道ではないか、という考えがこの人たちにはある。個人道徳としてはそれで良いのだが、この世の秩序としては黙っていてはならないことがある。

 すでにローマの信仰者に宛てた手紙の13章で書いたように。神はこの世界の秩序を守らせるために、上にある権威を立てたもうた。その権威が地上において行使する機能をキリスト者は尊重しなければならない。だからユダヤ人が、ユダヤの宗教の法によってパウロを殺そうとするのを、カイザルの法が差し止めたのは正しかった。

 この地上的権威に地上の国の治安を維持させ、霊的権威を委ねられた教会の働きは、主として罪の赦しによる魂の救いを達成させることに宛てられる。パウロがカイザルの上級法廷に訴えて、さまざま苦労を味わいつつローマに行くのは、彼個人の権利主張ではなく、キリスト教会が本来の活動を遂行するためである。その路線が敷かれなければならない。だから、どうしてもローマに行かなければならない。

 パウロがローマにいるキリスト者たちに手紙を送ったのはかなり前のことである。使徒行伝で言えば18章に書かれていた時期、コリントにいた時である。ローマにいる信者の幾人かをすでに知っている。何時かは会いたいと言う。またそこへ行って福音の実を集めたいのである。

 それ以外の機会にもローマのことは、しばしば口に上った。そのローマに思いも掛けず、裁判の上訴人として、囚人、あるいは未決囚に等しい身分で連れて行かれることになった。それは自分の功名心で、あるいは行きたくて行ったのとは全く別の、主の御旨によって行く使命だということがハッキリ示されている。このことは2724節で船の難破を覚悟しなければならなかった時にも明らかにされたのである。

 話しは初めに戻るが、デオスクリの船はマルタ島の港に停泊していた。この港はヴァレッタではないかと思われている。漂着した聖パウロ湾に比較的近い。その船で行くことにしたのはユリアスの指令であった。滞在していた地から船に乗るまでは遠くなかったようである。島の人たちは大勢見送りに来た。多くの贈り物が寄せられた。惨憺たる漂流であったが結末は神の祝福を示していた。

 ヴァレッタを出た船は、先ずシシリヤ島のシラクサに寄港した。風向きが良ければ1日で行けた距離であるが、もっと時間が掛かったらしい。3日ここに碇泊したのは、風の具合が良くなるのを待つためではなかったかと考えられる。シラクサは古くからギリシャ人が開いた港であるが、船を下りて訪ねて行くべき信仰者の群れはなかった。ユダヤ人の寄留地も会堂もなかった。

 13節「それから進んでレギオンに行った」。ここはイタリヤ本土の南の端、長靴の形で言えば爪先にあたる。シラクサを出てから、シシリヤとイタリヤ本土との間の海峡を通り過ぎなければならないが、その海峡の手前にレギオンの港がある。この辺り、カラブリアの地方はギリシャ人が植民地として開いてギリシャ文明を植え付けた地である。

 「それから一日置いて、南風が吹いて来たのに乗じ、二日目にポテオリに着いた」。ポテオリもギリシャ人が開いた町である。ローマ人が後にこれを征服して主都ローマの外港としたが、ローマからの距離が200キロもあるので、後にローマのティベル川の河口にオスティアが開かれた。しかし、旅行者はポテオリで下船して陸路ローマに入ることが多かった。通常5日掛かる距離である。

 ポテオリにユダヤ人がいたことは分かっている。そのユダヤ人がキリストを信じた。異邦人で信じる人も増えたようである。ローマの教会と言われているのは、ローマ市内にある群れだけでなく、少し遠いがポテオリの群れも含んでいたのではないか。

 パウロたちはここで上陸した。14節に「兄弟たちに会った」と書かれているが、互いに顔を知っていたのではない。捜して、見つけたのである。ただし、見つけるのに苦労はしなかった。ピリピに初めて行った時も、ユダヤ人と敬虔な異邦人が祈りに集まる場所があるに違いないと予想して捜せば、簡単に会えたように、パウロたちには勘が働く。今でも、我々は信仰者とそうでない人を、顔つきや物言いや身振りで見分けることが出来る。ポテオリのキリスト者はパウロのローマ人への手紙を集会の中で読み聞かせられていたであろう。パウロがカイザリヤから出帆してローマに向かったことをピニケ経由で聞いていたかも知れない。

 パウロを監視する番兵はどうしたのか。百卒長はパウロを裁判所に連れて行かねばならないが、ずっと付いていることは出来なかったであろう。船がここで積み荷を卸したか、ティベル川の河口まで行ったかは分からない。パウロは尊敬されていたから、番兵が一人ついて兵営外に住むことが許されたと16節に書かれているが、そういう自由はポテオリで下船した時から始まっていたのではないかと思われる。

 勧められるままにポテオリで7日間滞在した。それは休養のためではない。ローマに行って福音宣教の働きをすると願っていたことは、ポテオリで始まったのである。連日集会が開かれた。7日間いたのであるから、安息日の集会があったことは確かである。当然、主の晩餐が守られた。

 ローマにはすでに早く無名の伝道者が福音を伝えていた。だから、アクラとプリスキラのようなしっかりした信仰者が早い時期にローマで育っていた。しかし、ローマの人たちは使徒の説教を聞いていなかった。使徒でローマに行ったのはパウロが最初である。間もなくペテロもローマに到着したはずである。

 次回17節以下で讀むのだが、パウロはローマに入って3日経って、主立ったユダヤ人を招き接触を始め、その時に日を決めて多くのユダヤ人を集め、朝から晩まで説教をした。そこを讀む感じでは、その時集められたローマのユダヤ人は、主立ったユダヤ人であるが、キリストの福音をまだ聞いていなかったようである。

 ということは、ローマ書16章に名前まで挙がっているローマのキリスト者は、ユダヤ人を含んでいるが、多くは異邦人であって、しかもローマのシナゴーグを経由しないで福音に回心した人が主だったのではないかと推定される。

 さて、パウロがローマ入りする時、ローマの兄弟たちは途中まで出迎えてくれた。そのうち何人かは名前も我々に分かっている人である。もちろん、ポテオリから手紙が行ったのである。ポテオリの人も随いて来てくれたであろう。兵卒も随いてきた。迎えた地点が2箇所ということは、街道沿いで目印になる場所を2箇所出迎える地に指定したからか、あるいは彼らが町の中で2つの群れとして集会を持っていたことを示す。

 パウロはアッピア街道を進んで行った。これはローマが凱旋道路として造成したものである。凱旋将軍は軍団を率い、捕虜の集団を連れてローマに入城した。それとは全然別の光景が繰り広げられる。パウロは凱旋将軍ではない。むしろ囚人である。ただし、パウロたちが小さき群れとして、恐る恐るローマに入ったのではない。

 Iコリント49節で「神は私たち使徒を死刑囚のように、最後に出場する者として引き出された」と言うが、そういう者として引き出されたと捉えるのが適切であろう。凱旋将軍に引かれて行く捕虜のように、キリストに囚われた者として進んだ。

 ローマの兄弟たちはアピオ・ポロか、もう少しローマ寄りのトレス・タベルネまで出迎えてくれた。アピオ・ポロはローマの65キロ手前、アッピア街道沿いの市場の町である。トレス・タベルネは三つの小屋という意味で、ローマまで45キロ、やはり1日の行程であった。2日掛かりで出迎えてくれた。

 「パウロは彼らに会って、神に感謝し、勇み立った」。合わせればかなりの群れになる。使徒のローマ到着を、主はこのようにして祝福したもうたのである。

 


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