2009.08.02.

使徒行伝講解説教 第147

――28:1-10
によって――

 

 
 マルタ島は小さい島であるが、古くから船乗りたちに知られ、フェニキヤの植民地であった。フェニキヤはイスパニアをも植民地にして、東西から地中海の海上交通を掌握していたので、マルタ島は旧約聖書の時代から重要拠点であった。後にこの島はカルタゴに征服され、カルタゴがローマと戦って敗れた後、この島もローマの支配のもとに置かれた。島民はフェニキヤ人の子孫が多かったらしい。まだフェニキヤ語を使っていたかも知れない。とすればヘブル語は或る程度通じたかも知れない。2節に「土地の人々は私たちに並々ならぬ親切を示した」と書かれているが、「土地の人々」というところに「バルバロイ」という言葉が使われる。未開人という意味に用いられることもあるが、必ずしも野蛮人という意味ではなく、ここでは土地の言葉しか話せない人、つまりギリシャ語を話さない土着の人という意味である。だからフェニキヤ語であったかも知れない。ただし、紀元1世紀のマルタは、すでにかなりローマ風になり、劇場や浴場も造られていたという報告もある。ルカの文章には、この島が未開の地と見た印象が伺われる。ただし、ルカは並々ならぬ親切に感銘を
 
 マルタ島という名が分かったのは、島民と接触して尋ねたからであるが、地中海を行き来する船員の中にマルタの名を知らない人はいなかったと思う。上陸したばかりの時には、島であるのかイタリヤの岬であるのかも分からなかった。 この集団の漂着と破船は島の人を驚かせたであろうが、この島民にちっては珍しい話しでなく、彼らはスグに事情を理解して、遭難者を親切に扱ってくれた。島の名も教えてもくれた。
 このマルタ島に同じ時期もう一隻のアレキサンドリヤ航路の大型船が冬場の悪天候を避けて碇泊していたことが11節で分かる。小さい島であったから、取り巻いている近海のことは良く分かり、人々はこの海域の海難事情をよく知っていたであろう。そして難船した人に同情し、非常な親切を示した。
 冬の間この島の交通は途絶する。小さい島に多数の難民が一時に押し寄せることは島民の生活を脅かすかも知れない。生活防衛のためには流入した難民が排除されることがあり得る。しかし、そういう不幸な事件はここではなかった。並々ならぬ親切さとはそういう意味を含むのであろう。
 季節は冬の初めであった。上陸した人々は海に入ったままの着物を乾かし、雨の降りしきる中で寒さを凌ぐために、取りあえず屋根の下に入るか、または屋根の代わりになるような物を作ったであろう。それと同時に、薪を集めて火を焚かねば寒くてたまらなかった。――これが海岸あるいは野外であったのか、屋根の下であったか、浜から最寄りの村落であったか、町であったか、我々には分からない。遭難者らは持ち物を全て失った上、全身ズブ濡れであるから、火を起こす道具を持つ人もいなかった。島の人たちが駆けつけてくれたから焚き火が始まったのである。
 そういうことで、島の住民が集まって来てくれなければ、当面生きるための処置は何も出来なかったであろう。二百人を越える人数であったから、一箇所にかたまることも無理で、小グループに分かれて焚き火を囲んだのであろう。島の人々は親切であったから、村あるいは町があげて遭難者を丸抱えしてくれたということかも知れない。
 全員無事かどうかの確認が浜に泳ぎ着いた時、先ずなされたはずである。「あなた方のうちで命を失うものは一人もいない」とパウロに言われて力づけられた人たちは、自分が助かったと分かった時、自分さえ生き残れば人のことを忘れてしまうのでなく、人のことを思いやったであろう。一緒にいた人のうち一人もなくなっていないかどうかに当然関心を持った。このように多数の人を掌握することに長けたのは、戦争の後で生き残りを数える経験を経て来た百卒長ユリアスであったであろう。そのお陰で全員の無事が分かった。
 この焚き火の時一つの奇跡が起こる。蝮がパウロの手に咬みついたのに、パウロは蝮を火の中に振るい落とし、それから何ともならなかった。そのため「これは神様だ」と土地の人々は言った。
 これは奇跡でないと主張する人がある。ルカの創作だと言われる。マルタ島に蝮はいないそうである。かつてはいたが、取り尽くされて絶滅したのかも知れない。あるいは毒蛇でない蛇が出て来たのかも知れない。だが、これが奇跡であるかないかを議論することには余り意味がないと思う。
 主イエスがマルコ伝1617節に「信じる者にはこのような徴しが伴う。すなわち、彼らは私の名で悪霊を追い出し、新しい言葉を語り、蛇を掴むであろう。うんぬん」と言われた。主が言われたのは「信ずる者は救われる。救われることの徴しはバプテスマである。そして、信ずる者が信ずることの力を示すのは奇跡である」という意味である。我々はそのことを信じている。全員が海から上がって来たことが信仰の力の徴しである。奇跡があったのか、なかったのかというような論議は問題外である。
 パウロが一抱えの柴を束ねて火にくべた。それは薪集めをして来て、それを火に投げ入れたことなのか。冬のために倉庫に貯えてあった薪を取って来たのか。それはどちらでも良い。彼がうずくまって焚き火に当たっていたのでなく、人々を暖めるために立ち働いていたことは見落とさない方が良い。ここまで導いて来てあげたのだから、私はもう座っていよう、と彼は思わなかった。寒さに凍えている人のため、ほかの人以上に働いていた。
 マルタ島の人々は、パウロが蝮に咬まれたのを見た。すぐ駆け寄って手当する人はいなかったのか。彼らは考えた。この人は海で命を落とすことは免れたが、次にこのような禍いに遭った。これは矢張り殺人犯ではないか。人には隠されていても、神は知っておられるから、人を殺した者は殺される。――そういう因果応報の観念と神観念を持って見守っていたようである。そして蝮に咬まれた人は死ぬという常識を持っていたらしい。
 そういう観念を抱かせる迷信的宗教があったのであろうか。そこまで調べることは我々には出来ない。とにかく、咬まれても平気で蝮を払いのけるだけで、天罰の証拠となるような変化が少しも現れないのを見て「この人は神さまだ」と言った。人殺しと思っていたのが神様に変わったのである。
 マルタの人々が神さまと言ったものがどういうものであったかについて、詳しく論じることは出来ない。「神」という言葉はギリシャ語で普通に言う男性か女性の神である。ギリシャ人ならば、昔話に出て来るチョットばかり目に立つ人は神々の仲間である。使徒行伝14章にルステラでパウロの奇跡に驚いた人々がパウロをヘルメス、バルナバをゼウスに見立てて大騒ぎを始めた記事があったが、マルタの人がどう考えていたかは分からない。4節のディケーの神と言われるものはギリシャ神話では正義の刑罰を行なう女神であるが、マルタの人たちがギリシャの神話を信じていたかどうかは分からない。パウロが神様だと言った場合、パウロを女神の化身だと思ったのではない。ユダヤの人々の神観念とは別であった。
 以上が漂着した当日の記録である。
 7節以下は翌日のことであろうか。あるいは、その日のうちに島の首長のもとに引き取られたのかも知れない。初めの日、遭難者を見掛けた人たちは、自発的に助けた。そして、蝮に咬まれても死なない超能力の持ち主がいるのを知って、畏敬の念を持った。次の段階ではその遭難者のことを聞いたこの島の行政の長が救援を命じたということであろうか。この島の行政がどうなっていたか分からないので、ローマの地方行政として考える人もおり、この島の首長というのはカルタゴ支配の制度が残っていたものと見る人もいる。
 この島の長となっていたのはポプリオという人だと記されているが、ラテン語でプブリウスと言ったのをギリシャ風にポプリオスと書いたものである。この名は明らかにローマ人のものであるが、ローマから来た人か、土地の人でローマ風の名を名乗ったのか、その見分けはつかない。
 彼が一行を招待して三日間もてなしてくれたというのは、首長の持つ資力によって遭難者を収容し、体力の回復を助けたということであろうか。地位のある人を客人として歓待してくれたのであろうか。そして首長から招待される地位の人とは百卒長ユリアスであろうか。あるいは島民の間で既に畏敬の念を持たれていたパウロを主賓とした招待であったのか。「私たち」というのは276人の遭難者全員を指すのか、パウロやユリアスを中心とした数人であったのか。それも分からない。三日間だけだったことは記録されているが、三日以後はどうだったのかも分からない。
 船の漂着したところの入江が後代「聖パウロ湾」と呼ばれるようになったことには先に触れたが、それは島の北海岸にある。そこから遠くない所にヴァレッタという町があって、昔からのもののようである。島の首長のいたのはそのヴァレッタであったろうと思われる。島民に助けられて先ず火に当たらせてくれたのも首長の領地であったであろう。首長の所有地というのは、日本で言うなら、昔の大名の領地に当たるが、土地があっただけではなく、村があったのではないか。あるいは広い地所があり、そこに首長の大きい屋敷があったのかも知れない。
 ここでの出来事としては癒しの奇跡が記録されている。病人のところにパウロが出向き、ルカも随いて行った。赤痢という病名が正確であるかどうか分からない。これであったなら伝染病だから被害が広がったのではないか。とにかく発熱を伴う消化器の病気であったらしい。病人の癒しはパウロによって、手を置くことを通して行なわれたが、それ以後の指示を与えたのはルカであったと思われる。
 このことがあって、島のうちの病人が続々とやって来て、みな癒された。福音書の中に描かれている主イエスの癒しの御業を思い起こす。ただ、マルタでは癒しに与った結果、神を讃美するようにはならなかった。「彼らは私たちを非常に尊敬した」と書かれているのは、癒しの活動をした人の中にルカも入っていて、ルカの場合は奇跡でなくギリシャの医術によって病人を癒したという意味であると考える人がある。そういうことは十分考えられるが、強調するのは行き過ぎであろう。彼らはローマを目指していた。船を失って一冬をマルタで過ごしただけで早く目的地に着きたかった。しかし、病に苦しむ人から請われた時には自分のことより相手のことを優先させた。
 進んで自分に与えられた賜物を人前で示そうとしなかったのは、行く先が決まっていたからである。マルタが遣わされた地であったなら、病人を癒すだけでなく、時を惜しんでキリストの福音を語っているはずであった。
 癒しの奇跡が行われた場合、通常、そのことで人々が神を讃美したと記録されるのであるが、この時はそういうことが書かれていない。使徒たちは人々に大きい感化を与えることを差し控えたようである。
 「出帆の時には必要な品々を持って来てくれた」とあるのは、一行の奉仕に島の人々が報いてくれたことを示している。報酬を期待して病人を癒したのではない。これは無償の奉仕である。島の人たちも海難事故で持ち物の一切を失った人々に、必要な物を贈った。

 


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