2009.06.21.

使徒行伝講解説教 第144

――27:9-12
によって――

 

 

 「長い時が経過し、断食期も過ぎてしまい、すでに航海が危険な季節になったので、パウロは人々に警告して言った、『皆さん、私の見るところでは、この航海では、積み荷や船体ばかりでなく、我々の生命にも、危害と大きな損失が及ぶであろう』」。

 パウロがこう言ったのは、断食の日が過ぎて、日一日と航海に支障を生ずることが多くなった時である。「良き港」と呼ばれ、船乗りの間では知られる碇泊地で無名の入江があるが、そこに入って天候の回復を待つうちに、もうかなりの日数が経過し、悪天候が漸く落ち着いたと見られたその時であろうか。それとも、まだ天候は落ち着かず、人々は廻りの景色に見飽きて、イライラし、早くここを抜け出たいと願った時であろうか。よく分からないが、大多数の者はこのまま冬中ここに留まるのを厭った。

 使徒行伝のこの辺りの記事を読んで行くと、パウロが10節の言葉を言い出したのに、人々がそれに反対して敢えて出航したかのように受け取られる。だが、実際を考えれば、そういう順序で事が運ぶことはないのではないか。船長と船主とで行動を決めるのが普通であろう。それに百卒長が了解した。大多数の者も同意した。船に乗る人は船長の判断に身を任せるのが決まりである。船長の決定に対してパウロが――本来は発言権もないのに――異議申し立てをした。黙っておられなかったからである。

 それでも、先ずパウロが一同に呼び掛けたのかも知れない。黙っておられなくて、みんなに呼び掛けなければならない思いがあったのかも知れない。

 このパウロの言葉を預言者的発言と言うべきであろうか。そう見る人もいるだろうが、ここで「私の見るところでは」と前置きしているように、パウロは自分の見解を述べただけである。この後に23節で言う言い方とはハッキリ違うのである。そこでは「私が仕え、また拝んでいる神の御使いが言った」と述べている。これは神が御使いを通して、言葉によって示された。ハッキリした啓示である。

 今「私の見るところでは」と言っている呼び掛けでは「積み荷や船体ばかりでなく我々の生命にも危害と大きな損失が及ぶであろう」と予告する。実際その通りになって、積み荷も船も失なわれ、人命だけは一つも失われなかったが、危うく失われるところであった。パウロはこの航海が極めて危険だと見ている。単なる憶測ではない。時期が遅過ぎる。幸い「良き港」に入れたのだから、ここで冬を越すようにすべきだ、との判断である。航海についての知識がパウロに十分あるとは言えないであろうが、すでに長く掛かり過ぎたから、ここで冬を越すのが良いと言ったのは良識にかなった発言である。

 ところで、その「良き港」と言われる場所はどこの入江か。船は北寄りの西風を避けるため、クレテの東の端を廻って南に出、南岸に沿って西に進み、波の静かな入江に入った。その入江は今もあるとのことで、これを調べた人がいて、書物に書かれており、細部まで分かるのだが、クレテ島の詳しい地図、あるいは海図が手に入れ難いので、それを使って確認することは今は出来ない。この入江は東に開けているそうである。そして西北の風から守ってくれる障壁となる陸岸がある。この地形では付近に人は住めず、真水の入手は難しい。東にあるラサヤの町とは8キロ離れている。

 時が何時であったかも詳しく分かっている。断食の日に掛かっていて、それは過ぎた。これは贖罪の日の断食で、レビ記16章に規定され、第7月の10日、今の暦では9月から10月頃になる。この年は断食の時期が遅く、10月の終わり頃だったらしい。

 季節の変わり目が来てしまった。この時を過ぎると、風向きが逆になり、西北の風になる。聖書に親しんだ人なら知っているが、冬に近づくと地中海からの風がパレスチナの陸地に吹き込み、雨を降らせ、種蒔きの時期になる。海ではイタリヤ行きの交通は逆風で危険になるから休む。冬を越してからでないと、西向きの航海は出来ない。

 「長い時が経って」――。「良き港」に籠っている間に長い時間が経ち、断食の季節も過ぎたのであろうか。それともルキヤのミラを出てから長い時間が経ったということなのかも知れない。とにかく、断食の日は過ぎてしまった。船乗りたちには断食の習慣もなく、断食の時については何も考えないが、ちょうど気候の変わり目の時であった。

 断食とは、旧約では必ず守るべき行事であったが、神のなしたもう贖いを覚えるために身を悩まして、悔い改めを実行するという主旨である。だが、それが見せ掛けの宗教的作法になっていたので、イエス・キリストは心からの悔い改めを求めたまい、形式を撤廃され、基本的には自由だと教えたもうた。これがキリストの教会の理解である。自由であったから、季節に囚われることはないが、厳粛な祈りを捧げる時は随時断食が行なわれた。だから、断食はあっても、断食の季節という言い方はキリスト教にはない。季節を言うのはユダヤ教で守られていた仕来たりである。

 この断食の期間、パウロが船の中でユダヤのこの慣習を守っていたかどうかは確かめようがない。同行するルカとアリスタルコも、異邦人キリスト者であるから、断食という仕来たりを守ったとは考えにくい。しかし、ユダヤの風習を異邦人キリスト者が受け継いだ場合はある。パウロその人に関しては、ユダヤ的な規則に従って誓願を立てたりしていたから、自分では断食を守ったかも知れない。まして今回の旅行は、その達成のために誓願を立てたと見て当然なほどの重要事である。断食して祈ったと推測して、行き過ぎではない。それでも、同行者にも守らせることは勧めなかったのではないか。断食期とここで言うのは季節の呼び名と捉えるだけにしておく。

 我々が今読んでいる使徒行伝の記事は「パウロの航海日誌」というような見出しを付けても良い部分である。ローマに到着することが目的であって、それまでの経過は一応省かれても良いと考えられる部分である。したがって、この部分に関して、ルカがかなり念入りに記録を書き残したのは、やや余計なことと見られなくない。まして、そのルカの記録をさらに掘り下げて、あれこれ論じるのは単なる物好きの仕業に過ぎないではないかと思われよう。

 その批評は当たっていると見ても良い。しかし、我々自身の日々の生活を思い見るならば、どれもこれも取るに足りない小さいわざである。それでも、その小さい一こと一ことを我々は疎かに扱わないで、祈って真剣に取り組むのである。それならば、パウロたちも同じであろう。彼らには海の上での一日一日が重要であった。裁判を受けるためにローマに行くのは、主の定めたもうた目標である。ローマに着かないうちに海難事故に遭ってはならない。単なる旅行者にはない緊張があった。

 「良き港」で冬を越すのは、ここが十分なゆとりのない入江であり、真水も得にくいから、いろいろな点で不都合である。せめてピニクス港まで船を進めて、そこで冬を越したい。船長と船主はそう決めた。その判断は当たっていると我々も思うであろう。それを百卒長ユリアスに相談したということのようである。この船は政府の御用船になっていたので、船長たちはユリアスの同意を得たようだと解釈されている。そうかも知れない。とにかく、パウロの意見を聞く必要を彼らは全く考えなかった。しかし、パウロにとっては主の定めの達成こそ最大要件である。普通の船旅ではなく、主が関わっておられる行事に参加している、とパウロは意識した。

 さて、ピニクスという港はどこか。名前から見て昔のフェニキヤ人が作った港であるに違いない。「良き港」からさらに西へ、クプロ島の東西の長さの三分の一ほど進んだところにあったようである。ピニカという町が今もあるということであるが、この町の載っている地図を手に入れることが難しい。また難点として「南西と北西に向いている」と書かれている条件に当てはまる港でない。さらに、南西にも北西にも開かれていては、冬の西風を十分避けられないのではないかと考えられるので、何かの書き間違い、あるいは写本の写し間違いではないかとも思われるが、ルカもピニクスは見ていない。

 ピニクスまでとにかく進もうという意見で船長たちは一致した。パウロはそれに反対する。同船している者の大部分が船長の意見を支持する。反対はパウロとルカとアリスタルコだけであったであろう。

 これは世俗の判断と霊的判断の対決であると考える人がいる。それは当たっているかも知れないが、当たっていたとしても殆ど意味のない議論である。同じことが我々についても言えて、御霊に導かれた我々の判断がこの世の知恵に優る、と主張することは、間違っていないと思われても、議論は慎んだ方が健全である。確かに、我々には霊的判断が与えられており、それを断固として主張しなければならないが、それは己れの救いに関わることとして捉えている場合にこそ正当に言える。例えば今日の天候について、信仰者の判断の方が不信仰者の判断よりも正しいという原理はない。

 この「良き港」を出てピニクス港に移ろうとする計画にパウロが反対したのは、自ら言うように、彼の判断である。ただし、主からの示唆が全くなかったと取るのは正しくないであろう。彼がここで「主から示されたのはこれだ」と言っていないからといって、主が何も示したまわなかったと断定すべきではない。ここまでのことを考えても、彼には彼なりに合理的に考えを進めているのが分かる。

 私の推測であるが、シドンを出て後、パウロには一つの懸念が生じた。この辺りの船旅についてキリキヤのタルソに育ったパウロにはエルサレムへの往復の経験があるから、或る程度知識を持っている。ルキヤのミラに入るまでに意外にも日数が掛かったのだ。クプロの島陰に風を避けねばならぬ季節は、早く来過ぎたのではないかと彼は感じた。それから後、例年の風の吹き具合と違うではないかと思うことが次々起こる。だから、「良き港」でこの期の航海を留め、春が来るまでジッと待つべきだと考えたのではないだろうか。彼は専門家ではないが、経験から合理的な判断をした。

 使徒行伝を読んで来たので、我々はパウロが航海について並々ならぬ知識を持っていたことを認めぬわけには行かない。しかし、当時の地中海航路の船長の持っていた航海の知識に遥かに優る知識がパウロに与えられていたと力説しても、論じること自体には殆ど意味がない。また、パウロが航海についての知識を甚だ多く貯えていたと我々が考えることにも意味はない。パウロがどうであったかではなく、主がパウロをどう導きたもうたかが重要だからである。

 船長たちがピニクスまで行こうとした判断は、結果として明らかなように間違っていた。その間違いとは、14節で見る「ユーラクロン」という突風が来ることを考慮に入れなかった点である。船長はユーラクロンの恐ろしいことは知っていた。しかし、この風がこの日に吹くとは思わなかった。この季節にこの風が吹くことはある。しかし、吹かない日もある。

 静かな入江を出て、一番近いピニクスまで行ってしまおうと決めたことは、落ち着きを失った判断でも、先を急ぎ過ぎた焦りでも、熟練に慢心したことでもない。自分の判断に限界があることを忘れていただけである。

 限界を見落としていることへの警告が、限界を超えた所から示される。だから真の知恵は限界の内側のことに詳しいだけでなく、限界を超えた所から聞こえて来る信号音や見えて来る徴しに注意深く、かつ謙虚でなければならない。

 ここではパウロの警告がその役を果たした。船長たちはパウロを特別軽蔑したのでもなさそうであるが、自分たちの知恵と知識の限界の外からの声を伝えてくれる者としてのパウロの存在に全く顧慮しなかった。しかし、後になって考えれば、パウロの助言を受け入れて置くべきであったことは明らかである。これは誰にも分かる平明なことである。だから、この後、同船の人々はパウロの言うことに従う。

 我々にとって大事な問題は、その道のヴェテランの知っている知識の限界の外からの指示を伝える特別な務めを、主が或る人に与えたもう場合がある、ということではないか。常時パウロにそういう務めがあったわけではない。だが、この時は確かに主の御旨がパウロを通じて示された。

 同じように、我々も専門家でないが特別な使命が負わせられる場合はあるかも知れない。常にそうであると思ってはならないし、その特別な機会が我々に分かると軽々しく考えてもいけない。だから、その道の専門家と言われる人だけに謙虚差が必要なだけでなく、門外漢である我々も十分謙虚かつ柔軟な姿勢で、主が送って来られる信号を読み取らねばならない。特に、神の国のための重要な使命が託せられている時、その使命を達成させるための特別な指示が与えられることはある。

 我々は久しい間「経済のことは経済の専門家に任せて置け」と聞かされ、自分でもそう思っていた。経済のことがオカシイと感じても黙っていた。そのことの当否を問題にすることは控えるが、知識の限界の外からの信号音が聞こえていたのに何も言わなかったのかも知れない。その反省は必要である。

 


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