2009.06.07.

使徒行伝講解説教 第143

――27:1-8
によって――

 

 

 使徒行伝は27章の初めから最後の部分に入る。パウロのローマ行きの記事である。ローマの外港ポテオリに着くまでは船旅が続く。記事は淡々と書かれている。我々もこれを淡々と読み、決して活劇の台本のように扱うことはない。しかし、次々と艱難が起こり、ついに破船する。それでも、最終目的に達するのである。

 これはキリスト者の、またキリスト教会の歩みを象徴していると見ることが出来る。我々はパウロの歩みを寓話とするのではないが、この航海を事実として承知するだけでなく、また苦難の果ての成功物語りと見るのでなく、神の摂理のもとにある選びの民の歩みを暗示していると感じさせられる。

 ローマには、パウロの心に特別な思いがあった。使徒行伝1921節で読んだところを思い起こす、「パウロは御霊に感じて、マケドニヤ、アカヤを通ってエルサレムへ行く決心をし、そして言った『私はそこへ行った後、是非ローマを見なければならない』」。マケドニヤ、アカヤの教会で献金を集めてエルサレムに持って行くという計画が出来た。だが、エルサレムに行くことには様々の困難が予想され、彼のためを思って、エルサレムに行くのを思い留まらせようとする忠告が人々からあった。だが、この道は御霊によって示されたのであるから、行かないわけには行かないと強引に進んで行った。そしてエルサレムに着いた後、思いも掛けずカイザルに上告しなければならないことが起こり、行き先はローマになる。そこで、これこそ御霊の導きであるとの確信がいよいよ抜き難いものとなった。この旅行計画は何としても行ってやろうという意欲ではなく、使命感による選択でもなく、この道を行くほか道はない。したがって前進しかない。

 乗船地はカイザリヤである。ここで見つけた船は、アドラミテオを母港とする船だと書かれている。その港に帰ろうとしている船である。アドミラテオというのは、エペソより北のアジアのムシヤ地方の港町である。我々には親しい名となったトロアスに割合近い、と言えば少しは身近に感じられるであろう。聖書にはここにだけしか出て来ない地名だが、港としては良く知られていた。船の大きさは後で出て来るアレキサンドリヤの船よりは小さかったと思われる。

 カイザリヤからこの船に乗って、6節の記事に見られるように、ミラまで行った時、イタリヤ行きのアレキサンドリヤの船が見つかったので、それに乗り換えたのである。それは、小さい船から大型の船に乗り換えたということなのである。カイザリヤには遠洋航海向きの大型船は余り来ないらしい。沿岸航路の小さい船にひとまず乗って、ムシヤに向かって行くが、そこまでの間に、なるべく早い機会に、出入りの多い港で、大型船を見つけて、それに乗り換えようというのが、恐らく百卒長ユリアスの最初からの計画であったと思われる。

 地中海の交通として、当時最も盛んであったのは、アレキサンドリヤからイタリヤに行く航路である。これはローマの穀蔵といわれたエジプトの穀物を、その主たる消費地ローマに運ぶ道筋であって、船便も多く、経験も蓄積され、技術も進んでいた。大型の船が用いられたので、それに乗った方が便利であった。ユリアスはそのことを良く知っていた。

 パウロを他の囚人たちと一緒にローマまで連れて行く責任者ユリアスという人は、近衛の百卒長であって、カイザリヤに駐留していた近衛隊の隊長である。彼の名前はローマ式である。ユリウスと読んだ方が良い。ユリアスは部下を連れて行くが、囚人の護衛と管理のためであって、必要な人数は多くなくて良いので、百人の部下全員を率いて乗船したとは思われない。彼の隊は近衛隊と言われるコホルス隊であり、近衛隊という名はカイザルから取った名前であるが、詳しいことは分かっていない。

 これまで使徒行伝には、百卒長の身分の人物が何人か登場する。先ず、もとカイザリヤの百卒長だったコルネリオが、御霊の導きによってペテロに出会い、カイザリヤにも異邦人教会が建てられることになった。使徒行伝に登場する百卒長の全てがキリスト者になったわけではないが、彼らは概ね実直で善良な人で、ペテロやパウロに対しては好意的であった。コルネリオの感化を受けたと見るのは想像し過ぎであるが、ユリアスもカイザリヤにいたのであるから、関連は考えられなくはない。

 ローマ帝国という巨大組織が老朽化して、構造としては各部分で疲労し、ほころび始めていた。上層部には幾多の堕落が見られたにも拘わらず、とにかく全体として安定が保たれていたのは、権力構造の実務を担う下級指揮官である百卒長の間で、誠実や勤勉の道徳が保持されていたからだと言うことが出来ると思う。この階層の中にキリスト教に心を寄せる人、またキリスト者になる人が割合いたようである。ユリアスもそういう階層の人物であった。

 他の囚人がどういう人たちであったかについては確かめることが出来ない。だが、パウロのようにカイザルの法廷に上告したので、そのためにローマに行くことになった人はおらず、別の事情であったらしく思われる。例えば、すでに刑が確定してイタリヤで服役するようにされた囚人もいたであろう。

 囚人ではないが、パウロに付き添ってローマまで行こうとする人がいた。医者であるルカと、テサロニケ人アリスタルコである。

 ルカが一緒に行ったというふうには書かれていないが、1節に「私たちが」と言われているから、この中にいたルカがこれを書いたと我々は断定することが出来る。これまでもルカはパウロと一緒に行動して、周辺状況をよく観察し、記録した。使徒行伝の中に「私たちは……」という形式で記述されているところは、ルカがそこにいたことを物語っているというふうに我々は読んで来た。この「私たちは」という書き方が、1610節から始まったと我々は気付いた。その前にルカがパウロの一行に加わったのである。それが何時であったかは、いろいろな人が様々に推測しているが、確定するのは困難である。今回の航海においてもルカの考察と記述の占める位置は非常に大きい。

 テサロニケ人アリスタルコについては、名を聞くことはあったが、その行動に立ち入って述べることはなかった。今度は触れて置かねばならない。この名を見た初めは1929節で、エペソにおける一つの挿話として、「人々はパウロの道連れであるマケドニヤ人ガイオとアリスタルコを捕らえて一斉に劇場になだれ込んだ」と書かれていた。この人がこの27章では、カイザリヤからローマに向かうパウロと行をともにしようとしているアリスタルコであることは疑いない。

 彼がパウロの同行者であることを始めたのはいつからか。それはパウロのテサロニケ伝道の時からではないかと推測される。ただし、17章のテサロニケ伝道の記事の中にはアリスタルコの名は見られない。彼は初めはテサロニケに住むギリシャ人で、町にあるユダヤ人の会堂に出入りしていたが、パウロの説教を聞くに及んで、すぐに回心して、間もなくパウロの同行者になったと思われる。エペソにも随いて来ていた。そしてエペソの騒乱のところでも見られたように、災難を受けたのである。教会の中心的な人物と見られたために迫害を蒙ることになったのだと思う。

 エペソで騒ぎで巻き添えを食って捕らえられたアリスタルコは、その後直ぐ釈放されたが、この後、エペソからはパウロがマケドニヤに向けて出発し、ギリシャに行き、そこからピリピ、トロアスを経てエルサレムまで行く。この間、アリスタルコはズッと随いて来たようである。教会の中でどういう役割を持っていたかについては分からないが、パウロと密着した関係を持つ同行者であり助手であった。

 パウロがローマに着いた後のアリスタルコの動静は、コロサイ書とピレモン書に見られる。コロサイ書410節には「私と一緒に囚われの身となっているアリスタルコ」と書いてある。アリスタルコが囚われの身になった理由はない。パウロと同じ待遇を進んで受けたのである。

 こういう顔ぶれの一行がローマに向けて出発した。愛し合い、信頼し合っている人たちであるが、協力して何かの機能を果たすということはなかった。

 次の港でパウロを迎え入れる人がいたのでるから、カイザリヤを出港する時、町のキリスト者が見送りに来たのは当然であろう。だが、盛んな見送りであったとも、悲壮感のただよう見送りだったとも書かれていない。この一行はローマを目指すという目的だけのために結合していた。

 さて、船は次の日にシドンに入港した。カイザリヤから150キロ程の距離である。シドンを出てからはそのまま北上して、キリキヤの海岸が見えたこところで、西向きに転じ、パンフリヤ沖を過ぎて、ルキヤのミラに入港する予定であった。

 シドンはツロと共にフェニキヤの港で、旧約の時代から有名な港であった。比較的早い時期にキリスト教会が建設された。それは1119節に「ステパノのことで起こった迫害のために散らされた人々は、ピニケ、クプロ、アンテオケまでも進んで行ったが、ユダヤ人以外の者には誰にも御言葉を語っていなかった」と書かれている通りである。ピニケすなわちフェニキヤは、シドンとツロを指し、この地方で、先ずユダヤ人がキリストを信じたのである。少し後、パウロとバルナバたちがエルサレムで会議を開くためにアンテオケから遣わされた時 、ピニケ、サマリヤを通ってエルサレムに行ったことが153節に書かれていた。

 もう少し後になるが、パウロがアカヤからエルサレムに行く時、21章の初めにパタラでピニケ行きの船を見つけたので、それに乗ってツロまで行き、その町で弟子を捜して7日間泊まった、と書かれていた。ツロにもシドンにも教会が出来ていた。パウロはそれを知っているのでピニケ行きの船に乗ったのである。

 船は今度はシドンに入ったが、海流が北向きに流れているということである。パウロはシドンのキリスト者と知り合っていたので、彼らを訪ねることをユリアスに申し出たのであろう。ユリアスは好意的に取り計らってくれた。これが3節に「次の日シドンに入港したが、ユリアスはパウロを親切に取り扱い、友人を訪れて歓待を受けることを許した」と述べられている事情である。

 シドンでどういう歓待を受けたか。歓待といっても、単なるもてなしではなく、世界伝道の将来を見据えた、極めて信仰的な交わりの時であったのではないかと考えられるが、詳細は書かれていない。

 45節に進む。「それから私たちは、ここから船出したが、逆風に遭ったのでクプロの島影を航行し、キリキヤとパンフリヤの沖を過ぎて、ルキヤのミラに入港した。そこにイタリヤ行きのアレキサンデリヤの船があったので、百卒長は私たちをその船に乗り込ませた」。

 船はアジアの幾つかの港に荷物を運ぶ仕事があったので、シドンから先は、目的地以外の港には立ち寄らないで先を急いだ。夜の航海は慣れていないので、港の沖に碇泊したであろうが、港に入って上陸することはなかった。シドンからは先ず北に向けて進み、それから西向きに方向を変えた。逆風に遭ったというのはそれからで、航海の妨げになる風は南西の方向から吹いたのではないか。だからクプロの島影に身を寄せれば、風の害を避けられたのではないか。

 何日も西に向かって走って、ミラに着いた。ミラはルキヤ地方の首都で、河口を少し遡ったところに港があって、貿易の盛んな港であった。百卒長ユリアスは見込み通りイタリヤ行きの大型船がいて、すぐそれに乗り換えた。エジプトから穀物を運ぶ船であるが、大きいものは長さ60メートルあったという。

 ここまでは一応順調と言えるが、ここから難航続きになる。78節がその苦渋に満ちた行程の最初の段階を示している。「幾日もの間、船の進みが遅くて、私たちは辛うじてクニドの沖合いに来たが、風が私たちの行く手を阻むので、サルモネの沖、クレテの島陰を航行し、その岸に沿って進み、辛うじて「良き港」と呼ばれる所に着いた。その近くにラサヤの町があった」。

 ミラはアレキサンドリヤからほぼ真っ直ぐ北に行く突き当たりのやや西にある。イタリヤ行きの船が通常まずミラに行ったと言うことではなかったと思う。普通は貿易風に乗って西に進んだのであろう。だが、この年は風の吹き方が違ったので、北に吹き寄せられたらしい。

 パウロたちの乗船後も風の具合は悪かった。幾日もの間船の進みが遅かったというが、向かい風に遭ったということであろう。クニドの沖合いというのは、アジアの海岸から幾らも離れていない所であった。サルモネというのはクレテの東部に北に突き出ている岬である。そこからクレテの南岸に出て、西に進んだようである。やっとラサヤの町に近い、船乗りの間で「良き港」と呼ばれていた天然の停泊地に着いた。使徒行伝の文字を読むだけでは実情は掴めない。ここまででは航海として最悪だとは言えず、まだ難船には至っていない。だが、かなり危険な旅が始まっていたことが分かる。


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