2009.05.10.

使徒行伝講解説教 第142

――26:24-32
によって――

 

 

 パウロの弁明、あるいは演説、いやむしろ説教がまだ続いているのに、フェストの大声の叫びがここに割って入る。この場面を生々しく捉えて興味深く語ることが出来るかも知れない。だが、劇的に生き生きと描き出したとしても、それで我々の聖書理解が深まることにはならない。
 フェストは、パウロがアグリッパに対して語っている論述を、妨害するつもりであったのか。そこは良く掴めない。「法廷で語る弁明として逸脱しているから、止めて置け」という意味が籠められているのか、そうでないのか。ここは判断がつかない。
 或る種の感動を覚えて叫び出したのかも知れない。ただし、フェストの常識を越えた知識についての判断であるから、これを「博学」の言葉で、それゆえローマ帝国の官僚として上級の位置にいるが、常識的実務家に過ぎないフェストにとっては、狂気の言葉としか思われなかったのであろうか。あるいは、フェストから見て非常に高度な勉強であるから、こういう勉強をし過ぎて、頭がおかしくなった、と思ったのかも知れない。
 前回のところで、我々はパウロの言葉を落ち着いて聞いて、これは必要な教理の要点を適切に整理したものである、と受け取った。たしかに、パウロが早速25節で答えているように、狂気ではなく、真面目な言葉である。ここは、真面目なと取るよりは、真理にかなったと取った方が良いと思う。
 フェストがパウロを狂人だと思い込み、侮蔑して、こういう発言は制限しなければならないと感じた、というふうに取るのは、軽率な行き過ぎた思い込みである。もっとも、博学な大家として尊敬したととっても、これまた事実から離れてしまう。
 博学と言ったのは、我々が普通の談話の中で使う博学とは意味が違うと思う。フェストから見て、知識が桁違いに大きいという意味だと取って置けば良いであろう。
 ところで「狂気」ということについてパウロはIIコリント513節でも語っている。「私がもし気が狂っているとすれば、それは神に対してである」。――彼は人からそう言われたのである。信仰にはこういう面がある。少なくとも信仰のない外部の人からそう見られる面があることは確かだ。けれども、彼自身がその所の続きの言っている通り、「気が確かなら、それはあなた方に対してである」と言う。狂ったと言われる信仰であっても、人に対しては冷静に、穏健に、人に分かるような言葉で対応するのである。今、パウロは極めて冷静に語っている。
 彼の論述は特にアグリッパ王に聞かせるために語られたのであって、フェストには分からないとしても、アグリッパなら分かる、という前提で語られたことは、26節で明らかである。
 アグリッパという人は、ユダヤ人ではないがユダヤで生まれ、ユダヤの地から遠く隔たったローマで幼い時から教育された。それでも、ユダヤを治める王としての資格をローマ皇帝によって認められたのであるから、ユダヤの宗教について、フェストよりも余程良く知っていたことは確かである。ユダヤ教の信仰を持っていたと断定することは差し控えて置くが、表面的にはこの宗教に帰依したことになっていた。パウロがアグリッパに或る程度の宗教的知識や理解力があると期待したのは当然である。その妹のベルニケがどうしてパウロの話を聞きたかったのか、そこは我々には分からないが、彼女には新しい宗教に関心があったことは確かで、アグリッパはそれほどではないが、ユダヤの宗教に興味はあった。
 それを知っていたので、パウロはここで踏み込んで、アグリッパを信仰に近づかせようと努めている。そのことは間もなく明らかにされる。ただし、支配者に神を信じる信仰を持たせることがパウロの努力目標だと考えていたわけではない。
 先ず王にキリスト教信仰を持たせ、次いで国民の全体にキリスト教を及ぼすという方法は、主イエスのお取りにならないものである。王の前に引き出されて、そこで信仰を言い表さねばならない日が来る、ということは主も教えておられる。だが、これは王に信仰の勧めをするために宮廷に招じ入れられるという意味ではない。王の前に立たせられるとは、裁判を受けることである。例えば、ダニエルが王の像を拝むようにとの勅令に反して、拝まなかった。そのため裁きを受けた。こういうことがやがて起こる、と主イエスは告げておられたのである。
 パウロがアグリッパの前に出たのは、そういう事情ではなかった。裁判ではあるが、国法、あるいは王の命令に反したために裁かれたのではない。ユダヤ人の有力者がパウロを訴えたために裁判になった。これは刑事裁判ではない。ユダヤ人の有力者たちが、パウロの存在を自分たちにとって有害であるとして訴えて、パウロを自分たちが抹殺するのを妨げないようにして欲しいと要求しているのである。
 すでに見たように、エルサレムでは百卒長ルシヤが、ユダヤ人の訴えではローマの法にのっとった裁判にはならない、と判断した。ルシヤがパウロを総督ペリクスに送った時も、ペリクスはこの裁判に関与しないようにした。ペリクスは任期一杯逃げおおせた。その職務を引き継いだフェストもこの裁判を嫌がった。ローマの法にしたがって裁判すれば、ユダヤ人の訴えにしたがって裁くことは出来ない。裁けば無罪になる。そえwgaユダヤ人には不満である。それを強行すればユダヤ人から嫌われ、統治がうまく行かない。
 フェストは、アグリッパ王がこの裁判に関心を持ってくれたことに期待した。アグリッパなら、ユダヤ人にとっては王であるから、サラリーマンとしての総督よりもハッキリした解決をつけることが出来る。すなわち、ユダヤ人は総督に支配されているが、総督の上にはカイザルがいるから、カイザルに訴えるぞと脅かすなら、ユダヤ人の要求を通さずには済まなくなる。かつて、ポンテオ・ピラトがナザレのイエスを裁いた時、ピラト自身は主イエスが無罪であると認めながら、最後に有罪判決を下さざるを得なかった。そのような弱みはアグリッパにはない。
 ただし、パウロはすでにカイザルに訴えると申し出ている。だから、アグリッパの法廷はあってもなくても、パウロはローマに送られることに決まっていた。――このカイザルの判決がどうなったかについて我々は確認をしていないが、パウロは無罪になったはずである。ローマの法では当然そうなるほかない。
 パウロが釈放されて間もなく殺されたため、彼の拘束が長引いて、裁判があって殺されたように受け取る人が少なくないようであるが、ローマにおけるパウロの死は、裁判に基づく死刑執行ではない。法的根拠のないネロの恣な殺戮行為の一種であった。パウロは斬り殺されたようであるが、同じ時代にキリスト者を円形劇場に引き出して、猛獣に食わせるところをローマ市民に見物したのと同列の不法行為であった。
 パウロがフェストやアグリッパに対して、謂わば「法廷闘争」をしたのは、自分の安全や権利を守るためではなく、キリスト者たちのため、すなわち彼らがこの世において、多数者から嫌われるという理由で抹殺されることがないように、法的保障を得るためであった。
 ユダヤ人の暴力を受けて死んだとしても、パウロ自身としては一向に構わない。だから、いちいち裁判を起こさない。しかし、信仰の兄弟たちが、信仰者なるが故に殺されて行くことを、この世の国々の秩序として定着させてはならない。すなわち、国々に王やその他の為政者が立てられて支配することを神が善しとされたのは、人々の安全と平和を守るためである。
 ローマ帝国が帝国の威信を守るために皇帝礼拝を行なえと命令し、この法規を守らないという理由でキリスト者を殺すことが行なわれるように間もなくなる。ヨハネ黙示録の書かれた時代がそうである。そういう成り行きが地上の権力の行き着くべき到達点だという解釈をする人がキリスト者の中にもいる。だがこれは間違いである。聖書は上にある権威に従うべきだと命じる。ダニエルの例に見るように、ダニエルは神の定めに反することを行わせようとする王の命令には服従しなかったが、原則としては王の権威に従っているのである。パウロも同じである。ただし、それは王に神から命じられている本来の務めを守らせることであって、無条件に従順になるというのではない。
 26節の言葉に入って行く。「王はこれらのことを良く知っておられるので、王に対しても率直に申し上げているのです。それは片隅で行なわれたのではないのですから、一つとして王が見逃されたことはないと信じます」。
 今パウロが述べたこと、特に彼の説いた教えの眼目は、預言者の教えの続きとしての預言の成就であるから、ユダヤの王とされたアグリッパならば理解していなくてはならないことだと言うにある。
 これはアグリッパにとって無理な要求ではないのか。――パウロはそうでないと思っている。一つには、王が王であるのは神の許可があるからであって、神の許可によってユダヤ王の権威を持つ者には、ユダヤの歴史と原理について、それだけの理解と認識があるはずである、と論じるのである。それともう一つ、アグリッパの行動を実際に幾らか知っているから、こう言えたのである。アグリッパはユダヤ人ではないが、ユダヤの宗教をユダヤ人と同じように重んじていたことが知られている。
 「それは片隅で行われたことではない」。「それ」というのは預言者の語ったこと、その預言の成就、つまりイエス・キリストの事実、さらにパウロの身に起こったこと、そしてパウロの宣教活動、それら全てが世界の片隅で行われたのではない。王たる者はそれを良く見ていなければならない。
 ここから同時に、福音のために召された者は、世界の主であるキリストの代理人として世界の中に置かれていることが導き出される。したがって、福音に仕える者の言葉と行ないは、隠れることが出来ないのである。職務として公けになされる宣教と行ないが隠れるところのないものであることは言うまでもない。もっとも、公的な職務である言葉と行為が、私的な言葉また行為と区別されるのは当然である。だから私生活についてまで報告の義務はないと言われている。それはその通りであるが、神が隠れたことをも見ておられるのは確かであり、福音は福音に相応しい器を通じて公布されるのであるから、私的な面においても、それが常に明るみに出ることはないとしても、神は知りたもうし、福音の宣教に対立する権力者らは、隠された面をも探るのである。だから、福音に相応しくとは、目に見える面で辻褄が合っておれば善いということではなく、隠れた面にも及ぶ相応しさが考えられなければならない。
 パウロはアグリッパが全てを見ていたかのように言うが、アグリッパが全てを見ていたというのは無理ではないかと思われるかも知れない。しかし、パウロの側として、全てが見られているという覚悟があった。
 さらにパウロは王に「あなたは預言者を信じるか」と問い詰め「信じていると思う」ときめつける。そのように断固とした確信をもってアグリッパに迫ったのは、アグリッパが預言者を信じているらしく振る舞っていたからであろうと思われる。
 パウロから問い詰められて、たじたじとしながら、アグリッパは「お前は少し説くだけで私をクリスチャンにしようとしている」と防戦している。この言葉は「お前はもう少しで私をクリスチャンにしてしまうところだった」と取る人もいる。 パウロの言うことが或る程度分かって恐れたようである。まともな反論は出来ないで、言葉が少な過ぎるというような揚げ足取りで答えている。
 「預言者を信じるか」と問われたことは、では預言者を信じるからには預言の成就を確認するほかないということ、つまり預言の成就としてのキリストを受け入れるほかないではないかという結論になることが分かっているのである。ただ、理詰めで押し切られて受け入れることと、信仰によって受け入れることとの間には大きい距離がある。だから、パウロも牛を牛舎に押し込むようにしてアグリッパに信じさせても良くないと見ている。
 キリストを信じる信仰については、人々は必ずしも受け入れたわけではない。しかし、こと裁判に関してなら、人々はパウロの言い分がもっともだということを認めた。信仰に入ったということとは全然別であるが、彼に殺されるような罪がないことは認めた。それはこの世の秩序の事柄であるが、信仰者が信仰の故に生存を許されぬということは本来あってはならない。

 


目次へ